‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

135か月め

2022 年 6 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,110日
587週1日
11年3ヶ月
135回めの11日です。

現在滋賀県の東近江市能登川町立図書館で「暮しの手帖」元編集長の澤田康彦さんとの展覧会「いくつもの空の下で」を開催中のボクのことを、京都新聞ジュニアタイムスが取材してくれました。

子どもたちに向けて、悩める子ども時代を過ごして、悩める今を生きるボクの話を、噛み砕いで編集してくれた記事に感謝。

過去を振り返ることより、今を生きることに精一杯な自分にとって、人との会話から自分を確認出来ることは、ありがたいことです。

じゃあこれが子どもたちの役にたつのかどうか、、
引き続き「わかった顔」しない生き方を続け、自分に興味持つ子どもがいたら、その時の全力で答えられたらいいな。ちょっとくらい間違ったこと言うかもしれないが、ともかく全力で。

ところで、
京都新聞と同様のインタビューを雑誌 SWITCH で受け、
6月20日発売号の記事となっています。

SWITCH-Vol-40-No-7

今の自分を形成している子どものころのことから、
セツモードセミナーで長澤節から受けた啓示など、
京都新聞とほぼ同じ内容で語っているはずですが、
こちらではトンガった大人に向けてグサグサ刺さる編集。

自分を振り返り、ひでえやつだな〜と嘆くも、
すんません、これが俺なのか、、
です。


そして、やはり同様のことをネットメディアでたっぷり語りました。
IMAGINEZ大学 with Discovery

https://www.discoveryjapan.jp/program/imaginez-univ/

こちら配信開始は7月になるかと思いますので、詳細あらためますね。

が、なんでこのタイミングでこれだけ発言を求められるのだろうか?

今日台湾よりオードリー・タンさんに関する近藤弥生子さんの著作が送られてきました。

台湾の天才的なハッカーで、日本で言うところのデジタル庁の大臣に就任したオードリー・タンさん。
彼女が社会にもたらしたことについて、ボクに日本からの視点でコメントを寄せてくれとのオーダーを頂き、東日本大震災後の社会を思い短文を寄せたので、紹介してみます。

2011年3月11日、日本は未曾有の大震災を経験します。
あれから10年。被災地では人々の「対話と共有」の痕跡を感じる、優れたデザインの社会的インフラに出会うことが出来ます。
困難を解決するため、1人ひとりの中に埋まる答えと対話し、共有することで導き出す最適解。
それはきっちり10年未来の発想であり、オードリー・タンさんはそれに輪郭と名前を与え、1人ひとりが使える道具に変えてくれているように思います。

以上。

ボクが3月11日以降出会ってきたことには、良いことも残念なこともあります。
そんな中で、困難の中にあるからこそ、他者を思い関わる人たちにとって最善の解決を導き出す努力とアイデアに出会うたび、深い共感と感動を感じてきました。

そうした「被災地」の発想は、日本の社会をより良いものにする力があると直感し、自分で暮らす街や触れる人と共有することを続けてきたはずです。

が、共有するための言葉は足りていなかったかなと。

オードリー・タンさんが社会の課題解決のために実践され、オープンソースとして社会共有されていることには、自分が見たり感じたりしてきたことが、明快な言葉で語られています。

「あの日」から11年3か月の今、
あらためて自分の言葉で震災や被災を語り、社会の生きづらさや息苦しさにちょっとでも風穴が空けられるよう。自分が身に付けた社会の課題解決に至る方法を実践してゆかねばなと。
それは何気なく描く1枚の絵にも反映させてゆこうと考えています。

台湾からもう一冊。
自著「台湾客家スケッチブック」が紹介されている政府系(?)の雑誌を届けていただきました。

この雑誌の特集は「女性」

世界第6位
アジア圏では第1位を誇る女性の社会での活躍が進む台湾。

そんな台湾のそれぞれの現場で活躍中の女性が、
台湾語と英語のテキストで紹介されています。

気象アナリストやフードコーディネーター(で語りきれないが)など、サスティナブルな世界を目指す社会の課題解決の最前線で活躍される女性たち。いい顔してる。

この辺、日本でやるとルッキズム(外見至上主義)に陥ったものになりやしないか?

もちろん、台湾の社会だった問題はあるのだけど、でも台湾の社会や人から学び日本の社会に投下するべきことは沢山あるな。という実感。

話はちょっと飛躍しちゃうかもだけで、
クラスの一番すみっこで静かに小さくなっている女の子が、実はすごいこと考えていたなんてことは、当たり前にあることで、ボクのようなものは絶えず小さな声に耳を澄ませてゆかねばならないのだ。

 

絵本「はるのひ」日本絵本賞受賞

2022 年 5 月 23 日 月曜日


2021年2月に発表した絵本「はるのひ」が、
2022年5月、第27回日本絵本賞を受賞しました。

父が亡くなった2018年の春の日から、3年の制作期間で生まれた1冊。

絵本はボクひとりで作れるものでは無く、この1冊は特に、編集担当のTさんの27歳から30歳までの青春の一冊と言っても良いくらい、莫大なエネルギーを注いでくださったことで、生まれたものです。

また、ブックデザインの城所 潤さん、舘林三恵さんから頂いたアイデアにより、より美しい本として、この物語を必要とされる方へ届けることができます。

さらに、たいていの印刷屋さんが顔をしかめるボクの”印刷しずらい絵”に真っ向立ち向かってくれ、発刊直後に「特にp30〜31の見開きで震え上がれ」とTwitterでつぶやいてくださった、東京印書館様のサイコーの印刷無くしてこの本は語れません。

この賞はそんなみなさんに対してのものだと考えています。


森の向こうに煙をみつけた”ことくん”が、走って煙を見にゆくだけの物語ですが、
その舞台の参考にしているのは、ボクがこれまでお世話になってきた土地です。

まず、生まれ故郷の群馬県南部、赤城山の麓の田園風景。
おばあちゃんの家の田んぼや畑で遊んだ経験と共に、1970年あたりを境に徐々に失われていった里山の美しさなんてものも、思い出しながら筆を走らせました。

そして、子どもたちとのワークショップセッションを重ねて5年目となる、福島県奥会津エリアの柳津町や昭和村の風景や光、土地の高低差の面白さ。
なにより元気な子どもたちの姿!
彼らがこの絵本を好きだと思ってくれたら、それが一番うれしい!

もしくは、やはりワークショップでお世話になっている、喜多方市で完全有機農法を実践する大江ファームの、夕日に溶けてゆく美しい畑。

夕日と言えば、東北の太平洋沿岸部で出会ってきた色彩。
この絵本は山間の物語だけど、海沿いの町で見た色彩を盛り込むことで、「どこか知らないけどステキな場所」の演出が出来たはずです。

物語の大切な装置となる森は、大分県杵築市山香町の森の中でカテリイナ古楽器研究所を営み、ものづくりと音楽と反農の暮らしを実践する松本家とのお付き合いから、体を持って覚えた喜びを絵にしています。

さらには、2016年の初夏に花の絵の展覧会を開催させてもらった、栃木県那須塩原市黒磯のSHOZO COFFEE。
展覧会を前にした2月と3月に、SHOZOに宿泊しスタッフとワークショップしたり、那須野の山を自分の足で走って感じた土地や人との距離感。

やはり展覧会を開催させてもらった熊本県津奈木町の”つなぎ美術館”
そのきっかけとなったアートプロジェクト”赤崎水曜日美術館”に関わったことで得た、土地と人との関係性。これはその対岸、天草でも経験させてもらいました。

色彩に決定的な力を与えてくれたのは、2019年の夏に3週間かけて取材旅をした台三線エリアの濃厚な風景。
それ以上に、そこに暮らす客家の皆さんから与えていただいた人情が、色に強さと優しさを与えてくれています。

ボクが当初考えた絵本のタイトルは「とーちゃん おーい」で、
主人公の名前は「ととくん」でした。

「おーい」の原風景は、カミさんの九州の実家のお父さんが、2歳の息子に向かって「おーい」と声をかけて遊んでくれていた風景。

自分は父親とそんな経験あっただろうか?と記憶を辿るも、1枚の写真に辿り着けただけだったけど、それでもなんて安心感のある風景なんだろと、自分が家族を取り戻したような気持ちで見ていました。

その後作画を担当する絵本「とうだい」でも印象的に使われていた「おーい」という言葉。
嵐の中で灯台が光と共に叫ぶ「おーい あらしにまけるな とうだいはここにいるぞ 」という声!
それに答え「トットットット」とエンジンをふかし舵を切る小さな船。

斉藤 倫さんの物語に、ボクこそ見守られていたように思います。

そして、「おーい」という言葉に向かって「とっとっとっと」と近づいてゆく子どもの風景を想像すると、逆に「おーい」という安心感に背中を押され「とっとっとっと」と駆けてゆく子どもを想像。

震災後、多くの言葉を駆使して相手の言葉に蓋をするような事がネット上で見られるも、被災地と呼ばれる場所では、そんなもの何も役に立たないでいるのを知ったボクは、子どもたちに「おーい」とただただ大らかな声をかけられる「とーちゃん」でありたいと願いました。

