‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

162ヶ月め

2024 年 9 月 11 日 水曜日

今日は2011年3月11日から4,933日
704週5日
13年6ヶ月
162回目の11日です。

福島県の飯舘村のフィールドワークで描いたスケッチで映像を作りました。
映像に添えた曲はハルカストリングを主催するギタリストファルコンの「美しき様々の夢」
歌は盟友 Eri Liao 、スケッチに登場するのは祐香さん

2022年9月に初めて訪れた福島県の飯舘村。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15465

自然エネルギーの発電会社飯舘電力とのアートプロジェクトのため案内された飯舘村では、飯舘電力の千葉さんが熱心に村や自然ネルギー、原発事故の被害についてレクチャーしてくれました、

しかしその情報量の多さ、そもそも被害の重篤さ、未来の想像しづらさに、自分は混沌とした荒野にポンと放り出されたような感じで、なかな自分の言葉が思いつきません。

電力にまつわるマッチョなイメージから脱却し、サスティナビリティと紐づく電気への更新など、飯舘電力としてだけじゃなく、日本の社会のあり方も考える必要がある中、自分は飯舘村や飯舘電力をモチーフとして何を描けばいいのだろうか?

それでもその土地に暮らすだれか1人と親密な関係が構築出来たら、これまで東北の被災地と呼ばれる土地でやってこれたようなこと、自分の言葉で語る作品制作が出来るはずなのですが、あれから10年ちょっとの『帰宅困難区域の解除が進み始めた』というフェーズの飯舘村では、まだ難しいことに思えました。

そこで、誰か自分以外の1人と飯舘を歩くことで、自分1人では得られないことに気がつけるんじゃないかと考え、初めての飯舘村から半年後、2023年3月13日、福島生まれで、震災後志を持って故郷の力になることに尽力してきた祐香さんにお声かけし、飯舘村のフィールドワークにお付き合いして頂きました。

2023年3月ボクは東日本大震災発災から12年の11日まで、東京都内で7回目の開催となる「東日本」と名付けた展覧会を開催していました。


明けて12日に福島市に移動。
祐香さんの活動の拠点のひとつ、食堂ヒトトで福島の仲間と再会。
これから自分が発想し実行することにどんな形でも良いので、ご協力頂けるようお願いしました。

ヒトトは震災以降福島の人に請われて生まれた食堂。

福島生まれの米や野菜を使った料理は、動物性の素材を使わないものですが、ガッツリ力強くとても美味しいです。
そんな店は隣のギャラリーで、お店で使う食材の生産者をピックアップした展覧会を開催していました。

展示に関わるほとんどのものが手作りの展覧会は、展覧会慣れしている自分にとってもとても新鮮なもので、この場所で多くの時間を過ごし、ヒトトに関わる人にとっての福島を心に沈めました。

この日は震災以降長く続けられているイベント、ASYLUM 2023 in Fukushimaが福島市郊外の正眼寺で開催されているとのこと、自分の音楽関係の仲間も関わるイベントに初めて参加することが出来ました。

震災と原発事故発生から今に至るまで、悲しみや怒りの炎が燃え続けている現場。
そんな感情以上に12年の憤りのようなものをより感じた時間。

突然友人のとんちピクルスにステージに上げられたので、しょうがねえ、悲しい唄をひとつうたいましたよ。

あくる日の朝、祐香さんにピックアップしていただき飯舘村へ。

お互いの近況を確認しながら、たまにパラつく雨の福島の中通りから山間の道を浜通り方面、50分ほどで祐香さんにとっては初めての飯舘村へ到着。

特別目標も決めず村内をめぐり、気になる風景があれば写真を撮る。
それだけのことだけど、誰とどんな会話をしているかで、風景は違って見えます。


祐香さんは目の前の風景の何を見ているのか?
そんな興味は自分に新たな視線を与えてくれるのですが、実際彼女が何を見ているのかは想像するばかりで、言葉で訪ねるようなことはしないでおきました。


そもそも新型コロナウイルスが5類に移行される2ヶ月前で、マスクをした顔の表情がわからないのです。
スケッチは後日、このフィールドワークのイメージから想像し、顔を描いています。


彼女との出会いは2009年だったでしょうか、
栃木の那須のSHOZO COFFEE が運営するアパレルショップ、04STORE のスタッフとして働かれている時でした。

SHOZO の美意識に惹かれていた自分は,04STOREで1枚のTシャツを買いました。その時対応してくれたスタッフのお姉さんが実に丁寧で、アパレルショップが苦手な自分が、そこにいることに居心地の良さを感じてる。買おうと思って手渡したTシャツを、またまた実に丁寧に畳んで、丁寧にラッピングし紐をかけて、クルッと回して、とんでもなく大切な何かを差し出すようにボクに手渡してくれた。経済的な効率とは縁遠い丁寧な所作。その一部始終が店の窓から溢れる西日の中でキラキラ輝いて見えて、自分はここで何を買ったんだろうかって、ぼーっと考えちゃってね。
そのスタッフのお姉さんが祐香さんで、ボクは彼女に恋したようのこと書いているけど、いやいや、なんだろ…

それはきっと、自分は自分の仕事にそこまで丁寧に向き合えているのか?という自問なんだろうね。
(ボクは男女問わず働いて綺麗に見える人全てが年上の先輩に思う習性があるしね)

SHOZOのオーナー、菊池省三さんと接した時もそうだけど、今自分が描いている絵は、はたしてこの人が働いている現場に飾れる価値のあるものなのか?みたいなことを自問し、自分の描く絵を見つめ直し更新させなくちゃと思った。それを実現させるためになのか「このTシャツは今後この店だけで買おう」と心に誓ったりもしたのです。

