‘取材’ カテゴリーのアーカイブ

137ヶ月4日もしくは 77年め

2022 年 8 月 15 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,175日
596週3日
11年5ヶ月4日
137回めの11日から4日経った8月15日。
太平洋戦争が終わった日から77年です。

7月31日に展覧会を開催している長崎県諫早へ。
生活雑貨とカフェを営むオレンジスパイスのみなさんと久々の再会。
開業から28年の底力ある現場は相変わらず素晴らしく、
この場所を維持してこれた力というものをあらためて考えてみました。

次の日は福岡へ。
出会った、絡み始めて16年。
相変わらずぶっ飛んでアート作品を産み続けているアトリエブラヴォへ。
以前からスタッフが更新された中、次世代の福祉の風景を見せてくれてるのが嬉しくて、
予定よりずっと長居して、商品開発のブレインストーミング。
「障害を持っている」と呼ばれる人たちと当たり前に触れ合い、当たり前に16年の時を重ねてこれたこと、これは未来だなあ〜。

その後薬院のカフェsonesへ移動。
現在ケータリングに力を入れている店とは、
0年代の多くで心通う現場作りをしてきた仲間。
そのケータリングカーにペイントの依頼を頂きました。

オーダーされた絵柄から、ボクなりに魂の逸脱。
福岡の街のこの店じゃなきゃ描けないものを提供できたはずです。

夜は、やはり多くの現場を共にしてきた仲間のライブ。
小さくても軽やかに深い表現の現場は福岡ならではだな〜

浜田真理子さんなどという憧れの存在とも出会え、
福岡の底力を感じながらカミさんの実家のある北九州へ。

先に来ていた中一の息子と合流し、
大変なおもてなしを頂き、人のありがたさを感じ…

自分がこうして善き人に恵まれている意味とは?

善きものに恵まれたら、その逆にも視線を向けた方がいいねと。
ほんとギリギリまで悩んでいたけど、息子を連れて広島に行くことにしました。


もともと息子を広島や長崎、沖縄に連れてゆくことだけは自分の責任として行うつもりだったのだけど、
中1になって自我が急激に芽生えたように思えたので、このタイミングだろうと、1ヶ月半前に自分ひとりで来たばかりだけどね、広島平和公園を目指しました。


ボクが震災後の東北を目指した大きな目的のひとつは「息子に自分の言葉で震災を語れる大人でありたい」と思ったから。
そう思った背景には、中越地震でのボランティア参加や、福岡西方沖地震後の活動などと共に、広島や長崎、沖縄で戦争の記憶を探る旅を続けてきた経験があります。

そうした経験で得たことは「ひとりが語る言葉の重大さ」
もしくは「ひとりを失うことの重大さ」

個人的に3度めとなる広島平和記念館は、数年前の改修でより「ひとり」というものにフォーカスされた展示になっているイメージで(以前は「原爆資料館」的なニュアンスも強かった印象)、12歳男子はそこでどんな言葉に出会うのか、受け止めきれぬこともあるだろうけど、まあ俺がついてるぜと、彼の背中を追うように展示室を巡ってゆきました。

もともと文章を読む能力の高い息子ですが、展示されているほとんどの言葉をインプットしているようで、ゆっくり時間をかけ、たまに椅子に座り込みながら、広島であったことに向き合っていました。

その後ろ姿を見ている自分は、多くの思いが心の中で交差していたんだろう、ある意味感情が真っ白な感じしていました。

息子が来館者用のノートに刻んだ言葉を見ると「この戦争で人は人でなくなったのだ」という言葉。
ボクはあらためて真っ白な心にこの言葉を書き込み、残りの人生を歩んでゆくことになるんだろう。

そして、広島向き合ったことに対して12歳はこれからどう生きてゆくのだろうか?