そう願うことで、「おーい」と大らかな声で語れる人にたくさん出会えたはずで、その声はこだまして、さらに次の大らかなる人の発見に繋がってゆきした。

そうすることで、ボクもボクの家族も生かされてきたような10年ちょっとの歳月。

残念ながらこの本が完成する前に亡くなってしまった方もいます。
しかし、大切なことはこの物語の背景に塗り込んであります。

今回頂いた賞が、そんな1人ひとりをこの物語と共に生かし続ける裏付けになってくれたらいいなと、
心より願っております。

2022年5月
小池アミイゴ

追記。
代々木あたりのみなさまへ。

「はるのひ」小さすぎる原画展
2022年5月26日(木)~6月5日(日)
at 渋谷区富ヶ谷2丁目のパン屋”ルヴァン”のカフェ”ルシャレ”
〒151-0063 東京都渋谷区富ケ谷2丁目43−13 GSハイム代々木八幡

へっぽこな自分を生かしてくれている代々木の街みなさまへ。
みなさまの支えがあってこそ作れた絵本が、なにやら立派な賞をいただきました。

つきましては、みなさまが愛してやまない街の誇りとも言える場所で、小さな原画展を開催させていただきたく存じます。

通常は店休日である月曜日、5月30日は1日書店として「はるのひ」限定20冊の販売をします。

11時から17時くらいまで、ボクが店内でうだうだしていますので、茶などご注文の上、お声かけいただけましたら、絵本の背景に塗り込んだお話などさせていただきますね。

小さな店ですので、おひとり、おひとり、バラバラとお運びいただけたら幸い。

小さくとも風通しの良い会話の現場になればいいなと願っております。

!)この日以外は人気店ゆえ、
いわゆる一般のお客様で入店出来ない可能性があります。
わざわざお越しになられるようであれば、ボクにご一報くださいませ。

134ヶ月め

2022 年 5 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から4,079日、
582週5日
11年2ヶ月
134回めの11日です。

今年のゴールデンウィークは、PCR検査をした上で東北へ。

昨年から秋田市から北に20kmの井川町の桜まつりで、
子供たち向けの絵を描くワークショップを開催しました。


井川町のアイデンティティ、桜の名所”井川国花苑”を中心とした地域ブランディング、

井川町に暮らす架空の「いかわさくら」というキャラクターが井川町を紹介して行くサイト、
いかわさんといっしょ” のビジュアルを担当したことでご縁をいただいた町に対して、
ギャラの一部を子どものために還元するという意味や、
イラストレーションだけじゃなくて、絵を使った喜びをもっと知ってもらえたら、
これからさらに濃密なお付き合いが出来るのではないかと考え、
総合プロデューサーの成田洋一さんに「勝手にゆくよー!」と提案した次第。


結果、行ってよかった〜!な子どもたちとの出会い。
さらには、子どもたちを見守る親御さんたちとの語らいは、
井川町での次のアクションにつなげてゆけたらいいな。

ちなみに、
昨年HPや町を紹介する絵本に使った絵は、
町が買い上げる形で、今後も色々なメディアに載せてゆくことになっています。

その1つ1つのクオリティを、成田さんやボクなど、関わるみんなで見てゆくことで、
町にとって効果的な使われ方を担保してゆこうという作戦。

継続的な街づくりに緩やかに紐ついていられる、絵があるからこその関係性。
他の土地でもやって行けたらいいなと思っています。


しかし、春の秋田はのどかだな〜

井川町では、そののどかな風景を表現するために、
HPに反映させた絵のほとんどは和紙に水彩絵の具で描いたのだけど、
これは、他の土地では違ってくるのだろうなと。

今会っておくべき人いるので、
秋田から岩手県の太平洋沿岸部を目指しました。


新幹線が岩手に入ると、やはり空気が変わる印象。

盛岡では、新幹線から山田線の乗り換え時間があったので、
ちょっと街を歩いてみました。

以前、真冬に歩いた北上川沿いの遊歩道。
対岸に作られたカフェスタンドを利用する人たちの穏やかな姿。

震災直後の緊迫した風景から11年。
この風景もこれからの自分の基本とのひとつとして、
発想を進めてゆこうと思いました。


そして山田線で太平洋岸の宮古まで。

大概はバス移動なんだけど、
10年前の真冬に乗ってからの二度目ましての山田線。


秋田より険しさを感じる景観の中、約100kmの旅。
思うのは、この地に鉄道を轢いた人たちの執念だったり苦労。

が、真冬の時と違い、自然と向き合う喜びもあったんだろうなという気づきの春です。

去年の6月ぶりの宮古の街では、震災直後には想像できなかったデザインに出会いました。


このパン屋、うまそううだな〜!

とか、

ここで何が起きているんだろう?
という楽しい想像とか。


大津波を被害が撮影された旧市庁舎は取り壊され、
インクルーシブな遊具の並ぶ公園になり、子どもたちの歓声がこだましてたり。

震災から10年経って、コンクリートの復興から、
デザインやイラストレーションてものが活躍する復興にシフトしなければと語ってきましたが、
やはり同じ考えの人がいてくれたことがうれしい。

さらに人の救いになるような質の高いデザインを被災エリアに投下してゆくことで、
被災地と呼ばれる土地が、ある意味日本の最先端エリアとなればいいなと思うのだが。

まあ、自分でやれることを重ねてゆくしかないね。


宮古のフィールドワークは、10年前の真冬と同じコースを、やはり徒歩で。


もはや当たり前の風景になった、漁港をグルッと巡る巨大防潮堤。

この「当たり前」からなにか美しきものが見つけられるか?
ともかく歩いて。歩いてい。


海の景観が失われることに対して開けられた窓。
海側から見る風景に「復興とはなんだろう?」とあらためて考える。


景勝地「浄土ヶ浜」に向かう道を逸れ、トレッキングコースへ。

岩手には岩手ならではの光と色彩が演出する美しさがあるね〜

これまでボクは「なぜ人はこんなに厳しい環境の土地で生きようとしたのか?」という想像で、
三陸のリアスの地のことを考えてきたのだけど、
これからは「こんなに豊かな土地を見つけた人の喜び」なんてことも考えてみなくちゃだね!

そして浄土ヶ浜。

10年前は息を止めるようだと思った風景には、ゴールデンウィークの人が溢れ、
自分の凍てつく記憶も、溶けて消えそうな感じさえする。


これからは、朗らかにさえ思えるこんな風景を描くべきなんだろうと思い、
来た道を戻る。

10年前の冬は、持っていたペットボトルのお茶がシャーベットになっていたなあ〜。

来た道を戻ると先ほどの防潮堤のエリア。

震災後の瓦礫の土地を背に見た、漁港を包む柔らかな光が忘れられず、
防潮堤の向こうへ。


ああ、やっぱりこの光だ。

10年前の真冬はもっと違う色をしていたけれど、
この柔らかさ、優しさ。

自然に人が調和して生きているからこその凪な光。

土地の人がきっと「何も無い」と語るであろう風景に向き合い、
ただただ灰色のグラデーションの変化を追い続けた数十分の時。


人が生かされる風景、もしくは色彩って、
こんな風に曖昧で絶えず変化するようなものなんだろう。

そんな10年たっても変わらぬ実感と、
10年分確かになった言語。

まずは絵にしなくちゃだ。


次の日は朝早くから、三陸鉄道北リアス線で大船渡を目指す。


大船渡には、東京の青山のカフェで働いていたSさんが、
地域の力になりたいって、1月からUターンしている。


彼女が語る故郷や家族への愛。

それは、そんな人が1人いるだけで、その地域には希望が生まれるんだろうという想像に繋がり、
今このタイミングで会っておきたかったのです。


実にぼんやりとした日常の場所を、ただただ歩きながら今の心情を交換。

昨年6月に初めて行って歩き倒した大船渡だけど、
それでもぼんやりとしかわからなかった街の魅力ってものが、
ぼんやり散歩で明快なフォルムを見せてくるのだから、
人って面白いなあ〜!


震災直後は受験生だった彼女が、学習机代りに使ったという図書館。

その立派さに、土地の人々が子どもたちに託した未来というものを感じた。

漁業から工場の街へと変わっていった町が、本当に大切にしたもの。
震災もコロナも超えて、ボクの知る限りは彼女ひとりだけど、
帰ってきたんだね〜

そんな「大船渡のおかえりモネ」さんが、もう1人のおかえりモネさんを紹介してくれた。

なにやら迫力ある空間。

人と空間に出会い、即ワルダクミ発令。

この場所で交わした言葉、今人に必要とされる表現についてなど、
間違いなく東京の発想のトラック4分3分周先を走っているはず。

出会ったからには形にしなければ!
ということで、大船渡、またねー!

の前に、盛駅で友人と待ち合わせ。

駅の待合室で、生きること、人との共生、コミュニティ創りなどなど、
2時間語り合った狂気の人々。

愛しすぎるぜ。

Sさん、まずは元気で!

そして気仙沼。


ゴールデンウィークは3年ぶりに人で賑わったと。

ということは、整備された港湾部では震災後初なイメージなのかもね。


ボクが泊まったホテルは、津波被害が激しかったところで、
そんな場所で眠れることに驚きと喜びと、ちょっとの怖さとを感じつつ、
夜の早い気仙沼で、晩飯難民になり、夜の気仙沼を駆けたのでした。


次の日は海産物の販売のされ方をリサーチし、

マグロの競りも眺め。

「マグロ、この一本にかけた」って高笑いの人たちの姿に、
やっぱ漁師最強だぜ!と思い。

唐桑へ。
いつもお世話になっている”家族カフェ” プランタンへ。

しっかし初夏の唐桑も、美しいね〜!

