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167ヶ月め_個展東日本「能登の杣径」

2025 年 2 月 11 日 火曜日

今日は2011年3月11日から5,086日
726週4日
13年11ヶ月
167回目の11日です。

14日から弦巻のPOPPYでの花の絵の展示が始まる前ですが、
東日本大震災発災後8回目の開催となる個展「東日本」の告知をいたします。

小池アミイゴ個展 東日本「能登の杣径」@青山space yui
 2025年3月6日(木) – 15日(土) *休_9日(日)

12:00~19:00 *最終日~17:00マデ

space yui
〒107-0062 東京都 港区 南青山 3-4-11ハヤカワビル1階
TEL : 03-3479-5889

「杣径」(そまみち)は山で働く者の日々の足跡から生まれる道。
2023年7月、ボクは輪島の塗師 赤木明登さんを尋ね能登へ。
「杣径」という言葉と共に、豊かな人のあり方に出会いました。

*15日(土)_ぬりだくみ
能登半島地震と豪雨被害で被災した輪島塗を廉価で販売し、
輪島塗の職人に還元するチャリティも行います。
 販売協力:田谷漆器店 桐本拓ニさん

2023年7月、ボクは初めて石川県へ、能登へ行きました。
目指したのは輪島の塗師、赤木明登さんのアトリエ。

それは2005年まえ雑誌Hanakoの誌上で渡辺満里奈さんと連載していた食のコラムで、
赤木さんのアトリエや漆器が描かれていたこと。
(この連載で挿絵を担当する自分は、原稿を頂いて描く前に実際に食べに行った)

また、彼女の結婚式の引出物として手にした「ぬりもののパン皿」が美しくて、
いつか赤木さんの元に行かねばと思ったことに始まる旅でした。

この旅に関しては、ダイハツのネットマガジン「まどをあけて」をご覧ください。
https://www.daihatsu.co.jp/lyu_action/book/no07/madowoakete07/

こちらではあらためて「東日本」というこれまで続けてきたテーマの中で開催する意味を。

2011年3月11日に発災した東日本大震災ですが、
ボクはそれ以前に東北太平洋沿岸部で知り合った人はなく、
また、それ以前の風景も知らなかったのです。

もっとも東京では沿岸部の出身者と知り合っていて、
彼らたちからの発信はリアルなものとして受け止めることが出来ていました。

なので、次は自分が当事者になるために行ってみなくちゃと思い、
しかし特別な目的も持たずにフィールドワークを続け、
そうして東北の沿岸部でひとり、またひとりと知り合いが生まれ、
友情が芽生え、お互い生きる力を知恵を分け合うような関係が育まれ、
今に至っています。

ボクはそんな関係性の中に、自分の考える「復興」もあるように思うのです。


しかし、2024年1月1日に発災した能登半島地震では、
その半年前に会ったばかりの人たちの顔が、その暮らしや仕事から感じる心の豊かさが、
美しい風景と共に思い出されてしまいます。

もしくは、能登の美しく保存された港町の景観は、
震災後初めて行った東北の太平洋沿岸部では失われてしまったものであり、
ボクは能登に行ったことによって、東北を解像度高く想像することが出来るようになったのだが、
今度は能登で大切なものが失われていることをリアルに実感する者として、震災と向き合っている。

なので、今回絵を一枚描くのであっても、
震災後の東北沿岸部を描いたのとマインドの違いはあるよなと。

その違いがなんであるのかは、絵を描きながら気がついてゆけば良いことなんだけど、
自分には東北を歩いてきた13年の年月で、自分の足で踏み固めた「杣径」は確かにあって、
そこを歩いて能登に近づけばいいのだと考え、今回の個展を開催します。

今年1月22日に中公文庫の新装版として刊行され、大変多くの方に手に取ってもらっている、
森崎和江 さん1984年著作の「能登早春紀行」の原画も展示します。

この仕事で「ああ、こんな綺麗なものが描けた〜」と思えたのは、
間違いなく能登で出会った人たちから頂いた美しいマインドのおかげです。

この仕事の制作ノート的なものやラフスケッチ何点かを
こちら↓に掲載しました。


初めての能登では、赤木明登さんに誘われ1時間ほど山歩きをしました。
そこには、自分たちが当たり前と考えている日常とは別の、
しかしものすごく密接に絡み合った時が流れていて、
それは自分の子供の頃の古い記憶と繋がっていたように思います。

「杣径」とは、単に物理的に踏み固められた道なだけで無く、
自身の過去と未来を結ぶ、
思いがけない起伏の中でなんとか人ひとりが通れるくらいの道なのだろうなと。

その経験により、自分が創るものもちょっと変化したように思います。

今回の展覧会でそこまで見てもらえるかどうか、
頑張らないとだな〜。

 