正義感の強さが脆さに思えてしまうことのある12歳だけど、この日のことがひとりでも人を救うことに繋がるよう見守り、ただ暴力の芽が見えたら、その根を断ち切ることは大人の責任をしてやって行かねばだなあ。

そんなことを考えていたら、旅の最後に鹿児島の知覧に行ってみようと思いました。

北九州-広島の後、熊本で楽しい仕事を頂き、そのクライアントさんである高橋酒造さんが米焼酎を醸す人吉の多良木町まで連れていってもらい、長年の酒造りが人と自然とが共生した美しさの中で行われてきたこと、2年前の豪雨被害からの復旧状況など確認。(復興ではなく復旧だなあ)

明治維新というものがあり、
主権がちょっと「民主」というものに振れつつ、
西洋列強の植民地支配は相変わらず脅威で、
いくつかの戦争で成果を残すも、
農村や漁村といった日本を支えてきた人々は貧しさの中にあり、
軍事国家を維持することを、さてどうしよう。

ボクなんかが簡単に語れる判断なり思い込みなり勘違いも重なったりしたんだろう。

ただ、今めにしている多良木の風景はなんて美しいんだろう。

人がなんとか生きようとして力合わせ工夫し生まれた景観、そこで酒を造り続けることの豊かさ美しさ。

こんな人と自然との風景を心にインプットして知覧へ。

自分の中でモノクロの映像であった知覧は、緑豊かな台地の上にありました。

島津藩の出城としての城下町として栄えた歴史ある街並み擁する土地で、戦争遂行のための合理的な判断で戦闘機乗りの訓練場として整備された知覧が、戦争末期には沖縄戦での特攻の出撃基地と変化したこと。

本来エリートである若者が武器にされること。
その作戦立案した者、指示した者など、そうか、今の自分より若い人だったんだ。

そして12歳の息子もあと5年、17歳で特攻に加わった人がいたこと。

青年の「純粋」を戦争遂行に利用したことについて、答えを求めずあれこれ考えてみたが、無感情という状況になったのは、初めて東日本大震災の被災地である福島県の豊間に行った時、広島に行った時、沖縄の摩文仁に行った時と同じ。

ただ、豊間で出会った少年との会話、
ボクが「あの辺は被害が少なかったんだね」という質問に、
「少なんくなんか無いよ!2人も死んだんだ」という言葉が心のなかでループして響いていた。

こうしている間も、世界のどこかで戦争が行われている。

東京にもどった8月6日。
広島の平和祈念式典を見ていると、子供たちが「平和の誓い」で「多様性を尊重することが平和に繋がる」と語っていた。
戦後77年の今、多様性から平和を語れる世代が生まれて来ている。

自分が社会に向ける視線もさらに豊かに磨き、ついつい見落とされがちな身の回りの小さな美しさに気づき、大切にしてゆく人生を歩まねばならないと考えている。

自分の中で色のついた知覧という場所が、若者の純粋を未来に繋ぐ場所であるよう願いながら、鹿児島中央駅行まで1時間ちょっとのバスに揺られた俺です。

135か月め

2022 年 6 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,110日
587週1日
11年3ヶ月
135回めの11日です。

現在滋賀県の東近江市能登川町立図書館で「暮しの手帖」元編集長の澤田康彦さんとの展覧会「いくつもの空の下で」を開催中のボクのことを、京都新聞ジュニアタイムスが取材してくれました。

子どもたちに向けて、悩める子ども時代を過ごして、悩める今を生きるボクの話を、噛み砕いで編集してくれた記事に感謝。

過去を振り返ることより、今を生きることに精一杯な自分にとって、人との会話から自分を確認出来ることは、ありがたいことです。

じゃあこれが子どもたちの役にたつのかどうか、、
引き続き「わかった顔」しない生き方を続け、自分に興味持つ子どもがいたら、その時の全力で答えられたらいいな。ちょっとくらい間違ったこと言うかもしれないが、ともかく全力で。

ところで、
京都新聞と同様のインタビューを雑誌 SWITCH で受け、
6月20日発売号の記事となっています。

SWITCH-Vol-40-No-7

今の自分を形成している子どものころのことから、
セツモードセミナーで長澤節から受けた啓示など、
京都新聞とほぼ同じ内容で語っているはずですが、
こちらではトンガった大人に向けてグサグサ刺さる編集。

自分を振り返り、ひでえやつだな〜と嘆くも、
すんません、これが俺なのか、、
です。


そして、やはり同様のことをネットメディアでたっぷり語りました。
IMAGINEZ大学 with Discovery

https://www.discoveryjapan.jp/program/imaginez-univ/

こちら配信開始は7月になるかと思いますので、詳細あらためますね。

が、なんでこのタイミングでこれだけ発言を求められるのだろうか?