何度か訪れた、太平洋に突き出た細長く小さな半島なんだが、
「ここに住みたい!」と思った人たちの気持ちが、今回一番感じられたかも。

海からの急斜面、そこに点在する集落、それを縫うようにし走る曲がりくねった道、
豊かな木々のシルエットなどなどが構成する構図の向こうに、太平洋。
やませが運んでくる深い海霧が神秘さを演出している。

そして目を足下に転ずると花。

名も無き花が、草刈りのついでに刈り取られることなく咲いている。


大自然に、人の手の入った小さな自然が含まれる優しさ、安心感。


このなんでも無い美しさは、
この土地を愛している人々が守っているからこその景観。


現在「みちのく潮風トレイル」だったり、
宮城オルレ」のコースに選ばれていること、
わかる〜!

なんつーか、歩いているだけで幸せになれる、なんなら健康にもなってしまう。

これまでの「思い出獲得型」のレジャーでは無く、
自分の中での「幸せ自己発電型」レジャーという未来が、ここにはあるなあ〜。

で、あらためてプランタンへ。
https://www.instagram.com/printemps_non.no/


細々と家族で出来ることをやっているって語るノリちゃん。
実はすごいことやっているんだと思うぜ!

ご家族で取り組む精一杯は、
間違いの無い一杯。

土地へも人へも愛を感じる一杯のうどん。

この一杯のために唐桑に行く者はいる。

いや美味かった〜!


自分が商品開発でお手伝いした逸品。

マスターにどうですか?と尋ねると、
「お陰様でけっこう出ました」との笑顔の一言。

自分の手がけた仕事、
それがどんなに小さなものでも、
そこに確かな人間関係があれば、
1200kmの移動も厭わず確認しに行く。

こんな仕事や生き方を学んだ、
東京と地続きの東北という場所。

またね〜!


peace!!

133ヶ月め

2022 年 4 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,049日、
578週3日、
11年1ヶ月、
133回めの11日です。

11年前の3月11日の大震災発災後目にした「人の命が不当に失われてしまうこと」について、今も考え続けています。

自分が物心ついた頃、ニュースではベトナムで戦争が行われていることを伝えていました。
日本や、1972年5月15日までアメリカの占領下にあった米軍基地から、多くのアメリカ兵がベトナムの戦場に送り込まれ、
日本もこの戦争の最前線基地のような役割をしていました。
1975年4月30日は、南ベトナムの首都サイゴン(元ホーチミン市)が北ベトナムに接収され、ベトナム戦争が終息に向かうのですが、こうしたことはボクの小学生から中学生時代と重なるも、学校では「今何が起きているのか」を教えられることは無く、ただ目にするニュース映像から、「今戦争が行われている」という曖昧な不安を抱えるだけなのが、ボクたちの世代だったのではと想像します。

ただ、ボクの家には報道写真家の石川文洋さんの、ベトナムの戦場や戦時下の庶民を撮影した写真集があり、戦争の不条理さ、出口の無さなんてものを感じることは出来ていたはずです。
(その割に、プラモデルの戦車を作るのが趣味だったり、仮面ライダーが悪い奴らを根こそぎぶっ倒してゆく姿に溜飲を下げたりなのだが、、)

そして、その後も世界では戦争が起き続けます。
もしくは「紛争」という名前に置き換えられたものも無数に起きます。

世界は冷戦という東西の大国間でのチキンレースのような状況にあり、上京し大学に入学したばかりの頃は、出来立ての友人との異性や音楽にまつわる話と共に、「今戦争が起きたら戦場に行くのか?」なんて会話をしてたな〜。(自分は、侵略されたら闘わねばならないだろう。そんなこと言っていたはず。)

それでも「文明国」を語り、国連でも重要なポストにあるような国は、戦争を避けるために尽力するものだと思っていたら、ソ連がアフガニスタンに侵攻し(実際は大学入学前だが)、イギリスはフォークランドで「紛争」を起こし、アメリカは湾岸戦争の当事者になります。

そうしたニュースを耳にし目にする度に、石川文洋さんのカメラの先で起きたことを振り返り、思い出していたボクです。
日本はバブル景気という狂気に踊り続けているのだけど、この瞬間に不当に失われている人の命がある。

そんな居心地の悪さを感じ、ちょっと自分を追い込むような生活もしてしまい長期の入院を経験し、1993年3月には「群馬の実家を火事で失った」なんて先で、1995年1月に阪神・淡路大震災、そして3月に地下鉄サリン事件という、命について真剣に「これまでの価値観をひっくり返しても考えなければならない」事件に、きっと「被害者では無いけれど当事者である」とう認識で向き合ったはずです。

今振り返り、その後自分がやったことは、もしもの際に真剣に語り合える仲間を創ることではなかったかと。
CLUBやCafeで創るイベントの背景には、かならずそうしたテーマを滑り込ませておき、語り合える仲間を可視化させていった。

そして、ニューヨーク2001年9月11日
さらに、新潟の中越地震や福岡の西方沖地震と、共に考え行動する共を得て、それは小さな力でしか無いけれど、愛しき何かを生かすだけの力にはなるアクションが起こせた。

そんなアクションを重ねる中で「人ひとりの命が失われる重大性」というものを心や身体に染み込ませ、思いがけず自分が人の親になることにもなった。

が、2011年3月11日に起きたことは、そうした経験も一気のどこかに流されてしまったように思えた。

この未曾有と呼ばれメディアで共有されまくった悲劇に対し、ボクは圧倒的な当事者となったはずだが、それを語る言葉を持っていないことに気がつきました。
これはまずいぞ!当時1歳だった息子が物心ついた時、せめて自分の言葉として語れるようにしておかなければならないと確信し、北の方に弾け飛んでゆき、それは11年後の今も続いている。


今日は何を書こうか決めずにタイプを始めてしまったら、こんな振り返りになっています。

人は生きているだけで不条理に巻き込まれるものだ。

自然災害が頻発する日本で暮らしていると、そうした刹那な考えが身に染みて、可能な限り人間同士争いは無くさねばという考えに至ると、希望や願いも込めて思います。

しかし、世界のパワーバランスの中では、そんな甘っちょろいこと語っている場合では無く、必要であれば他者に対し不条理な死を与えていいのか?

文明とは100歩譲って戦争を起こすものであるとして、文化とはなんだろう?

今ウクライナで起きていることは、まったく起きるべきことでは無いと強く思う。

が、ウクライナもロシアも心の中では地続きであるという意識は、さらに強く思い、
自分の足元で出来ること、やるべきことを考えねば。

でなければ、3月11日に失われたものに対して申し訳ない。

2022
0411
PEACE!!

132ヶ月め

2022 年 3 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から4,018日め、
574週
11年
132回目の11日です。

77年前に東京大空襲があった3月10日。
2022年の今はウクライナで戦争が行われていて、
引き続きコロナ禍ではあるけれど、

2018年から始まった、
渋谷区立富谷小学校に通う生徒と、子どもたちの親と、
学校と、街の人とが、力を出し合い助け合い描く、
代々木八幡ガード下壁画プロジェクト「とみがやモデル」の
一応のフィニッシュの作業を、
2022年の春に卒業する6年生との制作を行いました。


これまでに重ねてセッションは5回。

最後は2年前のコロナ蔓延が深刻化した3月。

この年の卒業生で完成させるイメージでやってきて、
しかし、子どもたちの作業は中止。

それまで子供達がのびのびと、しかしラフに描いたものが宙ぶらりんになっているのがかわいそうで、
大人のボランティアを集めて、子どもたちの描いた22メートル2面の壁面に額縁を与えるようなペイントを施しておきました。

そして2年後の3月10日。

それまでカラフルであったペイントに、
街で暮らす人たちのリズムに合った大らかなタッチを与えよう!
色彩で言えば、色んな色が混じり合ったグレーな壁にしよう!
そして、描かれる絵からなるべく意味を削り落とし、
この壁の前を歩く人にこそ意味があるような壁を目指そう!

そんなことを小学6年生に投げかけてみたら、

すごい壁面が生まれました。


ボクはこの壁画のコンセプトを、
被災した太平洋沿岸部を歩くことで得たはずです。

意味があるとすれば、人の命が不当に失われること無く、
ただそこにあること。

自分の作るものは、そうした人に対して出しゃばること無く、

ただその生を称え、意味もなく美しく存在する、

なにか得体の知れぬ力を宿したもの。

主役は人であり続ければよく、
そのためのより良い手段が見つけられるなら、自分の表現を引っ込めてもいいやって。

自分の子供が産まれ、
1年後に震災が起きて、
自分に何が出来るのかを考え続け、
ひとつは東北に足を向け、
ひとつは今暮らす街で生きることを考え、
自然と地域や学校でやれることにアプローチしていったら、
代々木八幡のガード下の22メートル×2面の壁面に、
子供たちと絵を描く必然にたどり着いた。

関わってくれた何人もの顔が思い浮かぶ壁は、
ここに色を落としていってくれた子供たちが、
将来何か困難に向き合うことがあっても、
12歳の春の日の大きな壁に思いっきり向かってゆけた記憶が、
困難の壁を乗り越える力になるものと信じているし、
自分の命が続く限り、12歳のその後を見守ってゆく約束の壁なんだと考えます。

そして、
東京都渋谷区富ヶ谷の代々木八幡周辺で出来たことは、
他の場所でも出来ることです。

そのため、この壁の名前は『作品名』では無く、
『この壁画作成に関わった人たちはオープンに語り合い最善の喜びを共有出来た』という願いを込めて、
「#とみがやモデル」と名付けました。