 

都立墨東特別支援学校でのアートプロジェクト

2025 年 2 月 3 日 月曜日


東京都立墨東特別支援学校に在籍する小学1年生から高校3年生まで、
通学している子どもから、病院・施設、 自宅での訪問教育を受ける子どもまで全員、
300名以上のみんなとアートセッションを重ね生まれた作品を、ひとつにまとめデザインし、
学校の表玄関(送迎バスが並ぶ大屋根)を飾る25メートルのウエルカムフラッグを制作しました。

こちらは、東京都が進める「笑顔と学びの体験活動プロジェクト」に、
墨東の校長先生、田村康二朗先生が綿密な企画書を作成、参画できたものです。


田村先生とは、前任の光明特別支援学校でのアートプロジェクトからのお付き合い。

しかし、お互いゼロから企画を進めてゆこうということで、
必要なプロセスを踏んで実行しました。

今回は2023年末にオファーをいただき、
まずウエルカムフラッグ中央部分を自分の絵を使ったデザインで先行制作。
春に現場に設置しました。

墨東の生徒とのアートセッションは9月。
その直前で、まず墨東の全先生向けのワークショップを開催。
自分がどのような価値観と視線を大切に子どもたちと向き合うのかを共有。

子どもたちの介助と指導に尽力される先生たちとのオープンなコミュニケーションの構築は、
この企画の中でも最重要なプロセスです。

そして7メートルの画用紙2本をキャンバスに、小学1年から高校生まで9クラスの子どもたちと
「1人ひとり出来ることを楽しく気持ちよく精一杯表現する」アートセッション。


現場では「じょうず」という言葉を禁句に。
「楽しい」「きもちいい」を子どもたちも、それを見守り介助する人も自分も共有し進めます。

強烈な残暑の残る9月に、次から次へと「思いがけず」な表現の喜びが連なった9セッションでした。

さらに、学校に通えず病院や自宅で医療介護を受けながら学ぶ子どもたちとリーモーでのセッション。
画用紙に1本の線を描き次の子どもが着彩。そこに自分がさらに花を加筆し素材作成。


全部て58点のコラボ作品を作り出す作業、
とてつもなく孤独で、しかし、子どもたち1人ひとりとの魂の語り合いのような、
他では得難い貴重な体験となりました。

そうして出来上がった作品すべてをデーター化。
大きな作品の撮影は東京フォトアーガスの坂上さんにお願い、その他は自分でスキャン。

1つひとつ熱量の高い作品をPC上でレイアウトする作業に正解というものは無く、
永遠のような時間を費やしたなあ。

それもこれもどれも子どもたち1人ひとりの命を預かるような作業で、その1つひとつをいかに尊重し、しかし感動ポルノに陥ることなく、品よくパワフルな作品とし昇華させたらいいのかを考え続けた半年でした。

自分が描いた部分は1割程度ですが、自分のイラストレーション史上最も意味のある、そしてセクシーなものが出来たはずです。

ちなみにボクは「セクシー」を「生きてることの美しさ」みたいな意味で使っています。

自分が向き合った限りの実感だけど、
肢体不自由であっても子どもたちには可能性がある。

そりゃいろいろ大変なこと、辛いこともあるのだけど、
でも1人の指先から生まれたその人ならではの筆致はすべて価値があって、美しい。

それを信じ、1人ひとりに対し感動し続けたことだけで、こんなものが作れるんだ〜


そして、
最後は創業安政年間の老舗「さら文」さんにプリントして頂き、現場に設置。

が、すんません、この凄さは自分ごときのスマホ撮影ではまったく伝わりません。

なのでぜひ都営半蔵門線住吉駅徒歩5分の東京都立墨東特別支援学校まで見にってみてください!

ここではふたつの文章を紹介します。

まず墨東特別支援学校でのこのフラッグの制作報告の展示に寄せた言葉

++

「今やれることを楽しもう!」

ボクがこのプロジェクトを通し伝えたことは、これ以上でも以下でもありません。

ただ、これを実現するためには生徒さん1人ひとりと、さらに指導や介助の役割の担う先生方へのリスペクトとコミュニケーションが必要となります。

残暑厳しい2024年9月、ボクたちは「楽しい」ということについて言葉や身体や絵の具を使って語り合い、たとえば指先で塗られたひとつの「点」にも美しさを見つけ、表現の喜びを分け合うことが出来たはずです。