今日台湾よりオードリー・タンさんに関する近藤弥生子さんの著作が送られてきました。

台湾の天才的なハッカーで、日本で言うところのデジタル庁の大臣に就任したオードリー・タンさん。
彼女が社会にもたらしたことについて、ボクに日本からの視点でコメントを寄せてくれとのオーダーを頂き、東日本大震災後の社会を思い短文を寄せたので、紹介してみます。

2011年3月11日、日本は未曾有の大震災を経験します。
あれから10年。被災地では人々の「対話と共有」の痕跡を感じる、優れたデザインの社会的インフラに出会うことが出来ます。
困難を解決するため、1人ひとりの中に埋まる答えと対話し、共有することで導き出す最適解。
それはきっちり10年未来の発想であり、オードリー・タンさんはそれに輪郭と名前を与え、1人ひとりが使える道具に変えてくれているように思います。

以上。

ボクが3月11日以降出会ってきたことには、良いことも残念なこともあります。
そんな中で、困難の中にあるからこそ、他者を思い関わる人たちにとって最善の解決を導き出す努力とアイデアに出会うたび、深い共感と感動を感じてきました。

そうした「被災地」の発想は、日本の社会をより良いものにする力があると直感し、自分で暮らす街や触れる人と共有することを続けてきたはずです。

が、共有するための言葉は足りていなかったかなと。

オードリー・タンさんが社会の課題解決のために実践され、オープンソースとして社会共有されていることには、自分が見たり感じたりしてきたことが、明快な言葉で語られています。

「あの日」から11年3か月の今、
あらためて自分の言葉で震災や被災を語り、社会の生きづらさや息苦しさにちょっとでも風穴が空けられるよう。自分が身に付けた社会の課題解決に至る方法を実践してゆかねばなと。
それは何気なく描く1枚の絵にも反映させてゆこうと考えています。

台湾からもう一冊。
自著「台湾客家スケッチブック」が紹介されている政府系(?)の雑誌を届けていただきました。

この雑誌の特集は「女性」

世界第6位
アジア圏では第1位を誇る女性の社会での活躍が進む台湾。

そんな台湾のそれぞれの現場で活躍中の女性が、
台湾語と英語のテキストで紹介されています。

気象アナリストやフードコーディネーター(で語りきれないが)など、サスティナブルな世界を目指す社会の課題解決の最前線で活躍される女性たち。いい顔してる。

この辺、日本でやるとルッキズム(外見至上主義)に陥ったものになりやしないか?

もちろん、台湾の社会だった問題はあるのだけど、でも台湾の社会や人から学び日本の社会に投下するべきことは沢山あるな。という実感。

話はちょっと飛躍しちゃうかもだけで、
クラスの一番すみっこで静かに小さくなっている女の子が、実はすごいこと考えていたなんてことは、当たり前にあることで、ボクのようなものは絶えず小さな声に耳を澄ませてゆかねばならないのだ。

 

123ヶ月め

2021 年 6 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から3,745日
535週
10年3ヶ月
123回めの11日です。

6月2日、福島県の郡山市の”みどり書房”さんから頂いた絵本の原画展のご縁に答え、
PCR検査陰性を確認した上で、設営に向かいました。

初めて展覧会を開催するという書店のみなさんとボクとで、
現場作りのスキルアップをするってことに意味を感じたので、
ともかく現場へ。

その後、仕事でご縁をいただいている医療法人社団進興会さんの、
宮城県仙台市にある”せんだい総合健診クリニック”で、人生初人間ドックを受診。

ならばと、連載をしている旅のエッセイの取材をしようと、
4年半ぶりの気仙沼の唐桑へ。

いつもは東北新幹線で一関乗り換え大船渡線向かう気仙沼ですが、
今回は復興道路と呼ばれる高速道路、
三陸道の仙台-気仙沼間が開通しているとのことで、
高速バスを利用してみました。

利用した印象は「気仙沼は近くなったなあ〜」です。

震災後知り合った友人たちと久々の再会を果たし、
会話のほとんどを占める他愛も無い話で笑い、
しかし、会話の中に絶えず挟み込まれる「震災から10年のリアル」に頷き、
コロナはほんと大変だよねと、慰め合う。

あれから10年の気仙沼を歩き、みんなの今を確認。

10年頑張ってきて、「よし!」と思い踏み出せたタイミングで、
コロナで足踏みを余儀無くされる苦しさ。
ボクは無力な存在ですが、まずは共有したので、
今後はアイデアを交換してゆきましょう!

