‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

130ヶ月め

2022 年 1 月 11 日 火曜日


今日は2011年3月11日から3,959日、
565週4日
10年10ヶ月
130回めの11日です。

昨年末、吉祥寺のにじ画廊で開催した花の絵の展覧会「花とラブレター」
12月28日の最終日から2週間が経ち、
お客様やお力添えくださった皆さんからコロナ感染の報告は無く、
まずは無事に終えたことを有り難く感じております。

2階にあるギャラリーの換気のために、1階の雑貨店スペースのドアを開けっ放しにして、
寒さに耐えながらも現場を美しく守り続けてくれたスタッフの3人。ありがとね〜!

世の中が厳しい状況にある中、
ほんと多くの方に足を運んでいただけたことに心より感謝します。それでも、
1日の中でフとお客様が途切れる時間があります。
その時、自分が花の絵を描き始めた時からのことを振り返っていました。
2008年に仕事のあり方を変えてしまわねばと考え、

いくつかの今に繋がる出会いをきっかけに描き始めた花の絵。

2009年にあったいくつかの別れをきっかに、今に繋がる描き方を手にし、
12月に生まれた息子の成長と共に育ててきた花の絵。
2010年に日本の14ヶ所を巡らせ、
2011年3月11日には青森のコノハト茶葉店の夜の暗さの中で咲き、
4月に吉祥寺にじ画廊にたどり着いた花の絵は、
「人は絵というものを必要としているのだ」ということをボクに教えてくれ、
震災を目の前にしても、心をフリーズさせることなく絵を描く必然を与えてくれ、
ボクを東北方面に弾き飛ばす力にもなりました。
その後、青山のspace yui での6回の展覧会を生み、何冊かの絵本が生まれ、
何より、今暮らしている渋谷区の街の地べたに向ける視線が生まれ、
コロナの世界でも描くべきものを失うことない自分を育ててくれ、
10年後の吉祥寺にたどり着いた花の絵でした。
そうしたことのすべては「懐かしい」ものでは無く、
振り返ればつい先日のことのように、今も自分の中で息づいていることです。
もともと売るために描いているわけでは無い花の絵ですが、
にじ画廊でご縁をいただき旅立つことには、
ご購入いただく方と花の絵とで確かな物語があるように感じました。

店長のHさんも「カツブシのような絵」をひとつ。
彼女が現場に注いでくれた愛のおかげで生まれた「花の絵と人の物語」というものが、
確かにありました。そんな花の絵をめぐる物語は、やはりボクの明日を生きる力になるはずだし、
そうしてゆかねばならないとも思います。
一生分の「きれい〜✨」「かわいー✨」の言葉を頂いたレインボウな13日間。
今自分が作ることの出来る最も美しいものを創れた実感がありますが、

これもまた懐かしむことなく、次に繋げてゆきますね。。

Hさん、これからもこの展覧会に注いでくれたように、
Hさんらしい仕事を重ねていってくださいね〜

それで救われる人は、少なからずいますね。
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以下、2008年7月9日に書いたブログ。
大阪の喫茶ロカリテの店主さんに連れられ、初めて那須のSHOZO COFFEE に行った直後に書きました。
花の絵の発火点をあらためて発見し、あの時の新鮮な気持ちが今も変わらずあることを嬉しく思いました。

イラストレーターとしての仕事のあり方、
思いっきり見直さなきゃならない時代であるな~と思っています。 

これは音楽業界などに起こっていることと同じなんだけど、
それに比べたらあまりにも市場規模が小さいからね、
うかうかしてたらプイッと吹き飛ばされて終わりです。 

絵を描くことのホトンドの仕事は「見る」って作業であると、
ボクは思うのですね。 

そんなわけで日々見てます。
身体がついて行く限りは歩いたりもしてね。 

街や人の間に在ってボクの創るものがどんな役割を果たせるのか?
興味はつきないですね。 

中野
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=680245 

沼津
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=682007 

那須
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=682769 


12月27日はキャンドルナイトでした。

震災直後の暗闇で考えたことを忘れずにいたいと思い、
大切な友人で、最近ソロアルバムを発表し、音楽の現場に帰ってきたチェルさんをお呼びし、
静かな時を共にし、これから生きるのに必要なものを想像した時間です。
それはこの10年で最も自分らしい行為のように感じました。

以下は震災から数日後に「灯」とタイトルをつけて書いたブログです。

東京は相変わらず余震が続き 

しかし 

いつもと変わらぬ日々が続いています 

昨日は井の頭通りでハナミズキが咲いているのを見ました 

甚大な被害を受けた土地にも春は来るね 

被災地で闘っているみなさん 

今日からしばらく続く寒さに凍えませんよう 

痛みや悲しみがちょっとでも癒されますよう 

被災地から離れたミンナからは 

「なにか出来ないか」という多くの声が届けられます 

そのたびにボクは 

「いま在る場所の灯りであるように」と伝えています 

被災地から遠く離れ 

震災の直接的な被害に遭わなくても 

心を痛める人がたくさんいます 

メデイアやネットからは 

それこそ津波のようにしてショッキングな情報が押し寄せ 

無責任な“つぶやき”とか蛮勇きわまりない言葉に呑み込まれたり 

もしくはポジティブで力強い言葉に対してさえ 

「ワタシハナニモデキナイ」てね 

気持ちを押しつぶしてしまう 

心の二次災害に巻き込まれているように感じています 

身近な方で 

わけもわからずナミダを流してしまっている人はいないだろうか? 

生きる気力を削がれそうになってしまう人はいないだろうか? 

そんなヒトリに出会った時 

「ともかくボクらは頑張らなければ!」なんて言葉と共に 

被災者と比べてしまったりしないだろうか? 

PTSDの判断を素人がするのは危険なのかもしれないけれど 

それでも 

恐怖にナミダすのは 

生き物として当たり前の防衛反応だよね 

ナミダは決してネガティブなモノじゃないぜってね 

ただただ話を聞いてあげたり 

温かな食べものや飲み物を一緒にとったり 

みなさんが今生活されている場所で 

小さな温もりを手渡たしてこうよ 

優し過ぎてチッポケで傷つきやすいヒトリだからこそ 

気がつきやれることはあるんだ 

無理せず1コ1コ 

そんな 

地震との闘い方もあるように感じています 

1人ヒトリが今在る場所の灯でありますよう 

今まで生きて来た中で最大の優しさでもって 

身近な愛しい人に小さな熱を手渡してゆこう 

やれやれ 

すごく遠い道のりだけど 

しかし 

それが廻り廻って被災地にも日本にも世界にも 

希望の灯りをともしてゆくことだと信じています 

今元気な人 

一緒に闘おう! 

今心が折れてしまっている人 

その辺に春が近づいてきてるぜ 

ゆっくり 

小さな温もりを絶やさぬよう育ててゆこうぜ 

アミイゴ 

2011 

PEACE!!

そして、
震災の直後の吉祥寺にじ画廊で開催した花の絵の展覧会「その辺でさいていた花」
最終日直後に書いたブログ。

吉祥寺にじ画廊でのボクの個展 

「その辺に咲いていた花」 

そして 

ワークショップ&LIVE「灯」 

昨日の20時まで咲き続き 

静かに終わりました 

想像をはるかに越えたお客様に足を運んで頂き 

さらに想像を越えたウレシいお言葉を預けて頂き 

次に進む力を得たと共に 

これから何を描きどう生きてゆくのか 

ハッキリとした手応えとして掴むことが出来ました 

ありがとうございました 

お1人おひとりへのお礼は 

ちょっと時間をかけて必ず 

今は頂いた身に余るLOVEを 

東北の地に注ぐことを考えています 

展覧会期間を通して感じ考えたこと 

後ほどコトバにしてみます 

東京から遠くに住まわれる多くの方と 

懇意にさせてもらっていますが 

ほとんどの方が来れなかった時間であります 

こういったことを東京で開催することで 

お気持ちに格差を作らぬこと 

これはイラストレーターとしての使命として 

これからも取組んでゆこうとも思います 

そして 

今まで以上に気持ちの敷居を感じさせない場所と作品を創り 

その辺で生きてゆこうと思います 

あれから10年。
コロナ感染がひと息ついたような瞬間での開催となった展覧会は、
喧騒の吉祥寺の街と壁ひとつ隔て、
心の静けさを求める人たちと静かに語り合える場所として機能出来たはずだし、
ボクが作ろうと思うものは、そうした人たちがひと息つき、
なにか大切なことを語り合うことの出来る、なんちゃーなく美しいものなんだと、
あらためて確認することが出来ました。
最後の写真は、この展覧会開催中のタイミングで、
被災した故郷岩手県大船渡の力になりたいとUターンするSさん。

彼女からうかがった被災の記憶は、
いくつかの花の絵を生み、
これからさらに花の絵を生み続けるはずです。

そう出来るよう、お互い元気でいようぜ!