そんなみなの「楽しい」が集まっって生まれたフラッグは、ボクの想像を遥かに超えた「言葉にならぬ何か美しいもの」として、墨東正面玄関で「ここで美しい人たちが学んでいるよ!」と、街に向かってキラキラ語りかけているように見えるのです。

写真は7メートルの絵の制作風景。
「立っていられない」人が床いに下ろされる。
それが苦痛ではないか1人ひとりの様子を確認してセッションを進めます。

自分は勝手に「だいじょうぶかな?」なんて心配して、1人ひとりと同じ高さの目線を交わせる位置まで下りてゆくのだけど、そうして目を合わせると、ほとんどの子どもが自分の心配など吹き飛ばすめちゃくちゃ楽しそう表情を返してくれる。

それでも乗り切れないでいる子には「無理してやることないよ」と声かけ。
そうするとひとつ安心してくれるのかな?結局いい顔して画面にアプローチしてくれる。

そんなことの連続でした。

大切なのはアートのエゴではなく、
1人ひとりの幸せ。

そんなことを繰り返し考え、進めたセッションでした。

そして、社会福祉法人 日本肢体不自由児協会発行の冊子「はげみ」の「災害に備える」という特集号に、
墨東でのセッション中に寄せたテキスト。

ちょっと長いけど読んでみてください。

ひとりが描くひとつの点
小池アミイゴ

イラストレーターの小池アミイゴと申します。ボクは1988年よりフリーのイラストレーターとして活動を続けています。同時に、音楽の世界で現場作りをしたり、ローカルで活動をされている方や障害者アートのサポートをしたり、東日本大震災発災後の東北でフィールドワークを重ねたりもしています。そんな活動に触れた人から「子どもたちと一緒に絵を描いてくれ」という声が届くようになり、「子どもたちの表現の最初の一歩が幸せなものであること」を目的としたワークショップを日本各地で開催しています。最近は渋谷区の区立小中学校で先端的に進められている探求学習“シブヤ未来科”の授業にコミットし、子どもたちの自主的な学びのサポートもしています。

そんな自分がこのような場所に招かれ言葉を綴る理由を考えると、絵と生き方を学んだアートスクール“セツモード·セミナー”に行き当たります。主催は日本のファッションイラストレーターの第一人者である長澤節先生。戦前の日本のマッチョな気質を嫌い、人の弱さを愛しみ、自由と美意識で生きた方。「人の才能は試験では計れない」という考えのもと、無試験で入学出来た多様性の学校では、長澤先生からの技術指導は無く、1番の学びは「人の描いた絵を見ること」でした。生徒が描いたたくさんの絵が貼られたアトリエで、長澤先生は「この絵いいね~!」みたいに語ってゆきます。それは生徒の気づきを促すガイドのようなものであり、本当の学びは自分が好きだと思える絵を見つけること。さらにそれを描いた人に興味を持ち、なんなら話しかけてみること。そこで生まれるおしゃべりの中にこそ「その人ならではの学び」があるというわけです。この考えは、世の中の「普通」に馴染めず、自分をふり回すことを個性と勘違いしていたボクを救い、今まで生きてこれた力を与えてくれました。


今回は「災害に備える」というテーマを頂いての執筆ですが、もう少し遠回りにお付き合いください。

ボクが障害者アートに興味を持ったのは1990年代前半。群馬の実家を火事で失い、家族のケアの必要から東京と群馬を往復していた時でした。地元の電車の中に展示された子どもたちの絵を眺めていたら、力強い黒いクレヨンの線が紙一杯にグリグリ描かれた1枚で目が止まりました。近づいて見ると「ジャングルマウス」とタイトルが書かれています。その隣に作者名、さらに「〇〇盲学校」と。絵描きのボクはこの絵を美しいと思うと共に、盲学校というものがこれまでより身近なものに思うようになりました。

(その時、この盲学校に行ってジャングルマウスを描いた子に会ってみようと考えたのだけど、
自分の毎日がかなり厳しくて、行けなかったんだよね。)

2000年代のボクは福岡のローカルカルチャーに憧れ、現地の若い人と共にイベントや展覧会開催を繰り返しました。拠点となったのは、福岡で1番オシャレと言われていたカフェです。ある日テーブルの隅に置かれた植木鉢にセンスの良いオブジェが植えてあるのに気づきました。見ると「野草くん」と書かれています。「これ誰の作品?」と店主に尋ねると、「本田さんという人です」と教えてくれました。さらに「今度ご紹介しますね」と。後日ボクが連れて行かれたのはJOY倶楽部という知的障害者のための福祉施設で、本田さんとはそこのアート部門”アトリエブラヴォ(以下アトブラ)”のメンバー。そこでボクは初めて彼が障害者であることを知りました。しかし、それ以上にこの場所で生まれる作品(当時在籍していた7名のメンバーによるもの)、その全てがすごくオシャレなことに嫉妬するほど驚き、また「福祉」と呼ばれる現場で「オシャレ」を感じている自分をとても面白く感じました。