ある街に子どもたちが言葉の意味を超えた気持ち良さで描いた絵がある。

街の人は意味無き何か美しきものを前に、心を開き、語るべき言葉を目の前のひとりに手渡す。

自分の思う「復興」のひとつの雛形を、渋谷ローカルで形にしてありますので、
余裕があれば見にこられてみてください。

最後に、

小学6年生だって、きっちりオープンにコミュニケートしたら、
こんな感動の絵のタッチで返事をしてくれる。

そんな人の生む1つのタッチが、いとも簡単に無きものにされてしまうのが、
津波や震災というものであり、戦争というものなんだと、

あれから11年の3月11日に考えています。

そんなことを考え、ちょっと一休みしようと、近所のパン屋、ルヴァンのカフェ”ルシャレ”に入ると、
ここの壁も熱かった。

日本の天然酵母パンのトップランナーの店の壁に掲げられていた言葉、
「パンは目的ではない、手段である」

うん。

「イラストレーションは目的ではない、手段である」

よっし!
いい街に生かされているぜ、俺。

131ヶ月め。花とラブレター、その後

2022 年 2 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から3,990日
570週
10年11ヶ月
131回めの11日です。

1月末で神宮前のギャラリー装丁夜話での展覧会「花のラブレター」を終え、
12月に吉祥寺にじ画廊で開催した花の絵の展覧会「花とラブレター」から続いて、
絵を介してのコミュニケーションの現場作りが一息。

今は、ご購入いただいた絵の発送を進めているところです。

*「花のラブレター」に展示した56点の作品は、全作品一律10,000円で、
ギャラリー装丁夜話のONLINE SHOにて 2月27日まで販売しております。
装丁夜話 ONLINE SHOP 小池アミイゴ作品リンク
https://souteiyawa.theshop.jp/items/58669064
https://souteiyawa.theshop.jp/items/58670687
https://souteiyawa.theshop.jp/items/58670814

「ラブレター」などと名付けたものを売るのは、気分的にはばかれたりするのですが、
志を持って運営されているギャラリーの力にちょっとでもなれば幸いであります。

装丁夜話での展覧会は、にじ画廊で集めた「花の絵に対するラブレター」に対し、
絵でお返事するというもの。

いつもは仕事としてご依頼頂いた絵のオーダーに対し、
ご依頼主から届く言葉を精査し、絵に換えるという作業をしています。

「イラストレーション」は”illustration”
その “tion” の部分が好きで続けている仕事です。

“tion” は「アクション」”action” や 「コミュニケーション」 “communication” にもついていますので、
なにが好きなのか想像していただけたらです。

今、コミュニケーションのツールは、
インターネットやPCやスマホのアプリなど多岐に渡り、
使い勝手もとても良くなっています。

ただ、その使い勝手というものが、つい言葉数の多さを増長させていないかと。

たとえば、小学生の息子の学校から届くお知らせなど、
A4の紙に詰め込めるだけ詰め込んだ言葉に負けて、
本当に共有すべき情報を見逃しそうになることばかり。

東日本大震災後の被災地を歩き、
人々の望む「復興」の姿がなかなか像を結ばないことに出会ってきました。

そんな状況を知り、では身の回りを見回すと、
やはりなにかを決めてゆく、実行に移す、そうしたことが上手くいっていないことが多いなと気づきます。

「わたしたちはどんな目的に向かって今話し合っているのか」

そうした現場で欠けていることは、関わるみんなで共有しておくべきビジョンであることが多いように思います。

ターゲットを定めぬまま、なにか良きことをしたいという思いのみで、
プロセスだったり、システム構築の話に終始してしまう。

大きな目的を定められていないので、つい相手を言い負かすような形で正論を積み重ねてしまう。

正論の壁が本来みんなに見えるようにしておくべき目的を、さらに見えづらくさせてしまう。

ボクが絵にしていることは、
たくさんの言葉で語られれていることの中から、
今目の前の人と共有すべき最低限の言葉の代わりとしての絵。
そんなことだと思います。

今ボクたちは喜びや笑顔を目指して話しているのか。

もしくは、誰かの痛みを取り去るための話をしているのか。

などなど、

たとえば、丸をひとつ描いて、その中に点々と一本の棒を描くと、
笑顔とか、苦虫噛んだ顔とか、悲しい顔とか描けちゃいます。

それだけのことで、ものすごい多くの情報を仲間と共有出来る。

そういうことを原点に、
イラストレーションというものを、社会の中で生かしてゆきたい。

そんな絵は、とびきりシンプルなのがいいな。

相手の言葉に真摯に向き合い、
今共有すべき喜びとか、痛みとか、美しさとか、醜さなんてものさえ、
共有すべきもの以外すべて削り取って、
確信を持ったひと筆で、心も体も気持ち良いままスッと描き、
相手に差し出す。

そうした作業な中から、
ボクたちが目指すべきものが明快になったら、
みんなに見えるものとしての絵にする。

現在、日本の地方と呼ばれる場所の仕事をしていますが、
そうした場所でこそ、みなさんがどこを目指しているのかをコミュニケーションを持って掴み、
目指すべき風景を共有出来る絵、イラストレーションというものを制作し、
共に荒野を歩いてゆくようなことをしています。

それらは小さな仕事と言われるかもしれませんが、
ボクを確かに生かしてくれる大切な仕事であります。

 

 

130ヶ月め

2022 年 1 月 11 日 火曜日


今日は2011年3月11日から3,959日、
565週4日
10年10ヶ月
130回めの11日です。

昨年末、吉祥寺のにじ画廊で開催した花の絵の展覧会「花とラブレター」
12月28日の最終日から2週間が経ち、
お客様やお力添えくださった皆さんからコロナ感染の報告は無く、
まずは無事に終えたことを有り難く感じております。

2階にあるギャラリーの換気のために、1階の雑貨店スペースのドアを開けっ放しにして、
寒さに耐えながらも現場を美しく守り続けてくれたスタッフの3人。ありがとね〜!

世の中が厳しい状況にある中、
ほんと多くの方に足を運んでいただけたことに心より感謝します。それでも、
1日の中でフとお客様が途切れる時間があります。
その時、自分が花の絵を描き始めた時からのことを振り返っていました。
2008年に仕事のあり方を変えてしまわねばと考え、

いくつかの今に繋がる出会いをきっかけに描き始めた花の絵。

2009年にあったいくつかの別れをきっかに、今に繋がる描き方を手にし、
12月に生まれた息子の成長と共に育ててきた花の絵。
2010年に日本の14ヶ所を巡らせ、
2011年3月11日には青森のコノハト茶葉店の夜の暗さの中で咲き、
4月に吉祥寺にじ画廊にたどり着いた花の絵は、
「人は絵というものを必要としているのだ」ということをボクに教えてくれ、
震災を目の前にしても、心をフリーズさせることなく絵を描く必然を与えてくれ、
ボクを東北方面に弾き飛ばす力にもなりました。
その後、青山のspace yui での6回の展覧会を生み、何冊かの絵本が生まれ、
何より、今暮らしている渋谷区の街の地べたに向ける視線が生まれ、
コロナの世界でも描くべきものを失うことない自分を育ててくれ、
10年後の吉祥寺にたどり着いた花の絵でした。
そうしたことのすべては「懐かしい」ものでは無く、
振り返ればつい先日のことのように、今も自分の中で息づいていることです。
もともと売るために描いているわけでは無い花の絵ですが、
にじ画廊でご縁をいただき旅立つことには、
ご購入いただく方と花の絵とで確かな物語があるように感じました。

店長のHさんも「カツブシのような絵」をひとつ。
彼女が現場に注いでくれた愛のおかげで生まれた「花の絵と人の物語」というものが、
確かにありました。そんな花の絵をめぐる物語は、やはりボクの明日を生きる力になるはずだし、
そうしてゆかねばならないとも思います。
一生分の「きれい〜✨」「かわいー✨」の言葉を頂いたレインボウな13日間。
今自分が作ることの出来る最も美しいものを創れた実感がありますが、

これもまた懐かしむことなく、次に繋げてゆきますね。。

Hさん、これからもこの展覧会に注いでくれたように、
Hさんらしい仕事を重ねていってくださいね〜

それで救われる人は、少なからずいますね。
864107105_58s.jpg 864107105_33s.jpg 864107105_132s.jpg
以下、2008年7月9日に書いたブログ。
大阪の喫茶ロカリテの店主さんに連れられ、初めて那須のSHOZO COFFEE に行った直後に書きました。
花の絵の発火点をあらためて発見し、あの時の新鮮な気持ちが今も変わらずあることを嬉しく思いました。

イラストレーターとしての仕事のあり方、
思いっきり見直さなきゃならない時代であるな~と思っています。 

これは音楽業界などに起こっていることと同じなんだけど、
それに比べたらあまりにも市場規模が小さいからね、
うかうかしてたらプイッと吹き飛ばされて終わりです。 

絵を描くことのホトンドの仕事は「見る」って作業であると、
ボクは思うのですね。 

そんなわけで日々見てます。
身体がついて行く限りは歩いたりもしてね。 

街や人の間に在ってボクの創るものがどんな役割を果たせるのか?
興味はつきないですね。 

中野
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=680245 

沼津
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=682007 

那須
http://amigos.yakuin-records.com/?eid=682769 


12月27日はキャンドルナイトでした。

震災直後の暗闇で考えたことを忘れずにいたいと思い、
大切な友人で、最近ソロアルバムを発表し、音楽の現場に帰ってきたチェルさんをお呼びし、
静かな時を共にし、これから生きるのに必要なものを想像した時間です。
それはこの10年で最も自分らしい行為のように感じました。

以下は震災から数日後に「灯」とタイトルをつけて書いたブログです。

東京は相変わらず余震が続き 

しかし 

いつもと変わらぬ日々が続いています 

昨日は井の頭通りでハナミズキが咲いているのを見ました 

甚大な被害を受けた土地にも春は来るね 

被災地で闘っているみなさん 

今日からしばらく続く寒さに凍えませんよう 

痛みや悲しみがちょっとでも癒されますよう 

被災地から離れたミンナからは 

「なにか出来ないか」という多くの声が届けられます 

そのたびにボクは 

「いま在る場所の灯りであるように」と伝えています 

被災地から遠く離れ 

震災の直接的な被害に遭わなくても 

心を痛める人がたくさんいます 

メデイアやネットからは 

それこそ津波のようにしてショッキングな情報が押し寄せ 

無責任な“つぶやき”とか蛮勇きわまりない言葉に呑み込まれたり 

もしくはポジティブで力強い言葉に対してさえ 

「ワタシハナニモデキナイ」てね 

気持ちを押しつぶしてしまう 

心の二次災害に巻き込まれているように感じています 

身近な方で 

わけもわからずナミダを流してしまっている人はいないだろうか? 