2021
1216
to
1228
peace

この空間に含まれたすべての人が、
この展覧会の作品のようであったと思えた時。

そしてすべての花の絵が、
これまで出会ってきた愛しき人の姿と重なった愛しき時。

ありがとう。

12/16~吉祥寺にじ画廊で花の絵の展覧会開催

2021 年 12 月 16 日 木曜日


小池アミイゴ花の絵の展覧会「花とラブレター」

吉祥寺 にじ画廊
2021年12月16日(木) – 28日(火)
12:00~20:00

〒180‐0004
東京都武蔵野市吉祥寺本町2‐2‐10 (JR中央線 吉祥寺駅より徒歩4分)
tel : 0422-21-2177
nijigaro@gmail.com
http://nijigaro.com

2008年から描き始めた花の絵。
震災直後の2011年4月以来10年ぶりににじ画廊の壁面に咲かせます。

=在廊予定=
12月16日(木)_終日在廊します。
12月17日(金)_16時より在廊いたします。
12月18日(土)_15時より在廊いたします。
12月19日(日)_12時より在廊予定でいます。
12月20日(月)_15時~
12月21日(火)_15時~
12月22日(水)_15時~
12月23日(木)_12時~14時、17時~
12月24日(金)_12時~20時
12月25日(土)_13時~20時
12月26日(日)_13時~20時
12月27日 (月)_15時~20時*18:30~19:30はキャンドルナイトのため予約者のみのご案内になります。
12月28日(火)_13時~20時*最終日です。
その後の予定も随時お伝えしてまいります。

=イベント=

1) 花の絵と言葉の往復書簡
会場に便箋と便箋を投函出来るポストを設置しておきます
もし気になる花の絵があったら、そのお気持ちを手紙を書いて、
ポストに入れてください。
その手紙に対して、ボクがまた花の絵を描き、
1月に予定している「装幀夜話」という展覧会に出品します。


2)*12月27日_キャンドルナイト_こちら定員に達し予約を締め切りました。
・18:30-19:30
上記の時間は予約者のみのご入場となります。
ご来場いただけない方には、配信など考えておりますので、
その際は改めてお伝えしてまいります。

ギャラリーの照明を落としキャンドルを灯します。
ゲストにシンガーソングライターのチェルさんをお迎えし、
彼女の深く静かな歌と共に、過ぎ行く時を思い、
新たな年を心穏やかに迎える時を創ります。

・参加費_無料
・定員_定員に達し予約を締め切りました。

10年前の震災の直後、東京の街が暗くなっていた時考えた大切なこと、
それを次の10年でも忘れないでいたいなと願い、試みます。

ゲストのチェルさん。

かつて2人組みのPoPoyansとして活躍していた時、
表現の現場作りでアイデアを交換しあったり、
地方の小さな店に歌を届けにいったりをした人。

10年ちょっと前、いくつか一緒に作ってきたライブは、
人に対する愛と高い志の詰まった、屈指の表現の現場だったはずです。

ただ、それでもやり切れていなかったであろうことを、
今、それぞれ人生の経験を積んだ今行う意義を感じています。

*コロナの状況によっては、入廊制限を儲ける可能性があります。
詳細情報は引き続きこちらでお伝えしてまいります。

その他イベントがあれば、随時更新してまいります。


この展覧会の始まりはどこだろうか、
ちょっと振り返ってみます。

2008年7月、
大阪北堀江にあった喫茶ロカリテの店主夫婦に誘われ、
栃木県那須黒磯のSHOZO COFFEE に行きました。

ロカリテはとても美しいお店でしたが、
それ以上に、そこに集う人たちと構築した静かなる信頼関係が、
この店の魅力でありました。

そんな場所を営む人と共に向かった珈琲屋は、
細部に美意識に息づく場所でした。

ロカリテのご夫婦と、良い店ってどんなことだろうなんた語りながら、
絵を描くボクは、ここに置かれるべき絵はどんなんだろう?と考え、
花を描いてみることにしました。

しかしすぐには思うような絵は描けず、
なんだかカッコつけた花の絵ばかり生まれちゃって…
それはそのまま自分の姿のように思えてね、
このままじゃダメだと。

今振り返れば、
誰に向けてどんな必然で描くのか、

その部分が欠けていたはずです。

2009年。
1月に友人に向けて描いた菜の花の絵がありました。

福岡の滞在中、友人がかなり厳しい状況にあるという連絡を受けました。
自分に何が出来るのか考えながら東京に戻ると、
食べようと思って水に挿していた菜の花が、キッチンの窓際で咲いていました。

「ああこれだ」とだけ思い、板にアクリル絵の具で描いた絵が、
ボクの花の絵の本当の始まりになりました。

この年は「色々あった」としか言いようのない1年で、
「何かあった」度に、それを体に刻むようにして花の絵を描いてゆきました。

ひとつボクを高めてくれたのは5月。
福岡に行くと必ず寄る珈琲屋「美美」の店内に飾ってあった花の絵です。
シンプルな画面に力強さと優しさが溢れる、しかし「無欲」という言葉の似合う花の絵。

それは1月にボクが描いた菜の花の絵に対し、
「おまえはそれでいいんだ」と肯定してくれてるように思えた絵でもありました。

その直後、家のベランダで咲いていたカモミールの花の絵を描いてみました。

沢山の花を咲かせる生命力溢れる姿を追いかけ筆を走らせるも、
自分が本当に見ているものと一致せず、小さなが画面の中で描いては消しての繰り返し。

結局花1輪だけにフォーカスしてみたら、
自分の見ているものに手が届いたような感覚を得ました。

それは、ボクが自分の身の回りの世界をどう見ていたのかを気がつかせてくれる、
静かな絵となり、今は福岡市内の小さな花屋に嫁いでおります。

つづく


10年前のにじ画廊での花の絵の展覧会でのエピソード。
2011年5月3日にブログに掲載した記事を、ちょっと書き直して再掲載します。

「まさおおじさん」

にじ画廊にまさおおじさんが来た。

20何年か前の脳梗塞のせいで右腕しか使えないくせして、
ボクの父親とカツミおじさんを三菱の軽ワゴンに乗せ、
スヌーピーのTシャツ着て群馬からカッ飛んで来た。

にじ画廊の50mほど手前の駐車場から杖をついて、
足を引きずりノシノシと、
日曜日の人ごみを掻き分け、5分かけて到着。

かわいいグッズが並ぶ店内に入り、
2階のギャラリーへの階段を見ると、
「ダメだ、手すりがついてねえから登れねえ」って。

「無理してケガしたら人様の迷惑になっちまう」って。

まさおおじさんは気遣うギャラリースタッフを制して、

「アニキたちで見てこいや」「しょうがねえ」と、
1階の奥の事務所で座って待ってることになった。

「俺のことは気にすんな」と語るおじさんに茶を出し、
ドアを閉める瞬間の心苦しさ。

これは一生忘れられないと思ったよ。

実際に2階で父らと絵を見ても、ただ気まずいだけでね。

そうしているとにじ画廊のスタッフちゃんがやってきて、
「外の階段なら手すりがあるので、それを使ってギャラリーの裏口から入ってもらいましょう」と。

そんなことして大丈夫なのかと心配するボクには、笑顔で「だいじょぶです」と、
展示してある桜の花の絵を外し、ホワイトボードを動かすとドアが隠れていた。

ボクよりずっと若い女性スタッフさんの機転で、5月の吉祥に向け開け放たれたドア。

それはボクらがこれから向かうべき世界への扉なんだと思った。

マサオおじさんは外の階段を一段一段ノッシノッシと登ってくる。
ボクは「もしも」のために後ろで構える。

5分くらいかけて2階へ。
花の絵の間からおじさん、遂にギャラリーへ。

「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会
スヌーピーのTシャツ着たマサオおじさんがやって来てくれた。

三男の父、四男のカツミおじさん、末っ子のマサオおじさん
大の男が3人、花の絵を見ている。

百姓と農業機械の整備が生業にしてきたまさおおじさんは、
「あれはスズナ」「あれはサクラソウ」と、ボクの描いた花の名前を次々に言い当て、
その花はどうすれば元気に咲くのかとか、やっぱり日本固有の花が可憐でキレイだとか、
滑舌の悪い群馬弁で語ってくれた。

おじさんはカッコいいことをひとつも言わないけど、
その辺でカッコいいことばっか言ってるヤツらより数億倍カッコいいと思ったぜ。

この日より22年前の夏。
26才のボクがムチャして入院した時も、群馬から東京へ片手運転で駆けつけてくれ、

ボク以外お年寄りばかり8名入院する病室に、
そこの誰よりも重症患者のような姿でノッシノッシと入ってくると、
「オメーもこうなっちゃお終いだぞ!」と大声でボクを叱り飛ばす。

でもって、
「無病息災って言うけどな、これからは1病息災くれーがいいんだ」って、
麻痺した口で啖呵を飛ばし、病室のみんなを笑わせてくれた。

そうしてボクは今も生きている。

地元のウドンと酒をみやげに置いてくれ、男3人兄弟が帰る時間になった。

やはり脳梗塞を患い上手く動けないでいるボクの父が、買い物でモタモタしてると、
「オラァー先に車に行ってらぁー」とまさおおじさん。

 

よく晴れた5月の日曜午後2時の吉祥寺。「昭和通り」と呼ばれるにじ画廊前の通りは、
「被災」のあっち側で自由を謳歌する、若くオシャレな人たちでごった返している。

そこをノッシノッシと分け入ってゆく、スヌーピーのTシャツを着たおじさん。

ガツっと日焼けした顔に薄くなった頭、スヌーピーのTシャツは黄ばんでいる。

前をから歩いてきたカップルがおじさんに気がつき、
ビックリしたように、もしくは見なかったことのようにして、ヒョイと道を空ける。

ボクはおじさんの後ろ姿を見ている。

百姓と機械整備でデカク育った背中の筋肉は、
麻痺した左足の細さとの対比もあって、山のように見える。

そんな背中がノッシノッシと昭和通りを行く。

それは底抜けに美しい姿だ。

圧倒的にカッコいい風景だ。

 

ボクはちょっと泣いていたはずだけど、
それは誰にも気付かれちゃいけないことだと、
強い西日に表情を隠し、おじさんの背中を追いかけた。

おじさんは三菱軽ワゴンの運転席に乗り込むと、
ボクの方を振り向かぬまま(もしくは麻痺で振り向けない?)右手をヒョイと上げ、
1万円札をヒラヒラさせながら「これでウマいもんでも食えや」だって。

それは絵を描き続けてきた中で、最高のご褒美なんだと思い、

ボクもおじさんのように、その辺で生きてゆくんだと思ったんだ。

つづく

花の旅

今回の展覧会は、3月に青山のspace yui から始まり、
8月に福島県白河市のSHOZO COFFEE、
9月に福島市の食堂ヒトトと旅をしてきました。

ここ5年間、昨年までの毎年の年末に、
「小池花店」と名付けられた花の絵の展覧会を開催してきましたが、
その流れが途絶えた今年、
偶然にも年末のにじ画廊で花の絵の展覧会を開催することになりました。