このグループを束ねるスタッフさんがそもそもオシャレな人で、通所するメンバーさんにもオシャレをすることと薦めていました。そんな環境がオシャレな作品を生み、福岡の街のオシャレな店がアトブラの作品が広まり、そんな店にはアトブラのメンバーが「普通に」お客さんとして訪れるなんてことが実現していました。
また、福岡の街ではアトブラ制作の壁画にも出会えます。個人や企業、行政などからオファーを受け、ボランティアスタッフを募って制作が進められる壁画は、関わる人がやはりみんなオシャレで、メンバーとの作業を心より楽しんでる風景がとってもハッピーです。そんな壁画ですから「関わるみんなで作ったものはみんなで大切にしていこーぜ!」というマインドが、美しさとして滲み出て見えます。ある壁画は犯罪が多発していた繁華街に描かれたのですが、その直後からそのエリアの犯罪が激減したそうです。それは「この街にはこの街を愛する人の目が注がれているぞ!」というメッセージになっているということです。

ボクは「こんな壁画を自分が暮らしている東京の街にも創りたい」と思い、自分の創作や活動を福祉や地域と接続出来る側面を見せながら発信するようになりました。

そして2018年、渋谷区代々木八幡エリアでの子どもたちとの壁画制作が生まれました。小田急線の踏切を挟んだガード下の落書きされた壁2面、合わせて約50メートルの壁画は、当初自分に対する制作のオファーでした。しかし「子どもたちが描いた方が地域の力になるはず」と、息子の通っていた渋谷区立富谷小学校や地域、企業などとの協働プロジェクトに変更してもらいました。子どもたちに「この壁画の主役はこの前を歩く街の人たちだよ」と伝え、3年半をかけ8度に渡り絵を塗り重ねた壁は、ただ美しいものへと再生されました。これにより街は子どもたちの存在を認知し、この街をより安全で良いものに育てようというマインドが高まり、今は落書きのような犯罪も激減しています。

防犯防災には守るべき者の「認知」はマストです。そんな社会の必然に「アート」と呼ばれるものが利用出来るという確信を持てた2020年元旦、ついに澤村愛さんと出会います。
代々木八幡の壁画のことを知ってくれていた澤村さんは、PTA会長を務めている東京都立光明学園でも何か出来ないかと相談くださいました。

ボクは肢体不自由というハンディを持つ人と何が出来るのかわかりません。それでも飛び込んだ現場では、当時の校長田村康二郎先生が全力でサポート下さり、『在校生全員が関わった美しい壁画』というテーマを掲げてくれました。取り壊しの決まった校舎で大きなキャンバスに見立て、街を行く人に「ここには美しいものがある」ということを知ってもらおう。そんなプロジェクトです。

実際に制作が始まり気づくのは、当たり前ですが「1人ひとり違う」ということです。そして「1人ひとりそれぞれ出来ないことがある」です。ボクは1人と向き合う度に戸惑います。それでも「絵を描いてみないとわからないな」と、1人ひとりそれぞれがキャンバスに向かうのと同じ高さに自分の目線を揃え、1人が「出来ること」を見守ります。すると1人ひとりそれぞれ何に喜びを見つけているのか、絵描きだからこそ気がつくことがあるのです。
こうしたセッションの際ずっと口にしていたのは「待ちましょう」という言葉です。指導や介助の立場にある先生方に失礼にならないか気にかけながらも、1人ひとりが見つけた喜びをキャッチし、それをアクションに変えるのを『ともかく待つ』のがボクの仕事だということです。

その日は屋外の大きな壁へののペインティングでした。ほとんどの生徒たちがグイグイ描き進める中、ひとり制作に加われない女子がいました。見かねた先生が「そこ空いてるから好きなもの描いて」と声をかけました。ボクはすかさず「待ってください、空いてる部分にも意味はあります」「描きたくなったら描きたい場所に描けばいいです」と言いました。すると彼女は少し安心した表情を見せてくれました。しばらくすると、彼女は筆先に黄色い絵の具を着け、大きな画面の「ここしか無い!」というポイントにひとつの点を描きました。その黄色い点ひとつが置かれたことで、 大きな絵の構図がバチっと決まり、壁が呼吸を始めたんです。そんな点を見たのは初めてです。彼女に「やったねー!」と声をかけると、「まあ」みたいなことを呟きはにかむ姿が、キラキラしてたなあ~!そうして1人ひとりのキラキラしたものが集まったの壁画は、生命力に溢れた美しいものとして完成しました。