そのTシャツは湘南の葉山で作られ、代官山でも買えるのだけど、家から200km離れたこの店で彼女から買うことに意味があるんだろうってね。


そして2年後に東日本大震災が起きて、原発事故が起きて、SHOZOのある栃木も、自分が生まれた群馬も、それぞれ被害を被り、まず自分が東京から向かったのがSHOZO。
そこを足がかりに福島へ、さらに北へとボランティアやフィールドワークのエリアを広げていったのですが、原発事故に対してはアプローチの糸口がどうしても見つからなくてね。ネットを除けば持論の石礫を投げ合うような風景ばかりで、そこにリアリズムを感じられず。自分はそうした先回りした主張に振り回されることなく、自分1人のサイズで受け止め語れることを手にしたいなと。福島ではまず誰か1人との確かな関係性を得ることを優先させました。

ところで、ある日SHOZOから祐香さんの姿が見えなくなって、どうしたんだろうかと。


2016年、ボクはSHOZOから「那須の花を描いて展覧会を開催してくれ」とのオファーをもらい、
立春から初夏にかけて何度かSHOZOに滞在していました。

そこで今は故郷の福島に戻っているという祐香さんと再会。

そのそもあなたは福島県出身の人だったのですね。
そんな今更な会話から、今彼女は震災以降深刻な状況に置かれた福島の力になりたいと願い、福島に戻る決断をしたんだと教えてくれました。

「あの日のTシャツ」に感動した話をすると「いやいや、あれはただ緊張していただけですよ」と謙遜する彼女でしたが、ボクはあの日Tシャツを丁寧に畳んで渡してくれた人ごしに福島を見たらいいのだろうと直感。福島での再会を約束しました。

その年の夏に祐香さんからメッセージが届きます。

今度福島市に出来る食堂ヒトトのオープニングスタッフを務めることになったとのこと。

吉祥寺でマクロビオテック・ヴィーガンの店として有名だったヒトトが閉店するということで、店主であり日本の古来種の野菜の種から育てた野菜を大切に考える奥津さんに対し、「福島を自分たちが望む姿に育てて行きたい」と望む福島市のグループがオファーをし、福島に誘致。
その店長候補として白羽の矢が向けられたのが彼女だということです。

原発事故以降、食や健康に不安を感じる人が少なからずあったであろう「あの日から5年の福島」で、ボクは祐香さんの周りで起きていることは、とても真っ当な発想だろうと思いました。いや、もしかしたら日本で最も新鮮な何かが福島で起きようとしている?

実際、祐香さんから紹介される福島のコミュニティの人たちの顔つきがいいんだよね〜。
そして、震災と原発事故から5年間、考えて、考えて、考え続けてきた人たちの発想は、やはり東京より未来にあるように思えたのです。


その年、2016年の11月末、ボクは雑誌「暮しの手帖」で『5年後の被災地を巡る取材旅』に出ます。

2011年3月11日から親交を深めた宮城県気仙沼唐桑を目指す途中、福島市で立ち上がったばかりの食堂ヒトトに寄りました。その頃からボクは福島に足繁く通うになり、徐々に増えていった仲間と「最近どう?」なんて会話を交わし、1人ひとりの実感としての福島を知るようになります。


2016年、そういえば3月に初めて会津に行ったの年でもあります。

そして2017年、ついにこの飯舘電力のプロジェクトも進めてくれている、福島県立博物館の学芸員チームとの知り合い、奥会津エリアの子どもたちとのアートプロジェクトも始まります。

そんなこんなの展開があっても未だ原発事故を肌感覚で掴むには至らず、これに関してはともかく自分のペースでじっくり確かに受け止め、自分の言葉で語れるようにしてゆかねばと。
いや、こうした事が言語化出来たことだけでも、ここまでの人との繋がりは有り難たいし、自分らしく確かな行いである実感は手にできたはずです。


2016年からもう8年が経った今、祐香さんもボクもそれぞれ色々あったね〜。

彼女はヒトト立ち上げからしばらくして、ヒトトに関連した都内での仕事に就くも、また福島に戻り自身の焼き菓子ブランド「コケス」を立ち上げます。それは彼女と出会ったき生産者さんの素材を作った「The食い物」と言えちゃうくらい美味しく豊かな食べ物だとボクは思います。そして、福島市を代表する果樹園”あんざい果樹園”を手伝ったり、彼女なりの福島への貢献を実践している。


飯舘村でのフィールドワークの帰り道は土砂降りの雨。

だよね、ちょっと来たくらいで分かった顔すんじゃないぞ!そんな雨だろう。

福島市に着き、飯舘電力本社へ。

前回のフィールドワークでお世話になった千葉さんに祐香さんを紹介する。

そして、なぜ自然エネルギーの電力会社を立ち上げたか、から今ある課題までを一気に話してくれた。

その多くが祐香さんの知らないことだった。

しかし飯舘電力も、福島市で実り始めている街のコミュニティと接続しておらず、千葉さんと祐香さんの間にあるもの、そして無いものを考えることが、自分の仕事になりそうだと思いました。


ひとつ浮かんだのは、
大手でも飯舘電力でも、もしその現場に「1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれるような人」がいたら、自分が使う電気はどんな色に見えるだろうか?
そんなこと。

その日「おつかれさま〜」と蕎麦屋で蕎麦を食べていると、祐香さんが婚約したことを話してくれた。

やったね!1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれた人。

そしてボクの福島での物語は、ここからさらに深みを増し、
サスティナビリティのイメージはさらに淡いピンクに染まる。

2023
0313
PEACE!!