生きる気力を削がれそうになってしまう人はいないだろうか? 

そんなヒトリに出会った時 

「ともかくボクらは頑張らなければ!」なんて言葉と共に 

被災者と比べてしまったりしないだろうか? 

PTSDの判断を素人がするのは危険なのかもしれないけれど 

それでも 

恐怖にナミダすのは 

生き物として当たり前の防衛反応だよね 

ナミダは決してネガティブなモノじゃないぜってね 

ただただ話を聞いてあげたり 

温かな食べものや飲み物を一緒にとったり 

みなさんが今生活されている場所で 

小さな温もりを手渡たしてこうよ 

優し過ぎてチッポケで傷つきやすいヒトリだからこそ 

気がつきやれることはあるんだ 

無理せず1コ1コ 

そんな 

地震との闘い方もあるように感じています 

1人ヒトリが今在る場所の灯でありますよう 

今まで生きて来た中で最大の優しさでもって 

身近な愛しい人に小さな熱を手渡してゆこう 

やれやれ 

すごく遠い道のりだけど 

しかし 

それが廻り廻って被災地にも日本にも世界にも 

希望の灯りをともしてゆくことだと信じています 

今元気な人 

一緒に闘おう! 

今心が折れてしまっている人 

その辺に春が近づいてきてるぜ 

ゆっくり 

小さな温もりを絶やさぬよう育ててゆこうぜ 

アミイゴ 

2011 

PEACE!!

そして、
震災の直後の吉祥寺にじ画廊で開催した花の絵の展覧会「その辺でさいていた花」
最終日直後に書いたブログ。

吉祥寺にじ画廊でのボクの個展 

「その辺に咲いていた花」 

そして 

ワークショップ&LIVE「灯」 

昨日の20時まで咲き続き 

静かに終わりました 

想像をはるかに越えたお客様に足を運んで頂き 

さらに想像を越えたウレシいお言葉を預けて頂き 

次に進む力を得たと共に 

これから何を描きどう生きてゆくのか 

ハッキリとした手応えとして掴むことが出来ました 

ありがとうございました 

お1人おひとりへのお礼は 

ちょっと時間をかけて必ず 

今は頂いた身に余るLOVEを 

東北の地に注ぐことを考えています 

展覧会期間を通して感じ考えたこと 

後ほどコトバにしてみます 

東京から遠くに住まわれる多くの方と 

懇意にさせてもらっていますが 

ほとんどの方が来れなかった時間であります 

こういったことを東京で開催することで 

お気持ちに格差を作らぬこと 

これはイラストレーターとしての使命として 

これからも取組んでゆこうとも思います 

そして 

今まで以上に気持ちの敷居を感じさせない場所と作品を創り 

その辺で生きてゆこうと思います 

あれから10年。
コロナ感染がひと息ついたような瞬間での開催となった展覧会は、
喧騒の吉祥寺の街と壁ひとつ隔て、
心の静けさを求める人たちと静かに語り合える場所として機能出来たはずだし、
ボクが作ろうと思うものは、そうした人たちがひと息つき、
なにか大切なことを語り合うことの出来る、なんちゃーなく美しいものなんだと、
あらためて確認することが出来ました。
最後の写真は、この展覧会開催中のタイミングで、
被災した故郷岩手県大船渡の力になりたいとUターンするSさん。

彼女からうかがった被災の記憶は、
いくつかの花の絵を生み、
これからさらに花の絵を生み続けるはずです。

そう出来るよう、お互い元気でいようぜ!

2021
1216
to
1228
peace

この空間に含まれたすべての人が、
この展覧会の作品のようであったと思えた時。

そしてすべての花の絵が、
これまで出会ってきた愛しき人の姿と重なった愛しき時。

ありがとう。

12/16~吉祥寺にじ画廊で花の絵の展覧会開催

2021 年 12 月 16 日 木曜日


小池アミイゴ花の絵の展覧会「花とラブレター」

吉祥寺 にじ画廊
2021年12月16日(木) – 28日(火)
12:00~20:00

〒180‐0004
東京都武蔵野市吉祥寺本町2‐2‐10 (JR中央線 吉祥寺駅より徒歩4分)
tel : 0422-21-2177
nijigaro@gmail.com
http://nijigaro.com

2008年から描き始めた花の絵。
震災直後の2011年4月以来10年ぶりににじ画廊の壁面に咲かせます。

=在廊予定=
12月16日(木)_終日在廊します。
12月17日(金)_16時より在廊いたします。
12月18日(土)_15時より在廊いたします。
12月19日(日)_12時より在廊予定でいます。
12月20日(月)_15時~
12月21日(火)_15時~
12月22日(水)_15時~
12月23日(木)_12時~14時、17時~
12月24日(金)_12時~20時
12月25日(土)_13時~20時
12月26日(日)_13時~20時
12月27日 (月)_15時~20時*18:30~19:30はキャンドルナイトのため予約者のみのご案内になります。
12月28日(火)_13時~20時*最終日です。
その後の予定も随時お伝えしてまいります。

=イベント=

1) 花の絵と言葉の往復書簡
会場に便箋と便箋を投函出来るポストを設置しておきます
もし気になる花の絵があったら、そのお気持ちを手紙を書いて、
ポストに入れてください。
その手紙に対して、ボクがまた花の絵を描き、
1月に予定している「装幀夜話」という展覧会に出品します。


2)*12月27日_キャンドルナイト_こちら定員に達し予約を締め切りました。
・18:30-19:30
上記の時間は予約者のみのご入場となります。
ご来場いただけない方には、配信など考えておりますので、
その際は改めてお伝えしてまいります。

ギャラリーの照明を落としキャンドルを灯します。
ゲストにシンガーソングライターのチェルさんをお迎えし、
彼女の深く静かな歌と共に、過ぎ行く時を思い、
新たな年を心穏やかに迎える時を創ります。

・参加費_無料
・定員_定員に達し予約を締め切りました。

10年前の震災の直後、東京の街が暗くなっていた時考えた大切なこと、
それを次の10年でも忘れないでいたいなと願い、試みます。

ゲストのチェルさん。

かつて2人組みのPoPoyansとして活躍していた時、
表現の現場作りでアイデアを交換しあったり、
地方の小さな店に歌を届けにいったりをした人。

10年ちょっと前、いくつか一緒に作ってきたライブは、
人に対する愛と高い志の詰まった、屈指の表現の現場だったはずです。

ただ、それでもやり切れていなかったであろうことを、
今、それぞれ人生の経験を積んだ今行う意義を感じています。

*コロナの状況によっては、入廊制限を儲ける可能性があります。
詳細情報は引き続きこちらでお伝えしてまいります。

その他イベントがあれば、随時更新してまいります。


この展覧会の始まりはどこだろうか、
ちょっと振り返ってみます。

2008年7月、
大阪北堀江にあった喫茶ロカリテの店主夫婦に誘われ、
栃木県那須黒磯のSHOZO COFFEE に行きました。

ロカリテはとても美しいお店でしたが、
それ以上に、そこに集う人たちと構築した静かなる信頼関係が、
この店の魅力でありました。

そんな場所を営む人と共に向かった珈琲屋は、
細部に美意識に息づく場所でした。

ロカリテのご夫婦と、良い店ってどんなことだろうなんた語りながら、
絵を描くボクは、ここに置かれるべき絵はどんなんだろう?と考え、
花を描いてみることにしました。

しかしすぐには思うような絵は描けず、
なんだかカッコつけた花の絵ばかり生まれちゃって…
それはそのまま自分の姿のように思えてね、
このままじゃダメだと。

今振り返れば、
誰に向けてどんな必然で描くのか、

その部分が欠けていたはずです。

2009年。
1月に友人に向けて描いた菜の花の絵がありました。

福岡の滞在中、友人がかなり厳しい状況にあるという連絡を受けました。
自分に何が出来るのか考えながら東京に戻ると、
食べようと思って水に挿していた菜の花が、キッチンの窓際で咲いていました。