1人が出来ることを精一杯やってみせることは、とても美しいことです。ボクらは障害や健常という区別をしちゃう以前に、1人ひとりが描く「その人だからこそ描けるひとつの点」を愛するマインドを持てたら良いなと願います。「そこに愛しき人がいるよ」と直感的に認知出来るアートのあり方は、例えば災害が起きた際、助け合う人々を導く灯台のように働いてくれるでしょう。

さて、ボクは現在東京都立墨東特別支援学校で、今回もまた田村康二郎先生の導きで全在校生とのアートセッションを行なっています。生まれた作品は「ここには美しき表現をする人がいること」を感じてもらえるよう、学園のエントランスに25メートルに渡って張り出される横断幕にデザインします。今はボクがプロフェッショナルとして制作した横断幕だけが掲示されていますが、その両翼が新たに生まれた作品で繋がった時、それが真に豊かな社会の誕生を想像出来るものであるよう、引き続き1人ひとりと向き合ってまいります。

輪島塗レスキュー「ぬりだくみ」

2025 年 1 月 23 日 木曜日


2025年春
3月15日_青山yui_12:00~17:00
3月16日_富ヶ谷ルヴァン&ルシャレ c/w とみがやお座敷演芸会
3月17日_富ヶ谷ルヴァン&ルシャレ

能登半島地震で被災した輪島塗の漆器を救出。
通常より廉価で販売し、被災された職人さんに還元するプロジェクトです。
(一部目立たない傷がついたもの、リペアを施したものもあります)

レスキュー隊_輪島の桐本拓二さん
主催_上原の澤村 愛さん
協力_富ヶ谷のルヴァン、青山のyui
プロデューサーA_富ヶ谷のアミイゴ

詳細は逐次更新します。

以下サンプル画像(内容は変更・更新の可能性があります)

 

166ヶ月め_輪島へ

2025 年 1 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から5,055日
722週と1日
13年10ヶ月
166回目の11日です。

東北や北陸など記録的な大雪に見舞われているようですが、
みなさんご無事にお過ごしでしょうか。

昨年末12月26日に思い立って能登に行ってみました。

25日に滋賀県彦根の湖Laboさんからご依頼を受けている仕事の資料撮影のため新幹線飛び乗り。
仕事の作画のイメージが曖昧だったところ、着いたら大きな虹。
「ああ、これを描けばいいんだろう」と、やはり行かねば得られぬものはありますね。
で、彦根から金沢はアクセスも良いので夜のうちに移動。
次の日、26日朝早くから能登輪島を目指しました。2023年7月に初めて行った能登。
そこでの思いがけず手にした豊かな経験を、昨年1月1日に起きた能登半島地震で切らせてはならないと、
3月、10月と能登に足を運び、自分が出来ることを探ってきました。その間よく耳にした「冬の能登も見て」という言葉に惹かれ、
震災当時の能登とはどんな場所なのか、なるべく1月1日に近いタイミングで行ってみようと思ったのです。初めての能登は飛行機とバスと徒歩。
2回目と3回目は金沢から電車、その先はタクシーやバスや徒歩。今回は金沢からバスで初めての輪島の市街地まで。

能登外浦と言われる荒々しい白波に覆われた太平洋岸から、
穏やかな海が広がる能登湾「内浦」を巡る路線は、
能登自然の多様性と「輪島への行き辛さ」を実感する3時間。

輪島はNHK連続テレビ小説「まれ」の舞台のひとつでしたが、
ボクは主人公土屋太鳳さんを親御さんとのご縁で子どもの頃から知っていたのもあって、
いつか行こうと思っていた約束の場所でもあります。

まもなく能登半島地震から1年の輪島、

これは行かないとわからないことばかりだったなあ〜〜

東日本大震災から1年後の東北もずいぶん歩いたが、
その時感じた甚大さと輪島で感じたことに変わりは 無く、
「感じた」と語ってしまったけど、
突然月面に放り込まれたらこうなるんだろうとい思考停止陥るわけです。

ともかく己の想像力を停止させないように念じ、歩いて、歩いて、

自分はしばらく肩を壊していてボランティアに参加出来ない状態なので、
その分寒さや匂いなど、メディアを通しては得られないものをキャッチして、
ともかく歩き続けました。

倒壊した家屋や焼滅した街の写真も沢山撮りましたけど、
そういうものはぜひ実際ご自身の目で、というか心で向き合ってもらえたらなあと。

東日本の時と同じく自分からシェアすることは避けますが、
1枚だけ、
2023年のクリスマスのデコレーションが残されたままの風景と出会い、
色々考え込んだ自分であります。

そんな中で頑張って営業しているお店なんかもあって、

生姜焼き定食食ったら米が美味くてね〜!(肉も美味!)