10年前の春のにじ画廊での花の絵の展覧会「その辺に咲いていた花」は、
2010年3月に地元渋谷区のカフェ”ルシャレ”からスタートし、
以下の場所を1年ちょっとかけて巡り、
東日本大震災を経て、にじ画廊にたどり着きました。

・渋谷区富ヶ谷天然酵母パンのルヴァンのカフェ“ルシャレ”

・佐賀県唐津市のヌフ・ベーカリーカフェ

・宮崎県日向市のnap cafe

・栃木県那須塩原市黒磯のCAFE SHOZO

・東京吉祥寺キチムの Localite

・長崎県諫早市のORNAGE SPICE

・福岡市周船寺のcafe de Hina

・福岡県北九州市のcafe cream

・千葉県習志野市のギャラリー林檎の木

・福岡市薬院の花屋 cache-cache

・鳥取市の食堂 カルン

・大分県大分市アートプラザでのbaobab LIVE

・京都市北区の SOLE CAFE

・青森市のコノハト茶葉店

日本の14箇所を巡り、3月11日に青森のコノハト茶葉店で被災。

「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ展覧会は、
震災から40日めの2011年4月21日に初日を迎えました。

設営の時はまだ余震が頻発していましたが、
ここまでに至る14箇所で出会った人たちの存在が、
とても、とても、心の支えになってくれた記憶があります。

10年経って無くなってしまったお店もありますが、
それぞれの場所でそれぞれの奮闘を見せてくれた仲間の存在は、
今もボクのものづくりを思いっきり支え続けてくれています。

14箇所の仲間たちを巡り手渡されたマインドのバトンは、
震災を乗り越え絵を描き続ける想像力をボクに与えてくれ、
展覧会が終わると、ボクは東北に向かうようになります。

この10年、西日本の方々とお会いすする頻度は減ってしまいましたが、
みなさんから頂いたものづくりの種は、今も発芽し続けているのです。

「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ10年前の展覧会は、
意外や、多くの方が足を運んでくださり、
人によっては絵の前で涙を流される方もありました。

「自分の描いたもので人が涙する?」

その意味は1人ひとりの中に埋まっているもので、
ボクがなにか代弁できるものではありません。

しかしその涙は、日本の各地を巡ってボクの手元に届いた花の種を発芽させるだけの力を持ち、
ボクはその後10年、相変わらずその辺で咲いている花の絵を描き続けているのであります。

つづく。

忘れな草をあなたへ

2014年2月の記事を、一部文章を修正し再掲載します。tis-amigos-koike-medium-3

今日、横浜仲町台での展覧会で”忘れな草を描いた絵”が売れました。

午後に予定より遅れてギャラリーに着くと、
スタッフさんから絵の購入希望でお待ちの女性を紹介されました。

初めましてのその女性は、

この展覧会はギャラリーからのDMで知ったとのこと。

購入希望の絵をうかがうと、「忘れな草」の絵だとのこと、

その女性の落ち着いた佇まいやコーディネートの印象が、
ボクが描いた絵と実にお似合いではないかと思ったボクは、
この方がこの絵を買ってくれるということに、
今まで味わったことの無い「安心感」のようなものを感じました。

「なぜこの絵を選びましたか?」
というボクの質問に、

「気に入った絵全部、1枚1枚と会話してみたんです」って。

うれしいなあー。

ボクは「東日本」という展覧会を、
そこで偶然出会った人と人の会話の現場にしたいと願い、
また、そうすることでこの展覧会も完成するのだと考えてきました。

それを今日であったばかりの「初めまして」の方が、
ボクの望む最上の方法でこの現場を楽しまれ、
1枚の絵を購入さえしてくれた喜び。

そもそも安い買い物ではないはずのボクの絵を、
見ず知らずの方がご購入下さるなんてことからして、
思いもよらぬことなんです。

直前の東京青山での展示には出品しなかったこの絵は、
自分にとってアウエーな横浜仲町台で、
「東日本」という痛いタイトルの展覧会に対し、
テンダネスを与えてくれるだろうって考え、
搬入準備の最後に手に取り持ってきたものでありました。

その女性と一期一会な出会いの喜びを分かち合いながら、

「どちらからお越しですか?」と質問してみると、

「葉山です」と彼女。

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この絵を描いたのは2011年3月11日の震災直後。

3月11日の手前で誰かから頂いた花束から、
しおれ始めた花を間引いて、花瓶にさしていた忘れな草です。。

震災から8日後、
もともと予定していた帰省で、カミサンの実家の北九州へ。

東日本の様子が不透明だったので、カミサンと息子は滞在を延長。
ボクは5日間の滞在の後、1人で東京に戻りました。

大きな余震が続いていた東京の家に着くと、
4月を目の前にしても、まだ冷たい空気に包まれたままの部屋で、
ボクは忘れな草がさらに枝を伸ばし花を咲かせているのを見つけました。

「おまえ、よくがんばっていたなあ〜」って思い、

そのけなげな美しさと儚さに心をわしづかみされ、
震災から続く夜の暗闇の中、
4月末ににじ画廊で開催予定の「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会のため、
“生き残り”の忘れな草を描きました。

その直後、永井宏さんの訃報は届きました。

美術家で文筆家で音楽家で、
自由と恋愛を愛し59歳で逝ってしまった永井さん。

ボクは人生の節目節目で永井さんから気にかけて頂き、
なんだろな、ちょっと似たとこあるのかな、どうかな、、
そんなフワッとした心地よい距離感を保ちながら、
氏の活躍を追いかけていた関係でありました。

忘れな草を描こうと思うに至ったインスピレーションは、
永井宏さんがボクに届けて下さったものなのではないかと勝手に思い、
描き終えたはずの絵にさらに手を加え、
「永井宏さんに捧げる」とメモして額装しました。

そんな秘めた経緯は今まで口にしたことはなかったのだけど、
絵を購入された方が忘れな草の絵ととてもお似合いで、
しかも絵と会話までして選んでくれたということがうれしくてね。
ボクは「これは、葉山に住まわれ、絵を描いたり本を出版したりしていたけど、
震災の年に亡くなってしまった方に捧げた絵なんすよ、」なんて話してみたのです。

すると、
「その方、もしかしたら私の患者さんかも、」と、

ボクが永井さんの名前を語ると、

「はい、永井さんの最後の治療を担当していたのは、わたしです、」

絶句。

そして涙…

その方は葉山で開業医をされていて、
永井さんの治療の一翼を担われていた方だったのです。

彼女に、ボクが永井さんと初めて出会った場所は、
このギャラリーの企画を担っている、青山のspace yui であることを伝え、
「この絵はあなたに手渡されるために描かれたんですね」と。

「奇跡」や「サプライズ」という言葉が苦手なボクは、
今日のこのことをどんな言葉で表そうかと考えました。

ボクは青春のある時期に絵を描き始め、長沢節という美意識を浴び、
数多の先輩イラストレーターの方々に生きる厳しさ学んだことで、
青山のyuiという美意識の場所で、永井宏という恋する心に出会うことが出来た。

そういったことの1つひとつは
ボクに”生き残りの忘れな草”を見る目を与えてくれ、
出会いの喜びは震災のリアルと拮抗しながらも、
ボクに1枚の絵を描かせた。

その絵は2年前にyuiの壁を飾ったけれど、
今年の冬は、そこを飛び越え、仲町台の空間を飾った。

それを永井さんに縁の深い方が手にしてくれた。

必然の先にさらに必然が、
偶然やって来てくれた。

ボクはこれほど絵を描いてきて良かったと思えた瞬間は無く、
それはボクが生きてきた意味を裏付けてくれるものだとさえ思いました。

今ボクが死んでしまっても
「あいつはこんな絵を描いたヤツだった」って語ってもらえるような一枚の絵。

もちろん、ボクは今は死ぬ訳にはゆかず、
今日手にした喜びを抱え、仲町台での残りの会期を過ごし、
小池アミイゴ個展「東日本」西日本ツアーで、さらに心の体力をつけ、
いつの日か東北の方にも喜んで頂けるものを創り育ててゆきたい。

そんな表現の旅の足場になるのは、
忘れな草と永井さんと女医さんとボクの間で生まれた
ささやかな出会いと別れのヨロコビの記憶。

ボクが震災後の世界に求めていたのは、
もしくは「東日本」を巡り構築したかったことは、
今日のこの出会いと分かれのヨロコビに集約されているのかもしれない。

忘れな草の絵の婿入り先となった方との別れの時、
「握手しますか」と言ってみたけど、自然とハグになった。

永井さん、
あなたの夢見た世界はこんなじゃないかったかな?

そしてyuiの木村さん
あなたの創りたい世界はこんなじゃないかな?

イラストレーションの仕事の締め切りがあるため、
午後3時過ぎにはギャラリーを後にするも、
ギャラリーからの角を曲がってすぐの花屋の軒先で、
ハッハッハ、
これは笑っちゃうよな〜

210円で売られている忘れな草と目が合ってしまったよ。
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そんな初恋の成れの果てのような花を抱え、
帰りの電車に飛び乗るも、それは逆方向、、

次の駅で降りて、
駅のホームのベンチでお客さんからの差し入れのドーナツを食いながら、
折り返しの電車を待っていたんだ。

2014
0226
PEACE!!

