32ヶ月め

レンゲ004 小
今日は2011年3月11日から2年8ヶ月
976日め
32回めの11日です

10月の終わりのころ
伯父が往生しました

大正生まれで89歳

群馬の赤城山の南麓の日当りが良い土地の
米作と養蚕を中心とした農家を継ぎ
副業としてダイハツのセールスマン(?)をしていた人

ボクの両親は共働きで
小さいころは伯父さんの住む「ばーちゃんち」に預けられていて
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そこで経験したり見たこと
お百姓仕事や家事の手伝い
田植え、草刈り、刈り入れ、井戸水汲み、糸巻き、餅つきなどなど
リアカーや軽トラックに載せてもらったり
夏の午後に蝉時雨や山鳩の声や屋敷森を抜ける風の音聴いてたことや
冬の凍てつく寒さや夜の闇の深さに恐れたこと
田んぼや畑や清流で出会うものすごい種類の生き物や植物などなど

そんな経験が歳を重ねるごとに
心の中で豊かな財産として育ってくれてるなあ〜と

そんな豊かな記憶の中で伯父は
いつも調子の良いことを言ってはみんなを笑わせて
よく食べデカい腹を自慢し
なにか理由をみつけては酒を呑み
ハイライトをふかしまたオカシなことを口にして
誰にはばかることもなくその辺にゴロリと横になり
寝ていた
(こんなんで89歳。世間でもてはやされている健康法ってなんだ?)

いつも「こづかいやるで」と言ってくれるんだけど
もらったためしは無いし

幼稚園帰りのボクをみつけて「乗っけてってやらー」と
軽トラックの助手席に載せてくれるのはいいけど
誰かの家に立ち寄り「ちょっと待ってれや」と放っておかれること
2時間だったり、、
(沖縄の「テーゲー」はボクにとってはデフォルトだった)

この人はどうやって生きているのだろうか?ってね
子供心にも不思議に思ってたなあ〜
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そんな人だけど
失ってみると「花のような人だったな〜」と
田んぼの畦に咲いていたレンゲの花を描いてみました

時代は日本の高度成長期が行き着く手前
1970年前後のこと

ボクの伯父さんは
自然を相手にお百姓として技術と経験を発揮しながらも
ダイハツのセールスマンとして働き
なんだかエレガントな暮らしをしていた

日本は1970年に減反政策というのを始めるんだけど
ボクの記憶の風景もその頃を境にちょっとずつ歪んでゆく

それまで目にしていた一軒の農家を巡る風景は
朝昼晩や春夏秋冬が明快で
自然と人の暮らしが織りなすコントラストが実に美しかった

ある日
いつも遊んでいた小川に青い液体が流れてきたことがあって
米を作らないで一年放っておかれて
冬に土ぼこりを上げている田んぼあることに気がつき
黒い煙をあげて畑で焼かれているものから鼻を刺す臭いがしたり
下校時間に飛行機から散布される農薬をあびたり
そうこうしているうちに川の水はさらに濁り
ゴミが流れを塞き止めたりもして
レンゲの花もなんも除草剤でやられてたなあ〜

そうすると
そこで暮らす人たちが
以前よりせわしなく動いているように感じたり
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今振り返ってみると
ボクの「昭和」って1970年から1985年くらいを指すもので

それ以前は
「江戸時代から続く生きる知恵を持った昭和」だったんじゃないかと

お百姓仕事の多くが
江戸時代(もしはそれよりもっと以前)から伝わる技術を駆使して
成り立っていたはずなんだけど

国の政策として
グローバルな経済圏にあって、そういった技術は非効率なものだと
ならば国庫に負担をかける米作は、ある程度の保証は約束するからやめとけ

そんな決定が農薬と一緒に降ってきたって感じなのかな

それは
生きるための技術を手放すとともに
お百姓というライフスタイルを失なわせることでもあったように思う

いやいや
お百姓仕事の大変さについて
当時はまだちっちゃくて役立たずだったボクが
ただ「あの頃は良かった」と語ってしまって良いものでは無く

たとえば
伯父さんの葬儀に集まったお年寄りの方々で
背中が丸まっている人が少ないのに驚いたわけで

長年のお百姓仕事で背中が曲がったじいちゃんばあちゃんが
列をなして集まるのが
以前の田舎のお葬式の風景だったはずだけど

農業の機械化効率化は
お年寄りの姿勢をまっすぐに保ってくれたし
伯父を89歳まで生かせてくれたのかもしれないなあと

そんなことに目配せしながらも

やはりボクは美しい風景を失ったことを悲しく思うんだ
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伯父の斎場に向かう田舎の道は
あの頃と変わらぬこともたくさんあったけれど
「変わってしまった」というより
「朽ち果ててしまった」という印象の景色に出会うことが多く
それに心をグサグサ刻まれちゃってね

2011年3月11日に出会ったこと
その喪失感は

1970年あたりからボクが失ってきたもの
それを超高速の早送りで見せられたんじゃないかと

伯父は人生の最後でボクにそれを気づかせてくれた

東日本の痛みは間違い無くボクの痛みであり
その喪失からなにを創造してゆくのか
東京に在ってもボクには責任があるように思うし

ただ
今まで通りの経済効率を優先した社会は
違うんじゃないかと
確信にちかい感覚を持って思うんだな

そしてあらためて
大震災と原発事故による痛みは
1人ひとりの痛みや喪失が積み重なったものだってこと
その基本を持って創造を続けなくちゃだ

今でも2651人の人が行方不明だという976日め
これが1000日めとなっても
「一区切り」なんていう誤った考えに溺れないようにしなければならない
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