ワンオペで頑張ってるお母さんに「米うまいっすね!」 と伝えらた、

うちで作ってる米だと、ちょっと突き放すような 言い方。

そして、
9月の豪雨で田んぼの3分の2が流されちゃったんだと。
う〜〜ん、いやでもこれ美味いっす!
能登は水が美味いから米もさらにうまいっす!なんて話したら、

ちょっと嬉しそうな顔してくれた。

いや、もうあの米をまた食いに行きたいぜ、輪島。

あらためて輪島。

行ってみると「やはりこんな大変なんだ!」という事前の想像を遥かに超えた大変な風景に出会います。

個人宅が倒壊した場合、持ち主の許可が無いと物の持ち出しや解体は出来ず、
特に高齢者の多いエリアは深刻風景が置かれたままになっちゃうのだろうね。

ニュースでは、公費による倒壊家屋の解体作業は40パーセントくらいまで進んでいると言っていたが、
一見の自分にはそれがどれくらいの達成度かわからず、「手付かず」の印象が湧くばかりです。

しかし、被災地域のあちこちに仮設住宅が造られている風景は、東日本の時より素早く手厚いイメージ。
(これは10月に行った輪島市門前町でも同様でした)
水道など生活インフラが復旧されていないエリアがまだあるのは、
地理的な要素が大きいのと、9月の豪雨被害はキツ過ぎだよな。
地域の人に伺うと、ボランティアの人たちはよくやってくれているとのこと。
この辺の情報が東京には聞こえてこないんよね。
などなど、
ただ被災地に行って名物の饅頭と生姜焼き定食食っただけの無力なボクが何を言っても伝わらないだろうから、
行ける人は行ってみたらいいと思う。

「がんばろう!」でやれた1年の次、
2年目は体力的のも精神的にもかなりキツくなるのは東日本で見てきたこと。

それでも、被災の対岸にいる自分みたいな者の「わすれない」という 振る舞いは、
意外と 喜んでもらえたなあ〜。あとは目に見えてこない部分、
被災された方もその対岸のボクたちも、お互い人間らしい弱さを尊重し合い、
助け合えたらいいね〜。
というわけで、
今回は輪島のバス停で仕事一本入稿してたらタイムアップ、帰路に着いたのでした。
冒頭にアップした絵は、
以前フイールドワークして出会った門前町黒島の風景を描いたもの。
あと、
今回は行けなかったけど、輪島市門前町鹿磯の食堂「杣径」
みなさんぜひ行ってみてください。
・杣径インスタグラム >  https://www.instagram.com/_somamichi/オーナーで輪島塗りの塗師 赤木明登さんがこの店を中心に地域の復興、
さらには輪島塗りの維持に尽力しているのが、人間のサイズで分かる場所だし、
何よりおいしくて仕方ない。

165ヶ月め_3年生セッション

2024 年 12 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から
5,024日
717週5日
13年9ヶ月
165回目の11日です。

今日は渋谷区地元小学校の3年生3クラスで45分ずつのセ3ッション。

最先端の探究学習「シブヤ未来科」の時間を使い、
3年生が夏休み明けから続けてきたベトナムの留学生との交流学習。
それをさらに探究的に加速させるため、3年生のマインドを揉むほぐしてくれ。

そんなオファーの元、
これまでのベトナムを巡る体験と学びの何が面白かったのか?
1人ひとり違って当たり前のハッピーな経験をブレインストーミングでアウトプット。

「自分が楽しいと思ったこと」という、正解も間違いも無く誰に否定されないことを、
言葉にして文字で書いて、それを一本の線で描いて、自分の好きな色で気持ちよく塗る。
以上を無記名で行います。

「自分の好きな色」と言っても、
一度言葉としてアウトプットしているし、そもそも探究学習のテーマとして触れてきたものもあるので、
過度に悩むことなく「私の感じたベトナム色」がナチュラルに塗られてゆきました。