129ヶ月め

2021 年 12 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から3,928日
561週1日
10年9ヶ月
129回めの11日です。

11月から12月にかけて、
福島県奥会津エリアで5年めとなる子どもワークショップを行いました。


震災から10年を過ぎて、あらためて福島県の事業として、
今年は2017年の初年度と同じく柳津町を舞台に、
柳津町立斎藤清美術館を拠点とし、
福島県立博物館の学芸員チームが企画運営を行い、
NPO法人ドリームサポート福島が運営をサポート、
柳津町の地域おこし協力隊が現場をサポートくださり、
柳津町内の柳津小学校と西山小学校それぞれの学童保育を利用する子どもたちに、
学校や家庭では出来ないアートな体験の現場を創る企画。


事前に関わるみんなでオンライでミーティングを行い、
みなさんそれぞれが望むワークショップの姿を聞かせてもらいました。

今回は特に、柳津を愛し多くの木版画作品を制作してきた斎藤清と、
リノカットで作品世界を深めたピカソの作品を見比べられるタイミングということで、
そうした既存の作品に子どもたちをどうアプローチさせたら良いか、
多くの考えを聞かせてもらいました。


斎藤清が描いた柳津の姿は、町民だけでなく、会津だったり福島、もしくは日本の宝のようなものです。

その魅力を子どもたちに確かに手渡してゆくことは、このエリアを子どもたちの故郷としてゆくために、
欠かせない文化事業であるはずです。


ミーティングでは、過疎の進む奥会津エリアに暮らす子どもたちにも、
都会の子どもたちと同じようにアートに触れるチャンスを与えたい。
そんな考えも語られました。

これは多くの大人が納得出来るすごくわかりやすい考えだと思います。

しかし、奥会津5年めとなるボクは考えます。


奥会津に生きることは都会に暮らすことでは手にできない豊かさがあるのではないか。

奥会津に生きる子どもたちに、西洋で育まれてきたアートを「与える」ことの意味を、
ちょっと立ち止まって考えてもいいのではないか。


自然と共生した日本の原風景と言われるような環境で育った子どもたちから、
ボクはなにか新鮮なものを与えてもらえるのではないか。


過疎という環境が育み子どもたちのコミュニティの肩越しから、
日本の社会を眺めたらなにが見えるのだろうか?

もしくは、日本を超えた世界は見えてこないだろうか。


彼らの中に埋まっている色彩や線や構図に出会うことは、
大人にとって喜びにならないだろうか。

そんな大人の喜びが子どもたちに還元され、
さらに子どもたちのクリエイティビティが育つ。

そんな循環は、自然に囲まれたエリアだからこそ構築出来ないだろうか。

ピカソのリノカット作品、特別に撮影の許可をいただきました。

こんな考えの元、子どもたちの表現のアウトプットの触媒として、
優れた美術作品を「利用」するワークショップはどんな姿だろう?

「鑑賞」では無く「利用」というアートとの接し方。

よーっし、
考えがどんどん楽しくなってきたぜ。

そして、
11月に柳津と西山の子どもたちそれぞれとのセッション1。

特別に撮影許可をいただきました。

ボク「これピカソって人の絵だけどどう思う?」

子どもたち「おもしろーい!」

ボク「この変な線、これを指でなぞってみよう」「あ、ほんとに触っちゃだめだけどね」

子どもたち「うい〜ん、ぐうーーー」

ボク「きもちいいだろ〜!」

子ども「わかんなーい」

ボク「斎藤清さんの猫の絵、同じポーズできる?」

子どもたち「できるー!」「えー、できない」「はずかしい」などなど。

ボク「いや、もっと足開いてるぜ!」「あと背中位をぐっと反って」

子どもたち「こう?」「できたー!」

ボク「どう?気持ちいだろう」「じゃあ、外に出て気持ちいい絵を描こう!」

ギャラリーから出て大きな紙の上に立ち。
「さっきの猫のポーズ出来る人いるかなー?」

斎藤清はピカソの気持ちい線を体に記憶した子どもたち。
「きもちいいい!」を形にしてゆきます。

じゃあ美術館の外に出てみよう!


子どもたちは、大人になにか与えられる前に、
子どもたち同士のコミュニケーションのもと、
柳津の「たのしい」をどんどんと見つけてゆきます。

柳津は4年前に同様のセッションを行ったことで、
耕された土壌というのがあるのだろうか?

4年前は手強く感じた『子どもたちコミュニティ内で設定されてしまう1人ひとりのキャラ』が、
今回はスムースに解けて、1人ひとりそれぞれのペースで、絵の具遊びを楽しんでくれたイメージ。


それに対して、今回初めましてで、より少人数で学校生活を送る西山の子どもたちは、
ボクが話始めると、スッと静かになって話を聞いてくれたりする良い子たちなんだけど、

美術作品を見て同じポーズやろうなんて投げかけに、やはりスッとアプローチしようとするも、
周りを見渡し、1人が突出することをためらう。
もしくは、
「これ誰やる?」に対して、子どもたち一斉に「〇〇くん!」と指を指す。

なるほど、子どもたち1人ひとりを見てゆくと、
みんなそれぞれ「私はこういう人だから」と語れてしまうキャラが設定されているみたい。

それは1年生から6年生まで20名くらいのコミュニティを、
日常の中でスムースに回してゆくための子どもたちの知恵であって、
外から来たボクが簡単に否定してはいけないもの。

なんだけど、彼らが成長し順々と社会に出て行く先で、
奥会津で設定したキャラは、簡単に踏みにじられてしまう可能性があり、
またそこでキャラを再設定するのか、もしかしたら折れてしまうこともあるかもしれない。

だから、今本当の「楽しい」に1人ひとりが触れておいてもらいたい。

斎藤清という人は木を彫る「楽しい」の経験が、
ピカソは面白い線を一本描く「楽しい」の経験が、
自分というものに命を与え、今一枚の絵としてみんなの前で息をしている。

この子どもたちはみんな芸術家になるわけではないはずだけど、
しかし、本当の自分が触れた「楽しい」は、人ひとりを生かすしなやかに強い力になるはず。

よーっし。
セッション2の目標が明快になった。

そして、
柳津の子どもたちは、より自分を加速させてくれました。

目に見える目の前の風景を、体が気持ち良いと感じる線で描く。
自分の気持ちが喜び続ける色で塗りあげる。

そんなテーマを投げた直後、柳津にデカイ虹がかかったものだから、
あとはもう子どもたちが勝手に自由に向かって駆けて行った時間。


西山では、まずはボクが気持ち良いと思うことを語り、
大きな紙に描くのも、小さな紙に描くのも、
それぞれめちゃくちゃ気持ち良い一本の線というものがあるってことを見せたら、
徐々に、徐々に、一本の糸をほどいてゆくように、子どもたちのキャラが剥がれ、
1人ひとりの「気持ちいい」が画面に現れるようになり、
ある瞬間、1人の女の子がなにかを突き破るように体全身を使って絵を描き始めると、
「気持ちいい」は波紋となり、子どもたち1人ひとりに伝わってゆきました。


そうしてあらためて子どもたち1人ひとりを見てゆくと、
コミュニケーションモンスターのような活発な女の子が、
実は可愛い絵を大切に描く子だったり、
お笑い担当でみんなから指名される上級生男子が、
実はめちゃくちゃ淡い色を繊細に重ねる子だったり、
現場をブレークスルーに導いた女の子は、
普段は目立つことは一切やらない子だったり。


いわゆる聞かん坊な男の子は、
実は見事な統率者として、色面を楽し過ぎる色水遊びの現場に育てたりね。

それでも、上級生グループが一塊りでみんなに背を向けて、
学校の美術的な絵を描いちゃっていたりもしたけど、
ここまでみんなの心を耕しておけたら、

4年前と今の柳津小学校の子どもたちが変化したのと同じく、
この先は子ども同士でブレークスルーのチャンスを見つけてゆくんだと思います。

しかし、すごい絵が生まれたぞ!

西山ってこんな緑色が美しい場所だって。


大人が語る子どもの個性ってなんだろうね?


ちなみに、この記事のトップに掲載したのは、
ボクが描いた柳津のセイタカアワダチソウ。

柳津は光がとても綺麗な土地で、
子どもたちは光の美しさの中で育っているのだろう。
淡く繊細な色を使う意味は、その辺にあるのかもね。


このワークショップの作品は、
2月から斎藤清美術館のアトリエで展示予定。
ボクも設営に立会い、子どもたちの作ったものがよりかっこ良く輝くよう、
がんばりますね〜!

みんなー
また元気で会おう!

奥会津から東京に戻り、東京駅を出ると丸の内はギラギラだった。

丸の内の街をアートで盛り上げるって企画だそうだけど、
この予算の1パーセントでも奥会津に投入出来たら、
日本はもっと楽しく良い国になりますよ。

128ヶ月め

2021 年 11 月 11 日 木曜日

今日は2011年3月11日より3,898日
10年8ヶ月
556週6日
128回めの11日です。

今回で5年めとなる福島県奥会津エリアでの子どもワークセッションが、
来週より始まります。

今回は2017年の初回と同じく柳津町の子どもたちと、
地元を描き続けた版画家、斎藤清さんの作品を通し地域の魅力を再発見しよう!
という大人向けのテーマを掲げつつ、

どんな山間のエリアでも、ネットで情報が共有出来てしまっている今、
ローカルに生きる子どもたちに何かを与えるというより、
彼らの中にあるものを共有することから始め、
思いがけないものに出会えたら思いっきり驚いてみたい!

そんなセッションにするつもりです。

しかも、今回は同じ町内でも生活エリアに隔たりのある柳津小学校と西山小学校、
それぞれの学童保育を利用する子どもたちに、それぞれのエリアならでは発想を持って臨みます。
!)これは学校単位の企画なので、一般の募集はありません。。


主催者の福島県、共催の町立斎藤清美術館、企画運営の県立博物館学芸員チーム、
お手伝い下さる地域おこし協力隊のみなさん、サポート下さる法人との企画会議では、
まずは「山間のエリアに暮らす子どもたちにもアートを与えたい」という考えが示され、
そこから発想されるワークショップ案を提示されるのだけど、
前述の通り、
まずは山間に暮らす子どもたちが何者なのかを知るのが先では無いかなと。

「多様性」というワードが発想のスタートラインにしっかりと記されている今、
奥会津というとても貴重な土地に暮らす子どもたちに、
都会で暮らす子どもたちは当たり前に手にしているであろう価値を、
都会の子どもたちと同じく与えてあげたい、そんな考えの前にやっておくべきことがある。

もしくは、そうしたことは学校というシステムで行なった方がスムースであり、
ボクのような個人が行う必然はないんじゃないかな?とかね。

そもそも、柳津と西山とでも違いがあって、それが面白い!