 

 

161ヶ月め

2024 年 8 月 11 日 日曜日

今日は2011日3月11日から
4,902日
700週2日
13年5ヶ月後
161回めの11日です。

8月8日に日向灘を震源とする最大震度6弱の地震が発生しました。

9月に宮崎県で展覧会やワークショップを開際する話をしていたところで、
現地の人たちのことをとても心配に思っています。

その次の日には、神奈川県内陸部を震源とする震度5弱の地震も発生。

その時は外で家族と食事をしていた時だったのですが、
すぐ情報を収集し、お店のスタッフや周りのお客さんと「落ち着こう」と声掛けあって、

そうした振る舞いは東日本大震災の経験があってこそなわけで、
自然災害を避けるのは難しいことですが、
その時どう振る舞うべきかは、日常のあらゆる場面で考えておかなくちゃと、
家族と確認しました。

掲載した動画はハルカストリングスの「夢は止み 過ぎゆく 春のかけら」
自分が初めて撮影&編集をしたミュージックビデオです。
ハルカストリングス instagram

ハルカストリングは、昨年アルバムとデジタル配信シングルのカバーアートを担当。
福島県飯舘村の風景をオマージュしたアートワークは、
震災以降自分が作ってきたものが集約された仕事になったはずです。

ハルカストリングのヴォーカルを担当するEri Liaoさんは、
2017年の5月の夜に突然「アルバムジャケットのアートワークをやってくれ」とメールをくれた人。

台湾の原住民タイヤル族にルーツを持ち、10歳より日本で暮らすようになり、
東京大学からアメリカのコロンビア大学と学び、その際JAZZを歌うようになり、
日本に戻ってからは、台湾、中国、沖縄、日本などなどのルーツミュージックも取り上げ、
とても大きなタイム感で歌人とです。

そんな人の歌を表現するためにはどうしたら良いのか、しばらく考え込んで、
和紙に着彩し、カッターでフリーハンドで切って、コラージュして、
音楽そのものようなものを作りました。

自分の創作は、自分の「描きたい」より、描く必然に出会うことで生まれるなあと。

大震災というとてつもなくネガティブなことと向き合い、ささやかなものを作り続けた先で、
ネガティブな状況の中にわずかでもポジティブなものを見つける目が育ったのかなと。

それが、人との出会いの中でみつかる「描くべき」テーマと掛け合わされ、
さらに自分が生きてきた時間と掛け合わされ、思いがけず何か美しきものに昇華するんだろう。

今回のミュージックビデオも、そんな必然を直感出来た歌に出会えたことで、
これまで作ったこと無いけど、これは自分が作るべきだと直感し制作した映像です。

ほんと自分は多くの好き人に出会い、多くのインスピレーションを頂き、
それをイラストレーションや絵画というもの昇華してこれたけど、
これからはさらに、手段はなんでも良く、ただ何か美しきものを創ってゆくんだなと。

生きてる限り突然の自然災害で大切なものを失う可能性があるからこそ、
もしくは、世界にはポジティブなことが全く見つけられそうも無い事態が進行しているからこそ、
日々何を大切に生きてゆくべきか考え続け、
ささやかでもいいので、何か美しきものを創ってゆこうと思うのです。

160ヶ月め

2024 年 7 月 13 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,871日
695週6日
13年4ヶ月
160回目の11日です。

あれ?あの日からまだ160ヶ月しか経ってないんだと思った昨日は、
(「今日は」と綴りつつ、今は12日です、、)
朝4時半から湘南藤沢で撮影。

自分がとても大切に思っている音楽ユニットのミュージックビデオを、
「あの日」から経験してきたこと結集させたら、何か良いものが作れるんじゃないかとという確信の元、
ともかく撮影することにしました。

実際、映像の構図が一瞬で決まる感じは、これまで自分が出会ってきたものが教えてくれるなあ〜と。
この作業はAIで生成出来ないものだと思います。

あの日から160ヶ月後の自分は、本格的に自分の東日本での経験を社会と共有するフェーズに、
やっと、ほんとやっと、なってきたんだろうなと思いました。

うん、焦って安いこと、出来もしないことやらずに来て良かった。

撮影が終わったら藤沢から小田急線で渋谷区地元へ。


息子卒業小学校の今年の1年生のタブレット学習の最初の一歩で、
クラスの先生ひとりではての回らない「タブレットのオペレーション」を、
ご近所の大学生に来てもらってサポートしてもらう作戦のコーディネート。

学校運営協議会の会長という立場で、学校をサポートする役割として去年から提案。

この仕事、きっと自分がやっていることの中で最上位で有意義な取り組みなんじゃないかと。

半年後にはオペレーション方法が変わったいる確率の高いITガジェット。
大切なことはともかく触って楽しみこと。

なので「どこを押して立ち上げてどこにPW入れる」みたいなことを「学ぶ」が目的ではなくて、
ともかく使って学びの道具にしちゃおう!なわけです。

で、
先生のレクチャーを秒で理解し、「わからない」って子に素早くアプローチ出来る大学生たち。

未来の子どもたちの学びのスタートライン、明快に感じられる、朗らかなITの時間でした。


の直後に「学校運営協議会」
「コミュニティースクール」と訳され語られる、
学校と地域とで連携を図り、学校や教員だけでは厳しくなっている学校運営を助け、
学校を地域のハブになると共に、地域で子どもたちを育てるようなシステム。

これは全国的に進められているシステムですが、
その運営には地域差があり、
東京都渋谷区が日本でもかなり先進的に進めている中、
自分が長を務めるこの学校は、さらに活発にこのシステムを活用しています。

この日は夏休み明けのタイミングで、
夏休みで生活リズムが変わった子どもたちが、緩やかに朗らかに学校生活に戻れるよう、
学校を「楽しい居場所」として開放するという企画「ワックワックとみがや」の企画会議。

PTAから子どもたちが校庭でびしょ濡れになって遊べる、水風船や水鉄砲のバトル企画が浮上。
学校からは昨年に続き「夜の学校探検」が、今年は上級生を主催者として呼び込んで開催するかもと。
その他、学校の授業では考えられないコンテンツを、いい大人がみんなで笑顔で考え、
その適切なオペレーションを導き出したりしているわけです。

こうしたことこそ、震災以降の東日本で、ていうか、日本で必要とされていることだろうと確信し、
まずは息子卒業の小学校に居残って、学びと実践を続け、
実は、こうした活動がイラストレーターとしての仕事にも、ものすごくプラスな力を与えてくれているんよ。