そこからさらに陸前高田、大船渡と北上。


陸前高田では、東日本大震災津波伝承館へ。
この国の作った施設と、たとえば、気仙沼市が運営する東日本大震災遺構・伝承館との、
存在意義の微妙な違いを肌で感じつつも、
あれから10年の今、心はまだ静けさと共に祈る気持ちで支配されるのだなあと思い知る。

初めましての土地大船渡は、
東京で知り合った大船渡育ちの女性の、大船渡への愛と喪失の言葉を頼りに、
ともかく自分の足で歩いてみることをしてみました。

中学生の春、彼女が心に刻んだものは、消えてしまようものでは無く、
今もその時で止まっていることばかりでもあろうけれど、
だからこそ救えるもの、生かすことの出来ることはあるんだろうと、

未だ復興の石鎚が鳴り響くリアスの街を包む、
懐の深い美しき自然が与えてくれる優しさと強さから直感しました。

小笠原満男さんが中心となり尽力し造ったサッカーグラウンドにも出会えた。
なるほど「誰が造った」なんて言葉はどこにも書かれていない、美しいグラウンド。
俺の満男、紛れもなくいい漢です。


そして宮古。
なんども利用している三陸鉄道も、南リアス線は初めて。

2年ぶりの宮古駅を降り立つと、
懐かしいという気持ち以上に、なんだが元気そうに見えるぞ!という、
震災直後では感じられなかった”華やかさ”なんてものを感じました。

それでも、いつも立ち寄る食堂は、ゴリゴリのコロナ対策での営業で、
10年頑張ってきて、今回のコロナは、やはり厳しいのだろうなと思うばかり。

旅の最後の目的は井戸。

岩手県沿岸部のすべての町から映画館が消えてしまったことを受けて立ち上がった、
古い酒蔵を利用し、映画を上映し、地域コミュニティの核を創ろうとするプロジェクト、
シネマ・デ・アエルのコアメンバーが新たに企画した、
「街に”井戸端”を復活させよう!」というクラウドファンディングを利用し達成したプロジェクト。
その井戸を見ることです。

この日偶然にもプロジェクトの代表の有坂さんに会うことが出来て、
こうしたプロジェクトの意義なんてものをあれこれ聞かせてもらえました。

そこで語られることのほとんど全てには「対話と共有」という原則が通底しています。

この「対話と共有」は、この旅を通して聞こえてきて、ボクも繰り返し使った言葉でした。

議論以前に対話。
決定の前に共有。

人間の力の及ばの震災というものを経験し、
社会での経験値や職業、もしくは政治信条なんてものも違う人たちすべての命が尊重され、
新たな社会を創ってゆかねばならない。

そんな状況に直面し、最適解を求め続けた東北の人たちは、
幼い発想で開催されるオリンピックでどうにかなってしまっている東京より、
確実に10年先の未来を生きていると思えた今回です。

たとえば、
・巨大防潮堤が造られる。
・砂浜が失われるのは身を切られるような思いだ。
・ならば、防潮堤のデザインを砂浜が失われるものに変えよう。

対話と共有をサボることなく重ねた結果、
ボクのようなものから見たら、なんて美しい風景なんだと思えるビーチが生まれた。

気仙沼の大谷海岸は”おもてなし”のTOKYOが本来目指すべき未来だと思いました。

あらためて、
復興とは元に形に戻すのでは無く、
みんなが願う未来を創造することなのではないかと。

それは、あの日から10年の今から始められることも多いぞ!と思った今回。

復興のお金が土木にばかり流れることに違和感を感じるも、
三陸を貫く高速道路には確かな意義を見つける。
ならばこれをどう使っていったら良いのかを考える余地を、
東北の人は握っているように見えました。

そんなちょっと未来の東北では、
イラストレーションやデザインがもっと必要とされるし、
そんな必然に答えられるものを作らなくちゃと思ったのです。

そんな話の続きは、9月ごろ絵と一緒にまとめてみますね〜