みなさんが真面目に考えてきてくださった案を、申し訳ないのだがひっくり返し、
発想の荒野にみんなで立って、子どもたちにとって今必要なものはなんだろうか?
それはそのまま、私たちにとって必要なものはなんだろうか?という投げかけとともに
考えてゆきました。

この企画と並行したタイミングで、いくつかの子どもたちとの企画が動いていて、
そこでも変わらず、
東京でイラストレーターやっているボクのような者が地方の子どもたちになにか素敵なものを与える、
そんな考えをひっくり返して考えてもらうことから始め、
子どもたちが何者なのか、何を必要としているのかを、アートの力を使って知ってみよう。
何かを与える、もしくは共有するのはそれからでいいんじゃないか。
それはそのまま、そこに暮らす大人たちが何を必要としているのかの気づきの現場とはならないだろうか?
そんなことを語り続けています。


「震災から10年」というワードの魔法が間も無く切れる今。

しかし、今からやらねばならぬことばかりです。

ボクが向き合う大人は、子どもたちのことを真摯に考えている素晴らしい方ばかりです。
ボクは彼らが愛す子どもたちと共に、そんな1人ひとりの大人の心もオープンに解き放たれる、
そんな必要があると考えています。

柳津セッションのフライヤーデザインは今回も江畑さん。
彼女もまた地域おこし協力隊として会津に入り、
このプロジェクトに5年に渡り関わり続けてくれてます。

とてもセンス良い人で、
最初の頃はとても繊細で綺麗なデザインを投下してくれていたのが、
ボクが毎回ガチで子どもたちと絵の具遊びしている姿に慣れたのか、
今回はとてもタフで美しいデザインにしてくれ、
このフライヤーを手渡された学校の先生からも「綺麗!」と歓声が上がったとのこと。

なんつーか、彼女の生きる免疫力も高まったような5年。
こういうことが日本中で起きたらいいなと、
次の10年はそんな10年であればと願っています。


この秋何が生まれるのか、
楽しい報告が出来るようがんばりますね〜〜!

127ヶ月め

2021 年 10 月 11 日 月曜日


今日な2011年3月11日から3,867日
552週3日
10年7ヶ月
127回めの11日です。

福島県浪江町の水田跡地に繁殖した準絶滅危惧種に指定されているミズアオイの群生を、
40号の板に描きました。
震災から10年目の夏、農薬の使われぬ耕作放棄地だからこそ繁殖したという報道を、
福島県立博物館の学芸員さんが嬉しそうにSNSでシェアしているのを見て、
これは見てみたいなと、朝いちの常磐線特急ひたちに飛び乗り浪江町まで。
常磐線沿線はいわき駅までは何度も来ていたのですが、
それより北は震災からの復旧が進まなかったことや、
原発事故からの復旧過程を興味本位で見ることを避けたい気持ちもあって、
立ち入るタイミングを探っていました。

昨年3月14日、富岡―浪江間(20.8キロ)で運転を再開し、
9年ぶりに全線がつながったとのこと。
富岡の桜並木に久々再会した富岡出身者の姿が報道されたこともあり、
今回このタミングで北に弾け飛んでいった感じです。「初めまして」の いわき駅より北側の土地。
田んぼが綺麗だ〜

海も綺麗だ、太平洋だ〜


人の手の入った景観も美しく、
10年数ヶ月前に人々がどんな思いでこの土地に暮らしていたのか、
ほんとわずかではあるけれど、想像出来ました。上野駅から3時間15分で浪江駅。新型コロナウイルスの感染拡大は収束傾向にあるとは言え、
あまり人と接すること無く着いた街は、
光う溢れる伸びやかで気持ちの良い土地でした。

未だ帰宅出来ぬ人、帰宅を諦めた人、この町で生活を再開された人、
あらゆる立場のある人に対する想像力が追いつかずにいる自分ですが、
ここで暮らしていた人にどれだけ愛されていた土地なのかは、
他の美しき土地を巡ってきた経験から想像出来ます。


そして、やはり実際足を運ぶことで、
これまでは報道の望遠レンズの中霞んでしか見えていなかった土地が、
色彩を帯びた熱のあるものとして感じられることは、大きいなあ。

これは、もの心ついた時からモノクロの写真の中にしか存在しなかった熊本県の水俣に、
実際に行ってみた時に起きた変化と一緒。

想像を絶する苦難に襲われた土地について、
ボクはその痛みを想像することを止めることはありません。

しかし、それと同時に当たり前にあった、もしくは今当たり前になりつつある生きる喜び、
そんなものを発見し、自分の中で大切に育ててゆくようなこともやらねばです。


それはどういうことだろうかと、たとえば、田んぼに自生した花を描いてみて、
でもそれはカッコつけた自分の姿に見えたりして、「あ、これは違うな」と塗りつぶし、
また描き、また塗り潰しまた描く。
そんなことを繰り返すことでやっと、風景の中に潜む人の気配や生きるに手が届く。
そんな作業をこれからも繰り返しゆきます。


でないとね、
土地に根付き暮らしてこられた方は、チャラいの簡単に見破ってしまうからね、、
ともかく、会話の糸口になる小さなひと言がこぼれ落ちてくるまで、
カッコつけの自分を塗りつぶしてゆきますよ。

浪江町での滞在は40分ちょっと。
(常磐線のダイヤの都合もあるし、地域にコロナの心配をかけたくないのもあるしね)
しかし、
震災以前に自分が使っていた電気がどんなものであったのか、

あらためて知ることが出来たし、
では自分が生きてゆくのに足るものはなんだろうって、
あらためて考える旅になりました。

名物の浪江焼きそば、そしてシラス丼、
次は堪能させてもらいますね〜!帰り道、
何度も足を運んできたいわき市の薄磯ビーチから塩屋崎灯台、豊間ビーチとフィールドワーク。

ここもまた絵にしてみよう。

しかし、10年前は水鳥の足跡だけだったビーチが。
そろそろ息子と一緒に来てみようか。


あらためて、
今回描いた絵は現在開催中の展覧会に出展しています。
ただ花を描いてあるだけの絵ですが、
ご自身の中にあるなにか大切なものと会話してもらうきっかけになればいいなと、
願っております。

WAVE TOKYO 2021
日時 2021年10月9日(土)~17日(日)
会場 3331 Arts Chiyoda
〒101-0021 東京都千代田区外神田6丁目11−14
入場料1,000円をお願いいたします。
参加作家
赤 赤津ミワコ 秋元机 朝倉世界一 浅野忠信 鮎川陽子 荒井良二 安齋肇 anna choi 飯田淳 ikik 石浦克(TGB design.) 伊藤桂司 井上嗣也 岩間有希 牛木匡憲 後智仁 宇野亞喜良 瓜生太郎 AC部 越前菜都子 大津萌乃 岡田将充(OMD) オカダミカ 小川泰 小岐須雅之 沖冲. ONO-CHAN 角田麻有 片桐仁 加藤崇亮 川口育 川元陽子 管弘志 薬指ささく くまあやこ くるはらきみ 小池アミイゴ 古塔つみ 小林紗織 サイトウユウスケ 坂口隼人 櫻井万里明 佐々木香菜子 笹部紀成 佐藤ブライアン勝彦 SARUME ジェニーカオリ 七戸優 島田萌 しりあがり寿 スガミカ 須川まきこ 須田浩介 snAwk 空山基 高木真希人 高橋キンタロー 竹井千佳 田名網敬一 田中麻記子 dbstr タムラフキコ Dunkwell 都築まゆ美 tupera tupera 手島領 寺田克也 TERRY JOHNSON 時吉あきな 友沢こたお とろろ園 長嶋五郎 中島友太 長野剛 中原昌也 中村幸子 那須慶子 抜水摩耶 根本敬 野々上聡人 長谷川雅子 HAMADARAKA(EmuArizono/EruArizono) Bioletti Alessandro  平井豊果 ヒロ杉山 VJ Technova POOL 藤田淑子 藤本巧 古川じゅんこ 本田誠 前田麦 牧かほり マスダカルシ 益山航士 真々田ことり 水野健一郎 ミヤギユカリ 本秀康 森口裕二 矢野恵司 山口はるみ 山崎由紀子 雪下まゆ ユムラタラ 横尾美美 吉實恵 吉田ユニ 吉村宗浩 米原康正

126ヶ月め、246ヶ月め。

2021 年 9 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から3,837日
548週と1日
10年6ヶ月
126回めの11日です。

そして、
2001年9月11日から7,489日
1,069週と6日
20年6ヶ月
246回めの11日です。

20年前の夏、初めてPCを手にしインターネットにも触れ始めた直後でした。
20001年9月11日、夜の9時過ぎに家に帰りしばらくすると、
テレビがニューヨークで起きている異常事態を報道し始めました。

すぐにインターネットに接続し、情報を収集しつつ、
当時深く関わっていたclammbonのHPの掲示板での発言を追いました。

LIVEで知り合ったファンの方が多いので、
1人ひとりの顔を思い浮かべながら、1人ひとりが受けた恐怖を想像し、

可能であれば癒しの言葉をかけ続けたのが深夜まで続いた、
そんなアメリカの同時多発テロ発生9月11日の記憶。

その際よく語られた「映画を見ているようだ」という感想に対する違和感、
それは、10年後の東日本大震災発災時に感じ、

その時は「映画みたいなものをリアルなものに引き戻さなくちゃ」と、
現地に弾き飛ばされるように駆けた原動力のひとつになったはずです。

2011年。

当時ボクは東京青山のOjasというラウンジCLUBで、
唄のための時間「春夏秋冬」というイベントを開催していました。

1999年に春に都内で活躍していたR&Bシンガーのみんなと始めた、
「誰でも歌っていいよ」というイベント。

宇多田ヒカルがブレークした直後でしたが、
日本でR&Bはまだマイナーなジャンル。

しかし、それに必死に食いつくようにして自分を表現しようとしている若い人が少なからずいて、
しかし、女性シンガーの多くは、男性目線のプロダクツの上で、性的搾取も含めた表現を求められていたような時代です。

上手いとか下手とか、可愛いとかセクシーだとか、業界的ジャッジを排除し、
ただ歌いたければ集まればいいよという時間を、毎月一回木曜の夜に設けたら、
意外やものすごく歌の上手い人も多く参加し、
2年後には毎週開催しなければならなくなるくらい表現者が集まるようになったのです。