「ああこれだ」とだけ思い、板にアクリル絵の具で描いた絵が、
ボクの花の絵の本当の始まりになりました。

この年は「色々あった」としか言いようのない1年で、
「何かあった」度に、それを体に刻むようにして花の絵を描いてゆきました。

ひとつボクを高めてくれたのは5月。
福岡に行くと必ず寄る珈琲屋「美美」の店内に飾ってあった花の絵です。
シンプルな画面に力強さと優しさが溢れる、しかし「無欲」という言葉の似合う花の絵。

それは1月にボクが描いた菜の花の絵に対し、
「おまえはそれでいいんだ」と肯定してくれてるように思えた絵でもありました。

その直後、家のベランダで咲いていたカモミールの花の絵を描いてみました。

沢山の花を咲かせる生命力溢れる姿を追いかけ筆を走らせるも、
自分が本当に見ているものと一致せず、小さなが画面の中で描いては消しての繰り返し。

結局花1輪だけにフォーカスしてみたら、
自分の見ているものに手が届いたような感覚を得ました。

それは、ボクが自分の身の回りの世界をどう見ていたのかを気がつかせてくれる、
静かな絵となり、今は福岡市内の小さな花屋に嫁いでおります。

つづく


10年前のにじ画廊での花の絵の展覧会でのエピソード。
2011年5月3日にブログに掲載した記事を、ちょっと書き直して再掲載します。

「まさおおじさん」

にじ画廊にまさおおじさんが来た。

20何年か前の脳梗塞のせいで右腕しか使えないくせして、
ボクの父親とカツミおじさんを三菱の軽ワゴンに乗せ、
スヌーピーのTシャツ着て群馬からカッ飛んで来た。

にじ画廊の50mほど手前の駐車場から杖をついて、
足を引きずりノシノシと、
日曜日の人ごみを掻き分け、5分かけて到着。

かわいいグッズが並ぶ店内に入り、
2階のギャラリーへの階段を見ると、
「ダメだ、手すりがついてねえから登れねえ」って。

「無理してケガしたら人様の迷惑になっちまう」って。

まさおおじさんは気遣うギャラリースタッフを制して、

「アニキたちで見てこいや」「しょうがねえ」と、
1階の奥の事務所で座って待ってることになった。

「俺のことは気にすんな」と語るおじさんに茶を出し、
ドアを閉める瞬間の心苦しさ。

これは一生忘れられないと思ったよ。

実際に2階で父らと絵を見ても、ただ気まずいだけでね。

そうしているとにじ画廊のスタッフちゃんがやってきて、
「外の階段なら手すりがあるので、それを使ってギャラリーの裏口から入ってもらいましょう」と。

そんなことして大丈夫なのかと心配するボクには、笑顔で「だいじょぶです」と、
展示してある桜の花の絵を外し、ホワイトボードを動かすとドアが隠れていた。

ボクよりずっと若い女性スタッフさんの機転で、5月の吉祥に向け開け放たれたドア。

それはボクらがこれから向かうべき世界への扉なんだと思った。

マサオおじさんは外の階段を一段一段ノッシノッシと登ってくる。
ボクは「もしも」のために後ろで構える。

5分くらいかけて2階へ。
花の絵の間からおじさん、遂にギャラリーへ。

「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会
スヌーピーのTシャツ着たマサオおじさんがやって来てくれた。

三男の父、四男のカツミおじさん、末っ子のマサオおじさん
大の男が3人、花の絵を見ている。

百姓と農業機械の整備が生業にしてきたまさおおじさんは、
「あれはスズナ」「あれはサクラソウ」と、ボクの描いた花の名前を次々に言い当て、
その花はどうすれば元気に咲くのかとか、やっぱり日本固有の花が可憐でキレイだとか、
滑舌の悪い群馬弁で語ってくれた。

おじさんはカッコいいことをひとつも言わないけど、
その辺でカッコいいことばっか言ってるヤツらより数億倍カッコいいと思ったぜ。

この日より22年前の夏。
26才のボクがムチャして入院した時も、群馬から東京へ片手運転で駆けつけてくれ、

ボク以外お年寄りばかり8名入院する病室に、
そこの誰よりも重症患者のような姿でノッシノッシと入ってくると、
「オメーもこうなっちゃお終いだぞ!」と大声でボクを叱り飛ばす。

でもって、
「無病息災って言うけどな、これからは1病息災くれーがいいんだ」って、
麻痺した口で啖呵を飛ばし、病室のみんなを笑わせてくれた。

そうしてボクは今も生きている。

地元のウドンと酒をみやげに置いてくれ、男3人兄弟が帰る時間になった。

やはり脳梗塞を患い上手く動けないでいるボクの父が、買い物でモタモタしてると、
「オラァー先に車に行ってらぁー」とまさおおじさん。

 

よく晴れた5月の日曜午後2時の吉祥寺。「昭和通り」と呼ばれるにじ画廊前の通りは、
「被災」のあっち側で自由を謳歌する、若くオシャレな人たちでごった返している。

そこをノッシノッシと分け入ってゆく、スヌーピーのTシャツを着たおじさん。

ガツっと日焼けした顔に薄くなった頭、スヌーピーのTシャツは黄ばんでいる。

前をから歩いてきたカップルがおじさんに気がつき、
ビックリしたように、もしくは見なかったことのようにして、ヒョイと道を空ける。

ボクはおじさんの後ろ姿を見ている。

百姓と機械整備でデカク育った背中の筋肉は、
麻痺した左足の細さとの対比もあって、山のように見える。

そんな背中がノッシノッシと昭和通りを行く。

それは底抜けに美しい姿だ。

圧倒的にカッコいい風景だ。

 

ボクはちょっと泣いていたはずだけど、
それは誰にも気付かれちゃいけないことだと、
強い西日に表情を隠し、おじさんの背中を追いかけた。

おじさんは三菱軽ワゴンの運転席に乗り込むと、
ボクの方を振り向かぬまま(もしくは麻痺で振り向けない?)右手をヒョイと上げ、
1万円札をヒラヒラさせながら「これでウマいもんでも食えや」だって。

それは絵を描き続けてきた中で、最高のご褒美なんだと思い、

ボクもおじさんのように、その辺で生きてゆくんだと思ったんだ。

つづく

花の旅

今回の展覧会は、3月に青山のspace yui から始まり、
8月に福島県白河市のSHOZO COFFEE、
9月に福島市の食堂ヒトトと旅をしてきました。

ここ5年間、昨年までの毎年の年末に、
「小池花店」と名付けられた花の絵の展覧会を開催してきましたが、
その流れが途絶えた今年、
偶然にも年末のにじ画廊で花の絵の展覧会を開催することになりました。

10年前の春のにじ画廊での花の絵の展覧会「その辺に咲いていた花」は、
2010年3月に地元渋谷区のカフェ”ルシャレ”からスタートし、
以下の場所を1年ちょっとかけて巡り、
東日本大震災を経て、にじ画廊にたどり着きました。

・渋谷区富ヶ谷天然酵母パンのルヴァンのカフェ“ルシャレ”

・佐賀県唐津市のヌフ・ベーカリーカフェ

・宮崎県日向市のnap cafe

・栃木県那須塩原市黒磯のCAFE SHOZO

・東京吉祥寺キチムの Localite

・長崎県諫早市のORNAGE SPICE

・福岡市周船寺のcafe de Hina

・福岡県北九州市のcafe cream

・千葉県習志野市のギャラリー林檎の木

・福岡市薬院の花屋 cache-cache

・鳥取市の食堂 カルン

・大分県大分市アートプラザでのbaobab LIVE

・京都市北区の SOLE CAFE

・青森市のコノハト茶葉店

日本の14箇所を巡り、3月11日に青森のコノハト茶葉店で被災。

「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ展覧会は、
震災から40日めの2011年4月21日に初日を迎えました。

設営の時はまだ余震が頻発していましたが、
ここまでに至る14箇所で出会った人たちの存在が、
とても、とても、心の支えになってくれた記憶があります。

10年経って無くなってしまったお店もありますが、
それぞれの場所でそれぞれの奮闘を見せてくれた仲間の存在は、
今もボクのものづくりを思いっきり支え続けてくれています。

14箇所の仲間たちを巡り手渡されたマインドのバトンは、
震災を乗り越え絵を描き続ける想像力をボクに与えてくれ、
展覧会が終わると、ボクは東北に向かうようになります。

この10年、西日本の方々とお会いすする頻度は減ってしまいましたが、
みなさんから頂いたものづくりの種は、今も発芽し続けているのです。

「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ10年前の展覧会は、
意外や、多くの方が足を運んでくださり、
人によっては絵の前で涙を流される方もありました。

「自分の描いたもので人が涙する?」

その意味は1人ひとりの中に埋まっているもので、
ボクがなにか代弁できるものではありません。

しかしその涙は、日本の各地を巡ってボクの手元に届いた花の種を発芽させるだけの力を持ち、
ボクはその後10年、相変わらずその辺で咲いている花の絵を描き続けているのであります。

つづく。

忘れな草をあなたへ

2014年2月の記事を、一部文章を修正し再掲載します。tis-amigos-koike-medium-3

今日、横浜仲町台での展覧会で”忘れな草を描いた絵”が売れました。

午後に予定より遅れてギャラリーに着くと、
スタッフさんから絵の購入希望でお待ちの女性を紹介されました。

初めましてのその女性は、

この展覧会はギャラリーからのDMで知ったとのこと。

購入希望の絵をうかがうと、「忘れな草」の絵だとのこと、

その女性の落ち着いた佇まいやコーディネートの印象が、
ボクが描いた絵と実にお似合いではないかと思ったボクは、
この方がこの絵を買ってくれるということに、
今まで味わったことの無い「安心感」のようなものを感じました。