で、夜は代官山蔦屋書店へ。
輪島の塗師、赤木明登さんがトークショーをされているとのこと。

赤木さんやその周りの人と出会ってちょうど1年。

そして、能登半島地震から半年ちょっとの今、
ぜひ会っておきたと思い、駆けつけました。

ともかく!
能登半島地震に真正面から向き合い、
輪島塗りの灯を消してなるものかと奔走する姿を魅せて下さる赤木さん。

そんなに頑張ったら死んでしまうのでは?と懸念さえしてしまう、その原動力は、
果てしない知への欲求なんだなあ〜と。

語らえるひと言ひと言が、その瞬間自分の血肉なるような感覚。

「人のため」と思われることも、結果「自分のため」に帰結し、
しかし、それは次なる「人」にフォーカスしてゆく。

伝統工芸の方ではあるけれど、
イラストレーターとして生きる自分が絶えず視野に入れておくべき背中が、
やっぱデカく見えたんよ。。

で、
幸せすぎた能登との出会いの中でも、とても確かな手応えの記憶を残してくれた、
赤木明登さんの美意識に惹かれ、赤木明登さん専属の編集者になるべく上海から能登にやってきた
イーウェンさんとの再会は、うれしかったなあ〜!

彼女との会話で確信出来たのは、
「人は美意識で生きていいんだ」
そんなこと。

能登は今だにとても大変な状況です。

ただ、そこに希望となる人が確かにいてくれる。

自分はそうした人の力になれる仕事を、
日々絶えず考えて生きる。

これは2011年3月11日から、何ら変わらず続けていることなんだけど、
美しき1人ひとりとの出会いは、自分に「自分らしさ」を教えてくれるし、
続けてきたことに確信を与えてくれる。

159ヶ月め

2024 年 6 月 15 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,841日
691週と4日
13年3ヶ月
159回めの11日です。

今日はといいつつ、
数日すぎての投稿です。

ここのところずっとミーティングが続いています。

2018年あたりから仕事のあり方が変わったのだけど、
父が亡くなったことや、イラストレーター協会の大変な仕事も重なり、
見失っていたことはないだろうかなんて、
2ヶ月間くらいぼ〜っと過ごす中、次にやるべきことがちょっと見えてきた。

そんなタイミングで、福島県のこと、群馬県のこと、秋田のこと、直島のこと、
もしくは今暮らしている渋谷区代々木エリアのことど、
ともかく人と話し、向かうべき方向を明快にする作業が続いています。

別々の土地での別々のアクションは、
実は自分の中ではガッチリつながっていて、
そのつながりをそれぞれの土地の方と共有してゆけたらいいのだろうなと。

引き続き会話、会話、会話です。

ぺんくんのダンスすいぞくかん

2024 年 5 月 31 日 金曜日

「ぺんくんのダンスすいぞくかん」
ぺんくんが水族館の仲間にダンスを教えて、ダンスパーティーを開催する物語。

福音館書店の「こどものとも」年少版2024年7月号として、6月3日にリリースの新作絵本です。

新作と言っても9年弱かかってのリリース。
家族史と並走し作った絵本であります。

編集者から「アミイゴさんの段ボールクラフトで絵本を作りたい!」とお話をもらったのが、2015年10月。

2010年から11年にかけての1年間、福岡の水族館”マリンワールド”のビジュアルを担当したのですが、それを編集者が気にってくれたんです。

マリンワールドの仕事は息子の0歳から1歳の時で、仕事のついでにダンボールでおもちゃ作ってあげたりもしていました。

そんな人生の凪のような1年も、3011年3月11日の東日本大震災で一変。ボクは活動のベクトルを東北に向けてゆくのだけど、その時期、息子0歳から3歳までの間は、福音館書店から自身初めてのリリースとなる作画担当の絵本「ちいさいトラック」の制作期間と重なっていて、東北の風景を描きながらも、絵本制作はゼロから息子の成長と共に学んでいたような時期でもありました。


トラックくんの顔、赤ん坊の頃の息子の顔に似てるし、生活と創作がリンクした感じがありがたい仕事でした。

東北での作画と「ちいさいトラック」は、今の自分の礎となった絵本「とうだい」の仕事を呼び寄せてくれました。

2014年から16年にかけて制作した「とうだい」の絵。それは震災から5年の現在地を確認するような作業でもありました。またその期間は息子の保育園入園から卒園の3年間と重なり、自分も色々学んだなあ〜と。困難を乗り越え輝く「とうだい」の、はにかみながらも誇らしそうな表情は、保育園から帰ってきた卒園間近の息子の顔を参照しました。

で、今振り返れば自分のマインドが混沌としていた2015年10月に「ダンボールクラフトで絵本を作りましょう」なんて言われていたんだなあ〜と。なんだか人ごとのように感じるのは、「とうだい」の制作にエネルギーの多くを注いでいたからなのか、どうか。

ただ「息子に作ってやってるみたいに、ダンボールでペンギンを作って絵本にしたら、きっと子どもたちの良い友だちになってくれるはず」そんな確信だけはあったんよね。

で、当時5歳の息子に「とーちゃん、ダンボールのペンギンの絵本を作るんだけど、主人公の名前はなにがいいかな?」と尋ねたら「ぺんくんがいい」と。
「よっしゃ!」ポジティブなマインドで物語作りを始めた、
のだが、

当初、ぺんくんが迷子になった小さな魚を探すため、水族館の仲間に尋ねて回るという話だったのだが、まあ色んな意見を返してもらって、う〜ん、そうか、そうか?そうかなあ??なんて迷路にハマり、自分こそ迷子になった、、

その頃は子育ての実感を元にした絵本「かぜ、ひいた」をリリース。子どものためのワークショップも各地で開催したり、息子の小学校のPTAの仕事をしたり、地域活動に参加したりで、あらためて「子どもって面白いな〜」と再発見の日々。
「かぜ、ひいた」は保育士さんに喜んでもらえた絵本だけど、自分の子どもとの接し方も更新していた時期で、ひとつの子ども再発見で、ぺんくんの物語も更新しれ考えなくちゃならない。そんなことだったんだろうね。