ものすごく上手い人も、そうでもない人も、同じ時間の中で歌い、
上手くないけど必死に表現しようとしている女の子の歌を、
バリバリ歌える人がめちゃくちゃ真剣に聞いて、そこで受けた感動を言葉にし、
自分の表現にフィードバックするようなことが自然と生まれた時間。

現場の責任はすべて自分にあると考え、業界的なマナーから一線を引いたイベントは、
意思のある人なら来るものは拒まずですが、
イベントを大声で宣伝したり、売り込んだりなんてことは絶対にせず、
お客に友人を呼び込むようなことさえせず、アンダーグラウンドを貫きました。

そんな時間だったからだと思います。

9・11同時多発テロ、その半年後のアメリカのアフガン侵攻と、
圧倒的な暴力を目撃されたとしても、みんなフリーズすることなく、
相変わらず人の発する小さな表現に真剣に向き合い、語らい、自分にフィードバックさせる。
そんな循環を絶やすことなく続けられる小さな現場だからこそでしょう、
どんな現場より早く、暴力に対してどんな表現を持って立ち向かうのかが練リ込まれた歌が生まれました。

ある夜「ハナミズキ」と名付けた曲を作ってきたと、1人のシンガーが歌い始めました。

うす暗がりの青山の空間で、弱き人々が息を飲むようにしてひとつの歌に向き合う風景。
それはとてもしなやかな力に溢れた風景でした。

その歌に込められたメッセージがどんなものか、その瞬間に理解など出来ないのだけど、
ただ、こんな風に1人の表現に真摯に向き合うことを「100年続けて」ゆかねばと思った歌の記憶。

今週の8日、花の絵の連載を続けている京都新聞に、そのことをちょっと書きました。
ただ、300文字程度で語ることは限られてしまうので、あらためてここで言葉にしています。

この歌に限らず、今も心の中でループを続ける歌に出会えた「春夏秋冬」というイベントは、
2002年5月、やるべきことはやったとボクが判断し、その任務に終止符を打ち、
よりローカルな表現を求め、ボクは沖縄や福岡を目指すようになります。

自分のやってきたことを語る時、
音楽イベントとして、clammbonやハナレグミとの関係が濃かったOurSongの名前を出すことが多いですが、

春夏秋冬はより参加するすべての人が表現者で、すべての人が主役と考えていたことと、
参加者の中で同じような発想でイベントを始める人も多かったので、
自分の考えを言葉にして発信するのは避けてきました。

あれから20年めの11日。
今から80年、その頃は自分は生きていないけれど、
ボクの息子たちたち世代に繋いでいってもらいたいことを
言葉に残しておきたいと思ったのです。

ところで、
春夏秋冬でのボクのDJはサイコーだったってことだけは言わせといて〜

125ヶ月め

2021 年 8 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日より3,806日
543週5日
10年5ヶ月
125回目の11日です。

今日は絵本「はるのひ」原画展の初日のため三重県四日市に来ています。

午前午後と、子どもたちとの絵遊びの時間を設けています。
コロナの閉塞感の中、感染対策は万全に行いながらも、
子どもたちの気持ちが解放されてゆくような、
付き添いのお母さんたちの心が少しでもほぐされるような時間にしてみます。

絵は、毎年参加している熊本でのチャリティーのために、
水彩絵の具で色紙に描いた朝顔の花。

家のベランダですくすく育ち、たくさんの花をつけてくれている朝顔。

コロナの感染拡大が止まらぬ夏に、
植物が成長する姿から感じるしなやかで伸びやかな力強さは、
自粛を強いられる日々を生きる力になっているようです。

チャリティーの詳細は以下をご参照くださいませ。

+++

 各界で活躍中の皆さまから色紙や小品約170点が寄せられました。
展示、公開抽選の上、販売します。益金は熊本善意銀行を通じて社会福祉に役立てます。
入場無料。
【会期】8月18日(水)~22日(日)午前10時~午後6時
【会場】鶴屋ふれあいギャラリー(東館8階)
【申し込み】会場で申込用紙(5枚組み・300円)を購入。
希望の作品番号、氏名、電話番号を記入して会場内の投票箱へ。
最終日の22日は午後5時で締め切り。
【公開抽選会】8月23日(月)午前10時半、会場で。
       ※当選者は新聞紙面に氏名を掲載。
【発表】 8月24日(火)付の熊日朝刊。
【価格】 1点8千円(額付き)
【作品渡し】8月23日(月)は午後2時~同4時に会場で。
8月24日、25日は午前10時~午後6時まで熊日本社事業局(熊本市中央区世安町)で。
申込用紙の半券および代金と引き換え。

+++

こんなポストをしている最中に、
熊本日日新聞が9月いっぱいで夕刊を休刊させるとのネットニュースが浮上。
社会のあり方が変化する中、どれだけしなやかな感性を身につけられるのか、
これからも地方で出会う生きるアイデアを追いかけてゆこうと思います。

オリンピックの開会式、閉会式を見て、さらに強く、
日本のローカルに生きる文化を大切にしないと大変なことになると思ったのです。

絵はマラソン男子優勝のケニアのキプチョゲ。

124ヶ月め

2021 年 7 月 11 日 日曜日

今日は2011年3月11日から3,775日
539週2日
10年4ヶ月
124回めの11日です。

先月の東北フィールドワーク後、
東北で10年かけて積み重ねられてきた地域作りの知恵を、
東京での暮らしの中に落とし込むことを考えています。

対話と共有から得られる新鮮で確かな発想。

もちろん上手くいったことも上手くゆかなかったこともるわけで、
これからも東北のチャレンジは続き、ボクはそれを追いかけてゆくつもりです。

東京はオリンピックが目の前に迫り、しかしコロナの感染は収束せず、
ワクチン接種を進めながら4度目の緊急事態宣言が発出される状況にあります。

東北では今でも、テレビでも新聞でも人の間でも「震災からの復興」ということが語られていますが、
東京では復興とオリンピックが一括りにされてしまったことで、
復興の本質がなんであるのか、思考停止になってしまったように感じました。

NHKの連続テレビ小説は、震災から10年目の今年、あらためて被災をテーマに組み込み、
復興というものがどんな姿であるのか、改めて考えるチャンスを作ってくれてるけれどね。

「復興」という言葉がかかるのは、
社会的インフラ、システム、生活、心、などなど多岐にわたり、
ひとつの価値観で語れるものではありません。

「復興」と思ってやったことも、
ある人にとっては「復旧」でしかなかったりもします。

「復興って何?」を考えることはとても大変なんだけど、
だからこそ日本の社会全体の問題として、1人ひとりそれぞれの場所で、それぞれのサイズ感で、
考え続けてゆくことで「世の中をより生きやすいものに育ててゆこう!」

でないと、失われた命に対して申し訳が立たない。

ボクはそんな考えでいました。

そんな考えのもと、自分の暮らす渋谷区ローカルの活動に参加するようになってみると、
実は自治体レベルでは、震災から学んだことが細部に落とし込まれていることに気づく。

が、いわゆる「普通に暮らし」「普通にメディアに接している」だけだど、
多くのことを見落とすようなことになっている。

これはなんだろうな。
なんだかとてももったいない。

2013年5月、オリンピック開催が東京に決まった瞬間、
招致委員と呼んでいいのかな、そんな人たちが一斉に立ち上がり喜びを爆発させた姿を、
テレビの画面で見て、
オリンピック開催はそこまで喜びを爆発させることなんだと、少なからずの違和感と共に思い、
さらには、
震災から2年2ヶ月のタイミングで、まったく万歳な気持ちになれない自分がいてね。

「復興した姿を世界の人に見てもらえるオリンピックにする」と語られたことは、
国や委員会に委ねることでは無く、個人レベルでも検証続ける必要があると。

その日のSNSには、
オリンピックが東京に決まったことで、自分の仕事が増えることもあるだろう。
しかし、それで浮かれることなく、見るべきものを見続けてゆかねば思う。

みたいなことを書いたなあ。

たとえば、復興庁のHPを見ると、
大きく「復興五輪とは」と書かれ、
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を機会に、復興しつつある被災地の姿や魅力を国内外に発信することで、被災地の方々を勇気付け、復興を後押しすることが我々の使命の一つです。
などと続きます。

社会的インフラが復旧し、さらに復興道路のようなものが新たに整備され、
人の行き来がスムースになり。経済活動が活発になるとともに、
インバウンドの呼び込みがスムースに行われ、経済的豊かさが高まり、
そうした経済サークルに関わる人々の生きがいが高まる。

そんな理屈や構図は良くわかる。

が、それだけじゃないよな。

人の生き方、人との繋がり方、そこから生まれる地域の姿、
地域と地域の連携、ITやグローバルとの繋がり方、などなど、

人が生きてゆけるためになにが出来るのか?
未曾有といわれ、かつて経験したことのないと語られる状況から、
新たな社会を創ってゆくこと。

そうしたことに、
「掛け値無しに良いこと」と信じてやまないオリンピックを手にた
おじさんおばさんたちの思考や目は曇らなかっただろうか?

ボクは2016年オリンッピクに日本が立候補した際の計画、
「史上最もコンパクトな大会」に期待するものがあったし、
旧国立競技場はそのままに、晴海にメインスタジアムを建設する計画は、
ポジティブに捉えていたのだけどなあ。

その後東日本大震災があり、
社会のあり方をみんなものすごいエネルギーで考えていたはずの2013年、
2020のオリンピックが「TOKYO」とアナウンスされた瞬間の、
テレビの向こうで喜びを爆発させるおじさんおばさんたちは、
どこからやってきた人たちなのか、あの瞬間見失ったもの、
もしくは「見失なわされたもの」はなんだろう?
その喜びの背景にあるものは、社会や個人にシェア出来ているのだろうか?
それを共有する努力をすること無く、
「復興」をなにか都合の良い言葉として利用してしまってはいないか?