「なぜこの絵を選びましたか?」
というボクの質問に、

「気に入った絵全部、1枚1枚と会話してみたんです」って。

うれしいなあー。

ボクは「東日本」という展覧会を、
そこで偶然出会った人と人の会話の現場にしたいと願い、
また、そうすることでこの展覧会も完成するのだと考えてきました。

それを今日であったばかりの「初めまして」の方が、
ボクの望む最上の方法でこの現場を楽しまれ、
1枚の絵を購入さえしてくれた喜び。

そもそも安い買い物ではないはずのボクの絵を、
見ず知らずの方がご購入下さるなんてことからして、
思いもよらぬことなんです。

直前の東京青山での展示には出品しなかったこの絵は、
自分にとってアウエーな横浜仲町台で、
「東日本」という痛いタイトルの展覧会に対し、
テンダネスを与えてくれるだろうって考え、
搬入準備の最後に手に取り持ってきたものでありました。

その女性と一期一会な出会いの喜びを分かち合いながら、

「どちらからお越しですか?」と質問してみると、

「葉山です」と彼女。

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この絵を描いたのは2011年3月11日の震災直後。

3月11日の手前で誰かから頂いた花束から、
しおれ始めた花を間引いて、花瓶にさしていた忘れな草です。。

震災から8日後、
もともと予定していた帰省で、カミサンの実家の北九州へ。

東日本の様子が不透明だったので、カミサンと息子は滞在を延長。
ボクは5日間の滞在の後、1人で東京に戻りました。

大きな余震が続いていた東京の家に着くと、
4月を目の前にしても、まだ冷たい空気に包まれたままの部屋で、
ボクは忘れな草がさらに枝を伸ばし花を咲かせているのを見つけました。

「おまえ、よくがんばっていたなあ〜」って思い、

そのけなげな美しさと儚さに心をわしづかみされ、
震災から続く夜の暗闇の中、
4月末ににじ画廊で開催予定の「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会のため、
“生き残り”の忘れな草を描きました。

その直後、永井宏さんの訃報は届きました。

美術家で文筆家で音楽家で、
自由と恋愛を愛し59歳で逝ってしまった永井さん。

ボクは人生の節目節目で永井さんから気にかけて頂き、
なんだろな、ちょっと似たとこあるのかな、どうかな、、
そんなフワッとした心地よい距離感を保ちながら、
氏の活躍を追いかけていた関係でありました。

忘れな草を描こうと思うに至ったインスピレーションは、
永井宏さんがボクに届けて下さったものなのではないかと勝手に思い、
描き終えたはずの絵にさらに手を加え、
「永井宏さんに捧げる」とメモして額装しました。

そんな秘めた経緯は今まで口にしたことはなかったのだけど、
絵を購入された方が忘れな草の絵ととてもお似合いで、
しかも絵と会話までして選んでくれたということがうれしくてね。
ボクは「これは、葉山に住まわれ、絵を描いたり本を出版したりしていたけど、
震災の年に亡くなってしまった方に捧げた絵なんすよ、」なんて話してみたのです。

すると、
「その方、もしかしたら私の患者さんかも、」と、

ボクが永井さんの名前を語ると、

「はい、永井さんの最後の治療を担当していたのは、わたしです、」

絶句。

そして涙…

その方は葉山で開業医をされていて、
永井さんの治療の一翼を担われていた方だったのです。

彼女に、ボクが永井さんと初めて出会った場所は、
このギャラリーの企画を担っている、青山のspace yui であることを伝え、
「この絵はあなたに手渡されるために描かれたんですね」と。

「奇跡」や「サプライズ」という言葉が苦手なボクは、
今日のこのことをどんな言葉で表そうかと考えました。

ボクは青春のある時期に絵を描き始め、長沢節という美意識を浴び、
数多の先輩イラストレーターの方々に生きる厳しさ学んだことで、
青山のyuiという美意識の場所で、永井宏という恋する心に出会うことが出来た。

そういったことの1つひとつは
ボクに”生き残りの忘れな草”を見る目を与えてくれ、
出会いの喜びは震災のリアルと拮抗しながらも、
ボクに1枚の絵を描かせた。

その絵は2年前にyuiの壁を飾ったけれど、
今年の冬は、そこを飛び越え、仲町台の空間を飾った。

それを永井さんに縁の深い方が手にしてくれた。

必然の先にさらに必然が、
偶然やって来てくれた。

ボクはこれほど絵を描いてきて良かったと思えた瞬間は無く、
それはボクが生きてきた意味を裏付けてくれるものだとさえ思いました。

今ボクが死んでしまっても
「あいつはこんな絵を描いたヤツだった」って語ってもらえるような一枚の絵。

もちろん、ボクは今は死ぬ訳にはゆかず、
今日手にした喜びを抱え、仲町台での残りの会期を過ごし、
小池アミイゴ個展「東日本」西日本ツアーで、さらに心の体力をつけ、
いつの日か東北の方にも喜んで頂けるものを創り育ててゆきたい。

そんな表現の旅の足場になるのは、
忘れな草と永井さんと女医さんとボクの間で生まれた
ささやかな出会いと別れのヨロコビの記憶。

ボクが震災後の世界に求めていたのは、
もしくは「東日本」を巡り構築したかったことは、
今日のこの出会いと分かれのヨロコビに集約されているのかもしれない。

忘れな草の絵の婿入り先となった方との別れの時、
「握手しますか」と言ってみたけど、自然とハグになった。

永井さん、
あなたの夢見た世界はこんなじゃないかったかな?

そしてyuiの木村さん
あなたの創りたい世界はこんなじゃないかな?

イラストレーションの仕事の締め切りがあるため、
午後3時過ぎにはギャラリーを後にするも、
ギャラリーからの角を曲がってすぐの花屋の軒先で、
ハッハッハ、
これは笑っちゃうよな〜

210円で売られている忘れな草と目が合ってしまったよ。
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そんな初恋の成れの果てのような花を抱え、
帰りの電車に飛び乗るも、それは逆方向、、

次の駅で降りて、
駅のホームのベンチでお客さんからの差し入れのドーナツを食いながら、
折り返しの電車を待っていたんだ。

2014
0226
PEACE!!

129ヶ月め

2021 年 12 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から3,928日
561週1日
10年9ヶ月
129回めの11日です。

11月から12月にかけて、
福島県奥会津エリアで5年めとなる子どもワークショップを行いました。


震災から10年を過ぎて、あらためて福島県の事業として、
今年は2017年の初年度と同じく柳津町を舞台に、
柳津町立斎藤清美術館を拠点とし、
福島県立博物館の学芸員チームが企画運営を行い、
NPO法人ドリームサポート福島が運営をサポート、
柳津町の地域おこし協力隊が現場をサポートくださり、
柳津町内の柳津小学校と西山小学校それぞれの学童保育を利用する子どもたちに、
学校や家庭では出来ないアートな体験の現場を創る企画。


事前に関わるみんなでオンライでミーティングを行い、
みなさんそれぞれが望むワークショップの姿を聞かせてもらいました。

今回は特に、柳津を愛し多くの木版画作品を制作してきた斎藤清と、
リノカットで作品世界を深めたピカソの作品を見比べられるタイミングということで、
そうした既存の作品に子どもたちをどうアプローチさせたら良いか、
多くの考えを聞かせてもらいました。


斎藤清が描いた柳津の姿は、町民だけでなく、会津だったり福島、もしくは日本の宝のようなものです。

その魅力を子どもたちに確かに手渡してゆくことは、このエリアを子どもたちの故郷としてゆくために、
欠かせない文化事業であるはずです。


ミーティングでは、過疎の進む奥会津エリアに暮らす子どもたちにも、
都会の子どもたちと同じようにアートに触れるチャンスを与えたい。
そんな考えも語られました。

これは多くの大人が納得出来るすごくわかりやすい考えだと思います。

しかし、奥会津5年めとなるボクは考えます。


奥会津に生きることは都会に暮らすことでは手にできない豊かさがあるのではないか。

奥会津に生きる子どもたちに、西洋で育まれてきたアートを「与える」ことの意味を、
ちょっと立ち止まって考えてもいいのではないか。


自然と共生した日本の原風景と言われるような環境で育った子どもたちから、
ボクはなにか新鮮なものを与えてもらえるのではないか。


過疎という環境が育み子どもたちのコミュニティの肩越しから、
日本の社会を眺めたらなにが見えるのだろうか?

もしくは、日本を超えた世界は見えてこないだろうか。


彼らの中に埋まっている色彩や線や構図に出会うことは、
大人にとって喜びにならないだろうか。

そんな大人の喜びが子どもたちに還元され、
さらに子どもたちのクリエイティビティが育つ。

そんな循環は、自然に囲まれたエリアだからこそ構築出来ないだろうか。

ピカソのリノカット作品、特別に撮影の許可をいただきました。

こんな考えの元、子どもたちの表現のアウトプットの触媒として、
優れた美術作品を「利用」するワークショップはどんな姿だろう?