3年生。

入学時はコロナ禍でマスクの登校でした。
昨年コロナが五類に移行して1年半。

その影響だけでは無いでしょうが、
8歳9歳の子どもたちにのマインドには鍵のようなものが掛かっていることに気づくことがあります。

パンデミックが始まった頃3~4歳の子どもたちは、
どうしようもなく強いられるモラルの中で、子供としての人格形成が行われます。

なので、なんちゃー無い線1本を描く際、
「これどうしたらいいの?」なんて質問をする子どもも見受けられます。

もしくは、なんちゃーないことでも表現することを恐れる子もいるように見受けられます。

自分自身その傾向を感じることもあるのですが、
自閉のスペクトラムのどこかに佇んでる子どももいるはずです。

なので、
「楽しいことのアウトプット」が出来ない、もしくはしたく無いという子どもはいます。
これは東日本大震災発災から数年間の子どもワークショップで強く印象に残った傾向でもあります。

「楽しいと思えない」「それが楽しいことか判断出来ない」「楽しいことを表現したくない」
そうしたことがあるとしたら、
無理して「楽しさ」を装う必要は無く、
「描かない」という選択もOKなのがボクのセッションです。

そうしたことを子どもたち伝えてゆくと、
ちょっとホッとした表情をしてくれる子どもが、
自分の実感だと20%くらいいるかなあ。

ただ、そうした子どもたちに対してネガティブな印象を受けるかと言えばそうでは無く、
どちらかと言えば人としての魅力を強く感じたりするんよね。

というマインドで進めてゆくと、
ほんと思いがけない作品に出会えちゃうから、
やっぱ、こういう依頼を熱い気持ちで受けちゃうんよね。

なんだろ、
ベトナムに対する学びの中で印象に残った楽しいことや美味しそうなもの、
綺麗なものや驚きに溢れたものの出会いを、誰でも出来る簡単な方法で表現してみよう!
で生まれた絵たちの抱きしめたくなるような魅力。

広大の白い画面に小さな線と黄色。
これだけの表現からボクはものすごく多くのものを受け取ることが出来ます。

この表現を出来たこと、
一生忘れないでいてもらいたいぜ。

自分はたまにこうして現れたカッコいいこと言うだけの無責任な存在。
なので、先生や親御さんはじめ子どもたちを見守る全ての大人が、
この絵を好きになってくれたらいいな。

それは未来を創ってゆく子どもたちを助けることに繋がりますね!

今日100名くらいの子供たちが描いた絵はみんな素晴らしい。
その全部を紹介出来なくて残念だけど、
ぜひ子どもたちを見守る大人は、子どもたちの自己肯定感を温めるような声掛けをして、
みなさんの身の回りを、
子どもたちが生む可愛らしくしなやかでセクシーでさえある何か美しいもので満たしてみてください、

そんなちょっと未来のお話しでした。

ところで何より、
自分のこんな現場を与えてくれる渋谷区の小学校、素晴らしい!

164ヶ月め_子どもたちとの壁画制作

2024 年 11 月 11 日 月曜日


今日は2011年3月11日から4,994日
713週3日
13年8ヶ月

渋谷区の自分が暮らしているのとは別エリアの小学校からのオファーを受け、
四年生の「街の落書き消しからウォールアートを制作するチーム」17名との壁画制作を行いました。

文科省が進める探求学習のあり方を、渋谷区では日本でも先進的に取り入れ「シブヤ未来科」という名前で、本年度からは区立の小中学校で年150時間、基本午後の授業は「子どもたちが学びたいと思うことを自主的に探求する」探求学習の時間に充てています。

今回の壁画制作もその時間を使って、自分が暮らすエリアで先進事例を創ってきた自分が指名されたということです。
とみがやモデル > https://yakuin-records.com/amigos/?p=15266

もともとこうした多くの人の(子どもたちの)手を重ねて壁画を制作するアイデアは、東日本大震災発災後の被災地を巡る中で、震災からの復旧が進みインフラ整備が行われた始めた頃、発災から5年くらい経ったあたりで、今後必要とされるものを考えた場合、「子どもたちの存在を可視化でき、子どもたちの安全担保のための大人の目が届いているシンボル」としての壁画として考えました。

主役は街で暮らす人。子どもたちは人に対する想像力を働かせながらも、今の自分が気持ち良いと思える絵の具の表現をする。子どもたちがなんども塗り重ねてゆくことで、絵から意味を抜き去り、ただ美しいものとしての壁が出来る。
もし落書きされたり自然の力で色褪せたとしても、また上から子どもたちが描けば良いという、サスティナブルな発想も盛り込んでいます。

しかし、こうしたアイデアをボクが自治体や地域に売り込むことはせず、そこで暮らす人たちの合意形成の元、自分に地域づくりの課題解決のオファーがあった際、ひとつのアイデアとして提案する。そんなプロセスを大切に考えています。