あらためて「自分ならではの絵本」てなんだろう?
ぺんくんがどんな振る舞いをしたら、より子どもたちと友だちになれるか。
ぺんくんが物語の真ん中にしっかり存在するストーリーが湧き出した、
そんな折、父が病に倒れました。

2017年夏から2018年春まで東京と群馬を往復し看病を続け、その間家族というものを考え続け(あまり立派な家族関係ではなかった)、羽田空港の大きな仕事 取り組むことは出来たけど、ぺんくんの物語は完全にフリーズしてしまった。

それはどういうことだったのか、今でも言語化出来ないでいるんだけど、介護の合間に自分が生まれ育った群馬の土地を歩けるだけ歩いた数ヶ月間でもありました。

父が亡くなったタイミングでふたつの絵本の制作が始まり、
ひとつは宮城県の沿岸部を舞台とした「水曜日郵便局」というアートプロジェクトを足場に、震災から復興を裏テーマに瞬発的な力で創作した「うーこのてがみ」といった絵本リリース。

この絵本の主人公「うーこ」にはモデルとなる人がいました。
震災から家族の復興を目指し奮闘していた筆マメな女性。

過去形で書いているのは、この絵本がリリースされる数ヶ月前に頑張りすぎて急逝してしまったからです。

「子どものため」というより「人のため」に創作した絵本でしたが、人の喪失に向き合えば向き合うほど、「子どもにとって必要な居場所としての絵本」というものを考えざるを得ず、ぺんくんの活躍するのはもうちょっと先でも仕方無いと考えたはずです。

そしてもう一冊は「はるのひ」

震災後の子どもたちの課題を考えると、父と子の関係性を描く必要を感じていたのだけど、まさに父が亡くなるタイミングでこの物語の創作が始まって、完成までの3年は、苦しかったなあ〜。

制作は息子が小学校を卒業するまでの4~6年生の間で、息子と色んな詩を読んだりしながら、父と子の間にあるべき言葉を探り続け、それは「はるのひ」という美しい詩に昇華出来たのだが、それを子どものための絵本に落とし込む作業、言葉の風景が導き出してくれる音楽的表現としての絵とかね。今振り返っても自分がどんな思考で創作したのかよくわからない。

ただ、人は喪失といものを避けられないわけで、ならば一瞬一瞬の発見の喜びを重ねてゆかねば。
息子たちにもそんな生き方してもらいたいぜ。そんな考えではあったはず。

というわけで、「はるのひ」の2021年春のリリースまでぺんくんの物語はさらに1ミリも動くことなく、心の奥深いところに沈めておいたのです。

ありがたいのは、編集者が諦めなかったこと。

お話をくれてから6年。
「ぺんくんを再始動させよう!」という話を頂き、お互いの近況を語りあっていたら、歯車がガチッと噛み合って、ぺんくんが動く姿が想像出来てね。
自分も色々経験をして、彼女もお母さんになって、「ここは悩む必要ない!」みたいなことがスムースに共有出来るようになったのかも。

何より「自分らしい」もしくは「自分ならでは」というものが明快になって、昨年夏にぺんくん初号機を制作。

秋に住まいを引っ越したことで制作環境も改善され、絵本の素材となるダンボールクラフト丸っと2ヶ月くらいで制作。


ダンボールのカットは「潔い」「気持ち良い」それだけを頼りに、自由で思いがけない造形が生まれる喜びと、それを組み合わせで出来た造形の可笑しさとがハッピーでね〜。

このマインドを持てたのは、この作業の直前で取り組んでいた「ポストが ぽつん」という、ある意味荒唐無稽な物語の作画を「長新太さんならどうしだろう?」なんて考えることで、結果ずっと笑顔で描き上げた経験が、とてもデカかったです。

そう、自分を振り切って描いた、自分が想像出来なかった絵に出会えること。
これを子どもたちと共有したいし、子どもたちが必要なものはこういうものではないか!?なんて考えに至れたところで、ペンくんをダンボールから切り出すことが出来た。

だからぺんくんの仲間たちも朗らかな姿で目の前に現れてくれた。

そして、撮影はいつも自分の仕事の絵を撮影してくれる東京フォトアーガスの坂上くんにお願い。

ここまで8年かかって撮影に漕ぎ着けた仕事だけど、スタジオでの坂上くんとボクの仕事の早さに編集者はビックリ。

一瞬で風景を構築して、一瞬でその意図を共有して、課題があれば一瞬で解決し、悩むことは一切行わず、一瞬でシャッターが切られてゆく。
そうそう、こういう仕事のあり方も子どもたちに知ってもらいたいんよ。


ともかく気持ち良いもの作ろうぜ!と、撮影は12月と2月に2日間だけ。
その間、編集者がクオリティの部分でアイデア出してくれて。
最後に何度か重ねた推敲と色校正は、もしかしたら自分が1番プロらしく振る舞えたのではないかと。

ああ、気持ちの良い仕事だった!

ぺんくんのことを語ろうとしたら、これまでの絵本のことをこんなにも書くとは思っていなかったけど、こんなたった11見開きの絵本でも、扱っている1番のテーマは「命」であり、願うのは「子どもたちの幸せな居場所」であること。

今後もいくつか絵本の仕事が続くのだけど、それがどんなテーマであっても、芯に置くべきものがなんであるべきなのか、ぺんくんと一緒にその絵本の制作を振り返り、ぺんくんとボクとの共通言語にしておかなくちゃと思いました。

「ぺんくんのダンスすいぞくかん」こどものとも年少版1冊460円!
ぜひ手に取って楽しんでもらいたいです。

が、こんな映像も作ったので、一緒に踊っちゃって〜

158ヶ月め

2024 年 5 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,810日
687週1日
13年2ヶ月
158回目の11日です。