「鑑賞」では無く「利用」というアートとの接し方。

よーっし、
考えがどんどん楽しくなってきたぜ。

そして、
11月に柳津と西山の子どもたちそれぞれとのセッション1。

特別に撮影許可をいただきました。

ボク「これピカソって人の絵だけどどう思う?」

子どもたち「おもしろーい!」

ボク「この変な線、これを指でなぞってみよう」「あ、ほんとに触っちゃだめだけどね」

子どもたち「うい〜ん、ぐうーーー」

ボク「きもちいいだろ〜!」

子ども「わかんなーい」

ボク「斎藤清さんの猫の絵、同じポーズできる?」

子どもたち「できるー!」「えー、できない」「はずかしい」などなど。

ボク「いや、もっと足開いてるぜ!」「あと背中位をぐっと反って」

子どもたち「こう?」「できたー!」

ボク「どう?気持ちいだろう」「じゃあ、外に出て気持ちいい絵を描こう!」

ギャラリーから出て大きな紙の上に立ち。
「さっきの猫のポーズ出来る人いるかなー?」

斎藤清はピカソの気持ちい線を体に記憶した子どもたち。
「きもちいいい!」を形にしてゆきます。

じゃあ美術館の外に出てみよう!


子どもたちは、大人になにか与えられる前に、
子どもたち同士のコミュニケーションのもと、
柳津の「たのしい」をどんどんと見つけてゆきます。

柳津は4年前に同様のセッションを行ったことで、
耕された土壌というのがあるのだろうか?

4年前は手強く感じた『子どもたちコミュニティ内で設定されてしまう1人ひとりのキャラ』が、
今回はスムースに解けて、1人ひとりそれぞれのペースで、絵の具遊びを楽しんでくれたイメージ。


それに対して、今回初めましてで、より少人数で学校生活を送る西山の子どもたちは、
ボクが話始めると、スッと静かになって話を聞いてくれたりする良い子たちなんだけど、

美術作品を見て同じポーズやろうなんて投げかけに、やはりスッとアプローチしようとするも、
周りを見渡し、1人が突出することをためらう。
もしくは、
「これ誰やる?」に対して、子どもたち一斉に「〇〇くん!」と指を指す。

なるほど、子どもたち1人ひとりを見てゆくと、
みんなそれぞれ「私はこういう人だから」と語れてしまうキャラが設定されているみたい。

それは1年生から6年生まで20名くらいのコミュニティを、
日常の中でスムースに回してゆくための子どもたちの知恵であって、
外から来たボクが簡単に否定してはいけないもの。

なんだけど、彼らが成長し順々と社会に出て行く先で、
奥会津で設定したキャラは、簡単に踏みにじられてしまう可能性があり、
またそこでキャラを再設定するのか、もしかしたら折れてしまうこともあるかもしれない。

だから、今本当の「楽しい」に1人ひとりが触れておいてもらいたい。

斎藤清という人は木を彫る「楽しい」の経験が、
ピカソは面白い線を一本描く「楽しい」の経験が、
自分というものに命を与え、今一枚の絵としてみんなの前で息をしている。

この子どもたちはみんな芸術家になるわけではないはずだけど、
しかし、本当の自分が触れた「楽しい」は、人ひとりを生かすしなやかに強い力になるはず。

よーっし。
セッション2の目標が明快になった。

そして、
柳津の子どもたちは、より自分を加速させてくれました。

目に見える目の前の風景を、体が気持ち良いと感じる線で描く。
自分の気持ちが喜び続ける色で塗りあげる。

そんなテーマを投げた直後、柳津にデカイ虹がかかったものだから、
あとはもう子どもたちが勝手に自由に向かって駆けて行った時間。


西山では、まずはボクが気持ち良いと思うことを語り、
大きな紙に描くのも、小さな紙に描くのも、
それぞれめちゃくちゃ気持ち良い一本の線というものがあるってことを見せたら、
徐々に、徐々に、一本の糸をほどいてゆくように、子どもたちのキャラが剥がれ、
1人ひとりの「気持ちいい」が画面に現れるようになり、
ある瞬間、1人の女の子がなにかを突き破るように体全身を使って絵を描き始めると、
「気持ちいい」は波紋となり、子どもたち1人ひとりに伝わってゆきました。


そうしてあらためて子どもたち1人ひとりを見てゆくと、
コミュニケーションモンスターのような活発な女の子が、
実は可愛い絵を大切に描く子だったり、
お笑い担当でみんなから指名される上級生男子が、
実はめちゃくちゃ淡い色を繊細に重ねる子だったり、
現場をブレークスルーに導いた女の子は、
普段は目立つことは一切やらない子だったり。


いわゆる聞かん坊な男の子は、
実は見事な統率者として、色面を楽し過ぎる色水遊びの現場に育てたりね。

それでも、上級生グループが一塊りでみんなに背を向けて、
学校の美術的な絵を描いちゃっていたりもしたけど、
ここまでみんなの心を耕しておけたら、

4年前と今の柳津小学校の子どもたちが変化したのと同じく、
この先は子ども同士でブレークスルーのチャンスを見つけてゆくんだと思います。

しかし、すごい絵が生まれたぞ!

西山ってこんな緑色が美しい場所だって。


大人が語る子どもの個性ってなんだろうね?


ちなみに、この記事のトップに掲載したのは、
ボクが描いた柳津のセイタカアワダチソウ。

柳津は光がとても綺麗な土地で、
子どもたちは光の美しさの中で育っているのだろう。
淡く繊細な色を使う意味は、その辺にあるのかもね。


このワークショップの作品は、
2月から斎藤清美術館のアトリエで展示予定。
ボクも設営に立会い、子どもたちの作ったものがよりかっこ良く輝くよう、
がんばりますね〜!

みんなー
また元気で会おう!

奥会津から東京に戻り、東京駅を出ると丸の内はギラギラだった。

丸の内の街をアートで盛り上げるって企画だそうだけど、
この予算の1パーセントでも奥会津に投入出来たら、
日本はもっと楽しく良い国になりますよ。

128ヶ月め

2021 年 11 月 11 日 木曜日

今日は2011年3月11日より3,898日
10年8ヶ月
556週6日
128回めの11日です。

今回で5年めとなる福島県奥会津エリアでの子どもワークセッションが、
来週より始まります。

今回は2017年の初回と同じく柳津町の子どもたちと、
地元を描き続けた版画家、斎藤清さんの作品を通し地域の魅力を再発見しよう!
という大人向けのテーマを掲げつつ、

どんな山間のエリアでも、ネットで情報が共有出来てしまっている今、
ローカルに生きる子どもたちに何かを与えるというより、
彼らの中にあるものを共有することから始め、
思いがけないものに出会えたら思いっきり驚いてみたい!

そんなセッションにするつもりです。

しかも、今回は同じ町内でも生活エリアに隔たりのある柳津小学校と西山小学校、
それぞれの学童保育を利用する子どもたちに、それぞれのエリアならでは発想を持って臨みます。
!)これは学校単位の企画なので、一般の募集はありません。。


主催者の福島県、共催の町立斎藤清美術館、企画運営の県立博物館学芸員チーム、
お手伝い下さる地域おこし協力隊のみなさん、サポート下さる法人との企画会議では、
まずは「山間のエリアに暮らす子どもたちにもアートを与えたい」という考えが示され、
そこから発想されるワークショップ案を提示されるのだけど、
前述の通り、
まずは山間に暮らす子どもたちが何者なのかを知るのが先では無いかなと。

「多様性」というワードが発想のスタートラインにしっかりと記されている今、
奥会津というとても貴重な土地に暮らす子どもたちに、
都会で暮らす子どもたちは当たり前に手にしているであろう価値を、
都会の子どもたちと同じく与えてあげたい、そんな考えの前にやっておくべきことがある。

もしくは、そうしたことは学校というシステムで行なった方がスムースであり、
ボクのような個人が行う必然はないんじゃないかな?とかね。

そもそも、柳津と西山とでも違いがあって、それが面白い!

みなさんが真面目に考えてきてくださった案を、申し訳ないのだがひっくり返し、
発想の荒野にみんなで立って、子どもたちにとって今必要なものはなんだろうか?
それはそのまま、私たちにとって必要なものはなんだろうか?という投げかけとともに
考えてゆきました。

この企画と並行したタイミングで、いくつかの子どもたちとの企画が動いていて、
そこでも変わらず、
東京でイラストレーターやっているボクのような者が地方の子どもたちになにか素敵なものを与える、
そんな考えをひっくり返して考えてもらうことから始め、
子どもたちが何者なのか、何を必要としているのかを、アートの力を使って知ってみよう。
何かを与える、もしくは共有するのはそれからでいいんじゃないか。
それはそのまま、そこに暮らす大人たちが何を必要としているのかの気づきの現場とはならないだろうか?
そんなことを語り続けています。


「震災から10年」というワードの魔法が間も無く切れる今。

しかし、今からやらねばならぬことばかりです。

ボクが向き合う大人は、子どもたちのことを真摯に考えている素晴らしい方ばかりです。
ボクは彼らが愛す子どもたちと共に、そんな1人ひとりの大人の心もオープンに解き放たれる、
そんな必要があると考えています。

柳津セッションのフライヤーデザインは今回も江畑さん。
彼女もまた地域おこし協力隊として会津に入り、
このプロジェクトに5年に渡り関わり続けてくれてます。

とてもセンス良い人で、
最初の頃はとても繊細で綺麗なデザインを投下してくれていたのが、
ボクが毎回ガチで子どもたちと絵の具遊びしている姿に慣れたのか、
今回はとてもタフで美しいデザインにしてくれ、
このフライヤーを手渡された学校の先生からも「綺麗!」と歓声が上がったとのこと。

なんつーか、彼女の生きる免疫力も高まったような5年。
こういうことが日本中で起きたらいいなと、
次の10年はそんな10年であればと願っています。


この秋何が生まれるのか、
楽しい報告が出来るようがんばりますね〜〜!