その後、
「え?国立競技場ってこうなるの??」
「え?このシンボルマークどう決まったの??」
「え?オリンピックのキャラクターって、、」
「え?ポリンピックのぽすたーって、、」
「え?オリンピックの予算てこんなに膨らむの??」
「え?女性は話が長いの??」
「え?開会式はブタが??そんなことないよね、、」

「え?聖火リレーって、スポンサーのバスが先導してくるの??」
などなど、聞いてないよ〜なことばかり。

そして、
「オリンピックってこんなにおじさん臭いものだったけ?」

これは良いことだからやるべきことをやる。

オリンピックをとりまく数々のことが、
なんだか、ほんと老けたものに見えちゃうんだよね。

それはきっと日本の社会の中でオリンピックは
きっちり56年の年齢を重ねてしまったということなんだろう。

それはボクが実際に東北で出会う「復興」ってことと、
とても生合成が悪く見える。

身近で言えば、
「スポーツの力で日本を元気に!」と叫ばれる割に、
子どもたちが駆け回る公園やサッカーグラウンドが閉鎖され、
オリンピック関連の施設に変えられているのを見て、

もしまたオリンピックを誘致するようなことがあれば、
最高峰のアスリートが競い合うすぐ側で、
子どもたちも走り回れるようなものを目指してもらいたいな。

そのためにも、今のIOCが主催するオリンピックは、
一度終わりにする必要があると思う。

123ヶ月め

2021 年 6 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から3,745日
535週
10年3ヶ月
123回めの11日です。

6月2日、福島県の郡山市の”みどり書房”さんから頂いた絵本の原画展のご縁に答え、
PCR検査陰性を確認した上で、設営に向かいました。

初めて展覧会を開催するという書店のみなさんとボクとで、
現場作りのスキルアップをするってことに意味を感じたので、
ともかく現場へ。

その後、仕事でご縁をいただいている医療法人社団進興会さんの、
宮城県仙台市にある”せんだい総合健診クリニック”で、人生初人間ドックを受診。

ならばと、連載をしている旅のエッセイの取材をしようと、
4年半ぶりの気仙沼の唐桑へ。

いつもは東北新幹線で一関乗り換え大船渡線向かう気仙沼ですが、
今回は復興道路と呼ばれる高速道路、
三陸道の仙台-気仙沼間が開通しているとのことで、
高速バスを利用してみました。

利用した印象は「気仙沼は近くなったなあ〜」です。

震災後知り合った友人たちと久々の再会を果たし、
会話のほとんどを占める他愛も無い話で笑い、
しかし、会話の中に絶えず挟み込まれる「震災から10年のリアル」に頷き、
コロナはほんと大変だよねと、慰め合う。

あれから10年の気仙沼を歩き、みんなの今を確認。

10年頑張ってきて、「よし!」と思い踏み出せたタイミングで、
コロナで足踏みを余儀無くされる苦しさ。
ボクは無力な存在ですが、まずは共有したので、
今後はアイデアを交換してゆきましょう!

そこからさらに陸前高田、大船渡と北上。


陸前高田では、東日本大震災津波伝承館へ。
この国の作った施設と、たとえば、気仙沼市が運営する東日本大震災遺構・伝承館との、
存在意義の微妙な違いを肌で感じつつも、
あれから10年の今、心はまだ静けさと共に祈る気持ちで支配されるのだなあと思い知る。

初めましての土地大船渡は、
東京で知り合った大船渡育ちの女性の、大船渡への愛と喪失の言葉を頼りに、
ともかく自分の足で歩いてみることをしてみました。

中学生の春、彼女が心に刻んだものは、消えてしまようものでは無く、
今もその時で止まっていることばかりでもあろうけれど、
だからこそ救えるもの、生かすことの出来ることはあるんだろうと、

未だ復興の石鎚が鳴り響くリアスの街を包む、
懐の深い美しき自然が与えてくれる優しさと強さから直感しました。

小笠原満男さんが中心となり尽力し造ったサッカーグラウンドにも出会えた。
なるほど「誰が造った」なんて言葉はどこにも書かれていない、美しいグラウンド。
俺の満男、紛れもなくいい漢です。


そして宮古。
なんども利用している三陸鉄道も、南リアス線は初めて。

2年ぶりの宮古駅を降り立つと、
懐かしいという気持ち以上に、なんだが元気そうに見えるぞ!という、
震災直後では感じられなかった”華やかさ”なんてものを感じました。

それでも、いつも立ち寄る食堂は、ゴリゴリのコロナ対策での営業で、
10年頑張ってきて、今回のコロナは、やはり厳しいのだろうなと思うばかり。

旅の最後の目的は井戸。

岩手県沿岸部のすべての町から映画館が消えてしまったことを受けて立ち上がった、
古い酒蔵を利用し、映画を上映し、地域コミュニティの核を創ろうとするプロジェクト、
シネマ・デ・アエルのコアメンバーが新たに企画した、
「街に”井戸端”を復活させよう!」というクラウドファンディングを利用し達成したプロジェクト。
その井戸を見ることです。

この日偶然にもプロジェクトの代表の有坂さんに会うことが出来て、
こうしたプロジェクトの意義なんてものをあれこれ聞かせてもらえました。

そこで語られることのほとんど全てには「対話と共有」という原則が通底しています。

この「対話と共有」は、この旅を通して聞こえてきて、ボクも繰り返し使った言葉でした。

議論以前に対話。
決定の前に共有。

人間の力の及ばの震災というものを経験し、
社会での経験値や職業、もしくは政治信条なんてものも違う人たちすべての命が尊重され、
新たな社会を創ってゆかねばならない。

そんな状況に直面し、最適解を求め続けた東北の人たちは、
幼い発想で開催されるオリンピックでどうにかなってしまっている東京より、
確実に10年先の未来を生きていると思えた今回です。

たとえば、
・巨大防潮堤が造られる。
・砂浜が失われるのは身を切られるような思いだ。
・ならば、防潮堤のデザインを砂浜が失われるものに変えよう。

対話と共有をサボることなく重ねた結果、
ボクのようなものから見たら、なんて美しい風景なんだと思えるビーチが生まれた。

気仙沼の大谷海岸は”おもてなし”のTOKYOが本来目指すべき未来だと思いました。

あらためて、
復興とは元に形に戻すのでは無く、
みんなが願う未来を創造することなのではないかと。

それは、あの日から10年の今から始められることも多いぞ!と思った今回。

復興のお金が土木にばかり流れることに違和感を感じるも、
三陸を貫く高速道路には確かな意義を見つける。
ならばこれをどう使っていったら良いのかを考える余地を、
東北の人は握っているように見えました。

そんなちょっと未来の東北では、
イラストレーションやデザインがもっと必要とされるし、
そんな必然に答えられるものを作らなくちゃと思ったのです。

そんな話の続きは、9月ごろ絵と一緒にまとめてみますね〜

福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと

2011 年 6 月 14 日 火曜日


6月11日土曜日6時30分、
東京駅八重洲南口近くの駐車場に集合。

高速バス2台を駆って、福島県いわき市の豊間という土地を目指す、
震災ボランティア体験とLIVEがセットされたツアーに参加。

1万円の参加費は、全額豊間に義援金として寄付されます。

土砂降りの雨の中、時間通りに駐車場に着くと、
すでに多くの参加者が傘をさし、思い詰めたような表情をして待っていました。


7時20分出発。

首都高箱崎ジャンクションを抜けるまでは、いつもの渋滞。
常磐自動車道に入るとスムースに流れ始めます。

震災から3ヶ月後の土曜日、
『被災地に向けた車列の緊迫感や熱』を想像していたけれど、
上下線とも「こんなものか」と思われる通行量の少なさ。

その意味をぼんやりと考えている中、
参加者の自己紹介がスタート。

この企画は津田大介さんのプロデュースであり、
ツイッターで情報を手にし参加されたという学生さんが多く参加していました。
みなさん一応に”深い意気込み”を確かなコトバで語られていて、
この企画を自身のこれからの活動のきっかけにしてゆこうとする、
熱い気持が伝わってきました。