4月21~22日は福島県飯舘村フィールドワーク。

一昨年の秋に始まったプロジェクトとして6回目のフィールドワークは、
3月17~18日に続いて今年2度目。

今回初めて福島県立博物館の学芸員チームと村内で一泊し、
村内在住者と多くを語り合う時を得ました。


6度目のフィールドワークで初めて、
「美しい春の風景だな〜」なんて心より思えた自分は、
原発事故以前の飯舘村も、原発事故から10年の飯舘村も知りません。

なのでしょうがない、
今見えるものがすべてであり、今見えるものは当たり前では無い。
そんな心持ちで風景に向き合います。

ということを飯館村だからではなく、
自分の場合どんな場所でもやっているんだろう。

そんな飯舘村に対して無責任な存在の自分だからこそ出来る表現があるのか。
それは誰かの助けになったり、生きる力になるのか。

その答えは先回りすることなく、
やはり「見る」「聞く」「感じる」といったことを優先ですね。


菅野宗夫さんはNPO法人ふくしま再生の会の副理事長を務める飯舘村の農家。

原発事故前は畜産も行うも、現在は農業に専従。
自宅敷地に地域再生のために村に入る学生などのベース基地を設けています。

奥様は「この春震災後年初めて集落で子供達の声を聞いた」と。

それは何かの企画で村外から集まった人たちの子どもだったけど、
それでも嬉しかった。

しかし、元々村で生まれた子どもは、もう高校生だったり成人になったりしているから、
もうここを故郷なんて思う記憶が無いよ。と…


でも、どうなんだろなあ〜〜、

自分は群馬県の長閑な養蚕地帯で生まれて、
5歳、6歳くらいまで、今振り返れば実に美しい人里の景色抱かれ育ちました。
が、高度経済成長が行き着いたあたりで、一気にその美しい風景が失われ、
いつも遊んでいた川から腐臭が漂うになった。

その喪失感と、忘れられない美しい記憶とで、
今こうした飯舘村を美しいと思って見ているし、
そうした風景が復活することを願って活動している。

だから、未就学で飯舘村を後にした子どもにだって、
飯舘に戻ってくるモチベーションはあるはず。

そんな話をしました。

そして、
これは飯舘の方に叱られてしまうかもしれませんが、
戦禍や原爆で失われたことも、高度経済成長やバブルで失われたことも、
実は飯舘と地続きのことであり、
だから自分はここまでやって来たんだろうと思ったのです。

ところで飯舘の民謡ってありますか?と質問。

宗夫さんが、お父さんが唄ってる動画があるはずだと調べてくれました。

2012年6月、飯舘村の田植えの後のサナブリ。菅野のおじいさん89歳が新 相馬節を披露しました。

157ヶ月め

2024 年 4 月 10 日 水曜日


今日は2011年3月11日から4,780日
682週6日
13年1ヶ月
157回めの11日です。

アップした絵は昨年7月に能登里山で見た昼顔の花。

能登里山の緑は、関東の緑とはちょっと違って見えて、
濃くも優しい緑、そんな印象でした。

この日は雨がパラパラ振ったりの曇り空でもあったので、
余計緑の優しがが印象に残ったように思います。

が、まだまだ描ききれないなあ〜、能登の緑。

この日はその後輪島塗の塗師の赤木明登さんの工房を尋ね、
その仕事の奥深さに触れたこともあり、
自分の絵の「まだまださ」に呆れてしまったのもありますね。

その時のことはこちら↓「まどをあけて」をごらんください。
https://www.daihatsu.co.jp/lyu_action/book/no07/madowoakete07/

そんな能登が大きな地震で苦しんでいる今、
赤木さんは輪島塗を絶やさぬようにと、木地屋さんやご自身の著作の編集室や、
昨年大きな感動を頂いたオーベルジュ「杣道」の再建に向けて活躍されています。

今年の3月11日は、そんな赤木さんが工房を一時避難させている金沢へ。
そして夜は、やはり仮店舗で営業中の「杣道」で食事。


自分が今までいただいてきた食事の中でも、最高に肌の合うごはんを作らてれいる北崎さん、
そしてホールを担当されているこいとさんの健在を確認。

ともかく美味しくて豊かな時間で、
食後3人で話したことは「aikoのライブ、最高でしたよ〜!」みたいな他愛もないものだったけど、
まずは、ほんとこうして会えたことが嬉しかった。

で、次は能登で会いましょうと約束し、
次の日は土砂降り。

無理なく電車で行けるところまで行ってみようと、能登七尾へ。

七尾も変わらず土砂降りで、
輪島湾を見て、靴をずぶ濡らせて、美味しいうどんを食って帰ってきました。

視線を転じれば大変な風景が目に飛び込んできますが、
今自分に出来ることは少なく、無力を感じるばかり。

ただ、今後自分がやるべきことは確認出来たかなと。
少なくとも能登の緑を描けるようにはなりたいです。

そして次の週は宮城の塩釜>気仙沼~唐桑>福島~飯舘>会津~喜多方と巡り

13年前の春から、1人、1人と知り合ってきた方とお会いし、
お互いの健在を確認し、喪失を慰め合い、また元気で会おうと約束し、
津波被害から新たな再建を図ったお店では、開店10周年を祝いました。

能登でもそんな1人との出会いが続いてゆくことを願っています。

 

 

 

156ヶ月め

2024 年 3 月 10 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,749日
678週と3日
13年め
156回めの11日です。

先日、渋谷区うちの近所のパン屋のカフェに居合わせた仙台在住の方と話し込むことがありました。

震災直後から東北に行くようになったこと。
そんな中で、まだ小さかった息子に初めて寿司を食わせたのが仙台だったこと。
その際、お店の常連さんにとても良くしてもらったことなどなど。

共通の知人の名前も数名上がり、話は絵本「うーこのてがみ」について。

この絵本は、アートプロジェクト「鮫ヶ浦 水曜日郵便局」と連携し創作したこと。

プロジェクトの舞台は津波被害の大きかった宮城県東松島市の宮戸島であり、
絵本を制作する際に取材に行ったこと。

うーこのモデルは、宮戸島と松島湾の挟んだ対岸の塩釜で、
わかめの生産をされているご家族の長女であること。

彼女とは震災から1年10ヶ月後の塩釜港の復興市場で出会ったこと。
その際に白詰草を描いたポストカードを手渡したこと。

家に帰って間もなく、彼女から手紙が届いたんだけど、
そこには彼女の白詰草にまつわるパーソナルな思い出と、
震災直後ご主人の仕事場である松島湾の海から見上げた空に、
カモメが何事も無いよう飛んでいる姿に希望を感じた話が書かれていて、
自分はそこで「被災」と「復興」の意味を自分なりに言語化出来たこと。

自分はすぐに塩釜に行き、彼女に会って、
「ご主人さんの仕事場見てくるね!」と松島湾へ。
そこで見たカモメの姿を描いた絵がきっかけで、

「とうだい」という絵本の作画担当が決まり、
熊本でのアートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」の書籍の表紙を担当し、
そのプロジェクトの母体である「つなぎ美術館」での展覧会、
さらには「鮫ヶ浦水曜日郵便局」に紐ついた「うーこのてがみ」の制作に繋がったこと。

「うーこのてがみ」はうーこが友人との手紙のやりとりを重ねることで、
今自分が生きている場所の魅力に気がつくというファンタジー。
ボクは彼女から手渡され『人ひとりが生きるに必要な大切なこと』を
リアリズムを持ってこの物語にこめています。

さらに、同じ絵柄で塩釜の市場の壁画も作成したこと。

しかし、その壁画も「うーこのてがみ」も、彼女には見てもらえなかったこと。

震災直後から家族の力になろうと奮闘してきた彼女は、
ボクに家族が営む海産物のブランディングの仕事を投げてくれたり、
塩釜でのボクの展覧会も計画してくれていたんだけど、

頑張りすぎたんだろう、
2018年夏に急逝されてしまった。

こんなお話を初めて会った人に夢中になって語っているのは、
2024年3月11日の自分は、昨夏能登で出会った人たちと会う約束をしているからだろう。

2011年3月11日以降に出会ったことは、
自分に多くのことを与えてくれた。

それをどのようの形で次に手渡してゆくのか。

あらためて見つめ直す、
あれから13年の11日です。

155ヶ月め

2024 年 2 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,720日
674週2日
12年11ヶ月
155回目の11日です。

2024年2月11日は大分県別府の鉄輪で壁画制作を行っています。

そんなわけで、このブログは後日書いているのですが、
11日から14日までの作業で、知人が新たにオープンするお店の壁に菜の花を描きました。


ボクよりちょっと先輩の和田さんは、
東日本大震災をきっかけに職を失うも、
その人柄が引き寄せる「出来る」仲間たちの助言を受け、
築地で「おかみ丼々 和田」というお店を始めました。
2012年、和田さんが60歳の時です。

うどん屋での修行で身につけた自慢のお出汁で作るどんぶりメシの店は、
お客様のニーズに応え、良い酒と美味いおばんざいの楽しめる店へと成長。
熱烈なファンを獲得することになります。

しかし、コロナによるパンデミックで足踏み。
やはり多くのお客様の力で持ち堪えるも、
ご自身の人生を考え、2年前に鉄輪へ移住。

この2年間に彼女を慕い鉄輪を訪れる方が急増。
地域の方にも慕われ、協力も得て、
72歳になった今、この地域の新たな拠点として店を、
古い建物をリノベーションし作ることになりました。

築地時代はボクの展覧会によく足を運んでくださり、絵を購入してくれたり、
ボクの友人で、東北での被災から再建した生産者さんと繋がってくれたり。

そんなご縁に対して「店が出来たら絵を描きに行きますよ!」と約束。

さらに、大分に移住した作家で大工仕事もする友人を紹介。

ざっとこんな理由でボクは鉄輪で菜の花の絵を描いているのです。

大国入った友人とは、
東京で大分で、ライブイベントや展覧会などなど、
自分たちが本当に美しいと思える場所作りをしてきました。

東日本大震災の余震で街がグラついていた2011年4月には、
まさに花の絵の展覧会を一緒に作っていたなあ〜。

そんな彼との久々のコラボは、とても嬉しくとても緊張感のあるものです。

また、ボクは和田さんに請われてここに来たのですが、
だからって自分勝手な絵を描くわけにはいかず、
ともかく、関わるみんなとコミュニケーションをとって、
関わるみんなのベストとなるものを作らねばです。

そのために、鉄輪の街を歩き回って、ここがどんな場所なのか、
ここに足を運ぶ人が求めるものがなんであるのかをキャッチ。

そしてまた関わるみんなとの会話。
そこから感じる熱を頼りに答えらしき方に向かって筆を動かしてゆきました。

この作業の背景には「今後能登をどう描けばいいのか?」というエクスキューズが、
渦巻いていたはずです。

2011年3月11日から続けてきたことは、ひたすら考え続けるってことなんだろうか。
いつも同じところをグルグル回っているだけで、
しかし、その時々で出会う人や空の色、道端に咲いてる花なんてものが、
まだまだ考え続けないといけないぜ!と語ってくれて、
そうだね、しょうがねえ、まだまだグルグル考え続けるしかねえな。
と。

和田さんが新たに生きる場所で、
自分のこれからをグルグルと考えることの出来た創作の美しき時間。
ありがとうございました。

店が出来るの、楽しみ!