茨城県に入りしばらくすると、
未だに屋根にブルーシートのかかった民家を多く見ることになります。

そんな痛々しい点景を、
田植えの終わった緑色のみずみずしい風景が包み込む。

そんなのどかな景色が、100km先のいわき市まで繋がっていました。

人の手の回わり切らぬ被災の現実と、
どうしようもなく廻ってくる自然のサイクル。

放射能は人間社会にとって重大な障害であっても、
自然を相手にした人の営みのスベテを支配するものでは無い。
その事実がバスの車窓の外を小気味良く流れてゆきます。

「米、育てよ〜!」
「無事に出荷されろよ〜!」

雨も小降りに変わり空が明るくなってきました。

3時間ちょっと走り、高速を降りていわき市内へ。

バイパス沿いの工場や火力発電所はどこもフル稼働のイメージで、
煙突から白い煙を吹き上げています。

小雨の降る交差点で、2人の男の子が自転車にまたがったまま、
信号が変わるのを待っているのを見ました。

この日発表されたいわき市の放射線量は、
0.20マイクロシーベルト。

東京新宿が0.0598マイクロシーベルト。

この数字の意味を考えるのは、目的地に着いてからにしました。

しばらく行くと、日本中どこへ行っても出会う事の出来る景色。
ファミレスやDIY系の量販店や中古車販売店などが、いくつも軒を連ねる地域を通過。

常磐道とは一転、軽自動車が連なるバイパスを徐行するように走るバス。

東京でみられる「がんばろう」的なスローガンを出しているのが、
1店舗だけだったのにちょっと驚いたのですが、

その意味も津波被害に遭った目的地に着いて、改めて考えてみることにしました。

バイパスを左折、山道風情の切り通しや短いトンネルを抜けると、
景色は海の匂い。

福島県いわき市豊間(とよま)地区に到着

大きな地図で見る

太平洋に面し、なだらかな山が海岸線近くまで迫る、
南の合磯崎から北の塩屋崎まで、大きく弧を描く2kmほどのビーチを有する土地。

高速道路や常磐線といった幹線から離れ、近隣の漁港から揚がる海産物の加工場が点在。
わずかな土地を有効に使い米作も行われています。

福島第一原発から南に49km。

そんな土地の、住民の生活圏の85%が地震と津波で壊滅。

こちらの集落では80名からが犠牲になり、
向うでは100数十名が犠牲。
未だに発見されていない方も多く…
など、など、など。

しかし、かつて街だった場所を案内されても、
ボクはこの土地の3月11日14時46分以前の姿を知らず。

無惨に破壊された家や瓦礫の山を見ても、
それは1つの景色でしかなく…

そこにどんな痛みや悲しみが今も置かれているのか、
想像すら出来ず。

あらためて自分の心を探ってみても、
感情というものが涌いて来ないのでした。

間違いなく”感情”はこの土地で生活を重ねられてこられた方々のもの。

この土地に至る直前のバイパスで、「がんばろう」などのスローガンに出会わなかったのは、
この土地が未だに震災の真っただ中にあるからなんだと思いました。

ボクは豊間でかなりの枚数の写真を撮り、
その中には破壊された家も多く写っているのですが、
それをここで発表するのはボクの役割では無いように思います。

ただ、
感情とは別の部分の肌感覚。

風がどうとか、陽の光がどうとか、
そんなのを頼りに出会った景色を並べてみます。

この日のメインとなったのは、
渋谷慶一郎さんと七尾旅人さんのライブ。

津波の被害で鉄骨だけになったセブンイレブン。

それでも商売を再開された方々の心意気が、
津田大介さんを動かし、イベントを立案実行。

そんな現場を舞台にしたLIVEは、
2週間ほどの準備期間で当日を迎えたそうです。

区長さんやセブンイレブンの店主さんは、
「3ヶ月経ち、ともかく楽しいことに切り替えてゆきたい」との旨をスピーチ。

清掃ボランティアをする前に、被災地の一部を案内され、
被災の現実をコトバとして伝えて頂けました。

豊間のビーチはサーフィンの大きな大会が行われてきた場所。

今は堤防のすぐそばで波の立つのが見えるけど、
震災前は沖合の方まで“鳴き砂”の美しい砂浜が広がっていたそうです。

しかし、地盤沈下でその砂浜が失われてしまったとのこと。

それを語る区長さんの表情は、
『土地の方が犠牲になった悲痛さを簡単に説明してしまわぬよう』
凛とした姿で語られていたのとは打って変わって、
“町民の誇りであった美しい浜を失ってしまった淋しさ”が滲み出た表情をされていて、
それは決して「楽しい」に切り替わろうとしている人のものには見えなかったです。

ボランティア体験として街区の清掃作業が始まると、

ボクは区長さんの記憶の中にある豊間のビーチを想像して、
ならば、
『ここがまた美しいビーチに戻り、サーファーや海水浴に来たコドモたちが歩いた時足をケガをしないよう』
ガラスの破片を集めることにしました


清掃ボランティアの時間はあっという間で、
義援金受け渡しのセレモニーを経て、LIVEスタート。

しかし、イベントを目指して地元のコドモたちが集まっていたので、
その足元の安全確保のため、通りから駐車場、ライブ会場までと、
ガラスを拾い続けていました。

七尾旅人さんは今一番出会いたい人のヒトリだったけど、
彼のピュアネスに答えるボクのあり方は、
ガラス拾いだったように思います。

この日は、彼に正面から向き合うより、
風に流され届いてくる音と並走してガラス拾い。
そんなのがより音楽的に思えたのです。

なにより個人的危機意識が、
「ガラスを拾うこと」がここに居る意味だと、
直感的にボクに語り続けていたように思います。

みんながLIVEを見ているのに、自分はガラス拾いをしている。

3・11以前であれば、
自分のやっていることをイヤミな事だと思ったかもしれないけれど、

感情の入る隙間も無く、カラダが動いてガラス拾い。

それがとても当たり前であると思った6・11豊間。

いつかこの時のコトを七尾旅人さんと話すことがあると思うけど、
それは復興が成された遥か未来でもいいこと。

ともかくガラスを拾う。

そして14時46分。


雲も切れ、陽射しの暑さを肌に感じるようにもなった豊間。

凪の状態がしばらく続き、空気が停滞して蒸し暑さを感じる中、
2時間ほどの作業でガラスを拾い切ってしまったので、「そろそろLIVEに向き合おう」と。

すると、凪から海風へ。

東南東の方向から海を渡ってきた風を、
ボクは気持の良いモノだと感じた。

圧倒的にヒドい状況の土地にあって、
人は風を気持よく感じる?

「ここはこんなに心地よい風に包まれる豊かな土地なんだ!」

ボクはもっとこの土地を感じてみたくなり、
ヒトリで海岸に出てみた。

東南東の風であれば、
北にある原発の放射性物質も混じってはいないだろうしね。

夕暮れ近くの空と太平洋、
そこに美しい構図を添える豊間の海岸。

こんなものが10mもせり上がり押し寄せ、人を殺すのかって…

そのまま清掃していた地区と逆の方に歩いていったら、
そこは圧倒的になにもかも失われていた場所だった。

清掃してライブを見ていただけでは出会えない、
底なしの穴ぼこのような景色。

しばらくヒトリで迷って歩いていたら、
強烈な腐臭に出会う。

主の帰ってこない海産物の加工工場、
そこの冷蔵庫が圧倒的な臭いをまき散らしている。

この場所で1分こらえることが出来るかどうか、
それほそ暴力的な腐臭。

「ボクは東日本大震災の被災地にいるんだ!」

感情の扉が開き、
怒りが込み上げてきた。

後で確認してみたら、
被災後しばらくは“津波臭”に覆われていた被災地だけど、
それと交代で魚の腐臭が街を覆っていったとのこと。

腐臭はしばらくボクにまとわりついて、
ライブ会場に戻るころには潮風と混じり合い、
磯の匂いに化けていた。

この日のことはネット配信され、
多くの方がそれに触れられたそうだけど、
ボクが「被災地の海風が気持よく感じたこと」や、
「暴力的な腐臭」は配信出来ないことであり、

PCに開いた窓の向うへと働かせるべきイマジネーション、
それを支える足場のようなものを造るのは、
ボクのような立場にあるものの責任なんだと思った。

そのためには、
分かったふりをせず、
分かった口もきかず、
思考停止に陥らず、
コミュニケションを続けなければだ。

地元の方は遠巻きにして見ていたライブ、

中には炊き出しだと勘違いして来られた方もいたりする。

ガラスを拾いながら側に寄ってゆくと、なんとなく会話が始まり、

しかし、なんとも言いようの無い表情で、人の輪から遠ざかるご婦人がいたり。

そんな方々と、わずかな時間だったけど交わした言葉の中からいくつか。

・へたりこむように座っていた2人のご婦人との会話

「岩手にも宮城にも原発事故は無い」

「ともかく原発事故をどうにかしなければ、なにも始められない」

「今はまだいいけど、北風が吹く冬が恐い」

「数値がいくつなんてことは放射能が恐いってことと関係無い」

「出て行ってしまった人は、しょうがない」

「コドモたちはもう津波ごっこやってるよ」
「でも、すぐにホンモノの警報が出るから、カワイソウだよ」

「被災者の中でも格差がある」 

「地域はもう元に戻らない」

「政治家は自分たちことばかり、」「やることやれ、」

・海沿いの家と家族を流されたご夫婦

「ここに車とめたすぐ後だよ、津波が来たのは」

「もうここには家は建てられねえし、住む気には、なれねえんだよなあ」

・一匹の犬を囲んで朗らかな会話をしてた二家族

「ワンちゃんいい子ですねえ〜」

「いや〜、ただの雑種ですよ」

「ウチのワンは ばあちゃんと流されちゃってね、」

・海産物の加工品製造のおばちゃん

「三ヶ月前と何も変わってない」

・とても元気にしてる男の子がいたから
 ちょっとホッとした気分で交わした言葉

「キミ、どこから来たん?」

「あっち」

「被害が小さかったって聞いたとこかな?」

「小さく無いよ!2人も死んだんだ」

ボクは80名が犠牲になった土地に立ち、男の子とコトバを交わし、
ガツンと頭を殴られたよ。

人の痛みや喪失感は、恐ろしく個人的なことであり、
数字で表せることでは無いよね。

そんなこと分かり切っていても、
それでも分かった顔してちゃいけないんだ。

・あらためて2人のご婦人のことば

「なにもかも流されて、そしたら海ってこんなに近くあったんだって思った」


被災地を後に東京に戻ると、
東京の夜は2011年3月10日の夜と比べて、あきらかに暗いものであり、

東京で生活するボクたちも、「真っただ中」にあるんだって実感する。

福島に行って何が出来たのか分からないけれど、
今回のチャンスを有り難いことだと思い、

では、
同行した”ぼくよりずっと若い人たち”は何を感じたのだろうか?と想像してみる。

もしかしたら「やりきれない」だけで帰って来た人もいるののかもしれない。

ただ、
ボクはこの日の朝、
土砂降りの中で思い詰めた表情で出発の時を待っていたみんなの姿も、
被災地で見たものと共に、忘れちゃいけないことのように思った。

このツアーに参加された方とは、コトバをほとんど交わすことなく帰ってきてしまったのだけど、
いつか改めてコトバを交わしてみたく思うよ。

これからアクションを考えられている方は、
ともかく現地に行かれても良いのだと思いました。

人としてオトナとしての当たり前の節度を忘れず、
顔を合わせた現地の方と小さくても良いからコミュニケートされ、
そんな関係の中から義援を道びき出したら良いんじゃないかな。

ホント小さなことで良くて、
しかし、
顔の見える関係だからこその可能性はデカイと感じました。

ともかく想像を越えた時間も労力もかかる復興への道、
風化なんかさせちゃ人としてハズカシいことだし、
「政治が何をやる」なんて待ってる場合でもねえ。

東京に戻ったボクは、
被災地の映像を見ると、表情の失せたおばちゃんの顔と共に、
被災地を強烈に覆っていた魚の腐臭を思い返す。