 

震災後の子どものための絵のワークショップ

2024 年 1 月 21 日 日曜日


絵のワークショップをやるようになって20年以上経ちますが、
2011年3月11日の東日本大震災発災後に「子どものためにワークショプを開催してくれ」との声が増え、
それに対して基本的にすべて引き受けています。

お声掛けくださるのは個人から行政まで様々。

その際「講師料はいくらでしょうか?」と質問を受けますが、
それに対してまず「出来る範囲で考えてください」と伝え、
次に「一度やってまた同じようなことが出来るイメージを持って考えてみてください」と。
もし仲間がいるのなら、そのことを皆さんで考えられ、
その上でお金が無いというのであれば、無報酬でも引き受けます。

このことで重要なのは、自分が報酬を得ることでは無く、子どもたちが笑顔になれること。

こんな確信を持って活動するのは、やはり東日本大震災以降で、
それは未曾有と言われた悲劇に対するボクなりの闘い方なんでしょう。

ただ、こうしか経験は、自分の仕事にリアリティをもたらし、
ボクやボクの家族、さらには自分が属するコミュニティを確かななものにする力になっているはずです。

写真は12年前の3月に気仙沼で開催したワークショップ。
この時は共に行動する仲間を得て、大漁旗に絵を描くワークショップとして開催しました。

その時のワークショップをアーカイブしたブログ
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7542
震災から1年後の気仙沼のことも綴っています。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7578

今読み返すと、自分は震災後の混乱の中にあるし、
子どもと向き合い起きることに対して言語化が追いついていなかったことに気づきます。

そもそも全ての現場で行うことが初めて行うこと。

それはどんな状況でもまず飛び込んでしまう自分の良いか悪いか分からぬ資質によりますが、
こうした現場を重ねて行く中で言葉が追いついてきたこともあります。

この時の気仙沼の経験のひとつは、後ほどあらゆる現場で以下のように語るようになります。

震災から1年後の気仙沼で子どもと大漁旗に絵を描くワークショップをやったんだけど、
テーマは「学校や保育園や家でやったら怒られちゃうだろうけど、今日は好きなもの描こう!」ってね。
沢山集まってくれた中でも、オシャレした女の子3人組が最初からテンション高くてね。
何か叫びながらなんだけど、すごく綺麗な色を使ってオシャレな絵を描いてゆくので、
「キミたち、おしゃれだね〜!」なんてレスポンス返していったら、さらにオシャレを加速させて。
これは傑作が出来るぞ!って思ってたところ、1人の女の子の目つきが変わって、、
何するんだ!って思ったら、真っ赤な絵の具でベタっと「復興するぞ!」と書いたんよ。

それまで美しく楽しくおしゃれに仕上がっていた画面が台無しになっちゃって、、
でも「好きなもの描こう!」て言った自分はそれを否定するわけにはいかず、
「復興するぞ!だね〜」と声をかけたら、なんかその子の目が悲しそうなんよ。
で、「それ書いて楽しかったかな?今日は好きなものだけ描いていいんだぜ」
「今日みんなで描いた絵、めちゃくちゃオシャレで俺は元気になったぜ!」
そんな声掛けしたら表情が緩んで、ホッとした柔らかな表情を見せてくれた。

これはどういうことか考えたんだけど、
すべての大人が「復興」のために頑張っている。
それを見ている子どもたちは、自分の楽しいより「復興するぞ!」と書いた方が、
大人が喜んでくれる。もしくは安心してくれる。
そんな先回りした考えがあったんだろう。

大人に連れてこられた絵のワークショップで、それに答えるように「元気に」絵を描く姿を見せたら、
オトナが喜んでくれるであろう言葉を、険しい表情で書き殴った子どもたち。

すげーいい子たち。
だけで、俺は大人だから、君たちが好きな絵を描いて、出し切ってホッとした顔見せてくれるのが、
幸せなんだ〜

そのために気仙沼まで来たんよ。

もしくは熊本地震から3ヶ月後の熊本市内でのワークショップ。

その日は、大人たちが震災復興バザーをやっている隣のスペースで、
子どもたちと絵を描いてくださいというオーダー。

みんなで大きな絵を描きはじまたんだけど、
ひとりものすごく反抗する子がいる。

ボクはこの子とほぼマンツーマンでのコミュニケーションになってしまったのだけど、
反抗の意味が掴めないでいる。

彼女の反抗は絵を描くのを楽しんでいる子たちのマインドも揺るがしちゃって、、
これはもう無理だと、
このワークショップはその子とボクがガチで向き合う姿を他の子に見てもらうものでいいやと、
さらに徹底的に彼女の反抗的なアクションに付き合う。

と、絵の具をベターっとつけた紙パレットをキャンバスに投げつけ踏みつけ、、
「そこまでやれば気持ちいいだろう!」と言って、
その子が紙パレットを剥がすと、それがとても綺麗。
「おい、それ綺麗だなあ〜!」と伝えたら、初めてニヤっとだけど笑って、
親がいる部屋の方に走っていってしまった。

いや、すごい暴れん坊だったなあ〜と思って、
その日の夜のバザーの打ち上げのような会場で言ってみると、
さっきの子がニッコニコで募金集めをやっている。

なんだ?すげーいい子じゃん。

彼女を知る大人に聞けば、彼女の家は地震の被害が酷かったそう。

そうか、
彼女は大人たちが復興のために奮闘するバザー会場に連れて来られて、
そこでバザーのお手伝いをせず、絵を描くワークショップに参加させられた。

オトナが復興に向けて頑張っているのに、
私は子どもだからって絵を描いて遊ばなければならないの?

彼女の反抗のエネルギーはそんなだったのだろう。
それは夜の表情でわかった。

でも、
絵を描くワークショップの現場で絵の具を投げつけたことでアウトプットできたことがあってこその、
夜の表情とも言えなくないかな。

別れ際に「ありがとー」と、いわゆる子どもらしく朗らかに声をかけてくれたことで、
なんだが自分も救われちゃったぜ。

熊本では同じタイミングで別の場所でもワークショップをやったんだけど。

そちらは親と子が一緒の現場で、子どもたちは親の視線に守られて安心して出し切っていった。

自分の子どもたちとのワークショップでは、
アートは手段であり、
目的は子どもたちの心の中で蓋をされてしまった恐怖の記憶のアウトプットだったり、
この先の未来を生きるための「気持ちの良い自分」の発見だったり、
子どもたちとと日常を共にする親やコミュニティの関係性の更新だったり。
そんなことを確信的に思えた熊本でも2本のワークショップでした。

そして、
12年前の気仙沼も、8年前の熊本も、今自分が暮らす東京も、2024年の能登も、
すべては自分の中では地続きであり、
もし自分のような者でも必要とされるのであれば、画材を担いで向かいますよ!
ということです。