ただ、待っていてもそうした話は来ないので、コミュニケーションの扉を開けつつフィールドワークを重ねるような活動をしている今です。

今回の4年生とのプロジェクトは、これまで自分が大切にしてきたプロセスの取り方とは違い、ある程度子どもたちの活動が進んだ状況に呼び込まれたので、これまでに無い難しさがありました。
(これまで簡単だったことはひとつも無いのだが、)

今回、子どもたちとは4度のセッションを行ったのだけど、その初回、顔合わせから簡単なワークショップを行うところで、子どもたちの様子が、いつも自分とセッションをしている地元エリアの子どもたちと違うなと。

みんなすごくクレバーなんだが、過度に失敗を恐れている印象。
もしくは、正解を求めることにエネルギーをかけているのかなと。
自分からの投げかけに対して、それは紙になんの意味もない一本の線を描くだけのことなんだけど、
少なからず子が線を描いては消しゴムで消して、何か正解を求めようと振る舞う。結果着彩まで進めた絵は、どれもその人らしさがシンプルに現れた愛しいもので、
この「その人らしさ」を確認し、足場とすることで「人がハッピーになる表現」が出来る。
ということなんだが。

自分のセッションは、紙の上での失敗はウエルカム。 

しかし、失敗だと思う事に発見あるよね。
失敗が思いがけない自分に出会わせてくれるよね。
思いがけない自分、それは実はホントの自分である事が多くて、
その自分が気持ち良いと思えることやってみよー!
そんな気持ち良い自分がホントに学びたいことって何?
それを仲間の数だけ集めて、その時その時で必要とされる事に合わせて編集して、
関わるみんなのマックスの力で形にしてみよう!
ということ。

ちょっと萎縮しちゃっているように見える子どもたちと出会い、
あらためて探究学習について考えてみると。
まず、
探求学習のことを頭の良い人が先回りしてパワポに分かりやすく詳細にまとめたものを見ると、
これは学校の現場に要らぬ負荷を与えてしまのだろうなと。
観念的にはとても正解でとてもパラダイスな内容なんだけど、
学校の現場のリアリズムに対する想像力が追いついていない印象。
現場のリアリズムって、ほんとに熱心に取り組んでくれている先生や俺みたいなアブナイおじさんが、
子どもたち1人ひとりとの地道にミュニケーションを重ねる先で、
ポタッと「ひとしずく」搾り出されるようなもの。
そしてその「ひとしずく」に気がつくかどうか。
トゥルンとモチモチ口当たりの良い皮は作れても、
餡の素材買い出しからレシピ構築、適切な調理、ガスや水道のインフラ整備のようなことなどなど、
ほんと現場の地道なそれこそ探求とスキルアップが必要になってくる。ただ、それをやり切ることで、
子どものたちは子どもたちの数だけ「しずく」を搾り出し、
大人では思いつかぬ方に向かって飛び散り、
美しい壁画になるんよ。

探究学習シブヤ未来科の落書き消しチーム17名、4年生1人ひとりの気持ち良い色全部絞り出せたんじゃないかなと。
子どもたちが去ったあと1人で片付けしてると、街の人から「ありがとう」って何度も声をかけられた。

4年生、やったね!

子どもたちの学びと誇り、街の人たちの「ありがとう」と街を歩く安心が、大きなお金をかけることなく達成できて、サイコーだぜ。

何より、お互いの食い違いに切れる事なくコミュニケート続けてくれた先生方、
まじでリスペクトです!
子どもたちの善き未来には、愚直なコミュニケートの積み重ねも必要。

直島セイラーズクラブでのワークショップ

2024 年 11 月 11 日 月曜日


瀬戸内の直島で子どもたちと3回のアートセッションを行いました。

今年10月8日と9日の二日間で、
昨年4月に続いて直島の凄すぎる放課後児童クラブ”直島セイラーズクラブ“をベースに、
今回は直島小学校6年生のクラスでもセッション。

昨年の開催は『アメリカとイギリスの慈善活動家たちが日本各地の文化に触れる旅を楽しむ』『その行程の中には震災被害に遭った福島と神戸、そしてアートの島として海外でも有名な直島が組み込まれていて、それぞれの地域や子どもたちの未来に対する投資を行う』というツアーに組み込まれたひとつのセッションとして、セイラーズクラブを紹介されました。

日本での先進的な事例となった昨年の様子> https://yakuin-records.com/amigos/?p=15700

今年は、去年の試みを楽しんでくれたセイラーズクラブを運営するみなさんが、運営費をかき集めて実現してくれるアートセッション。

自分は昨年の思い切り振り切ることが出来たセッションの振り返りと、それでもやり切れていなかったであろうことの確認も含め、お話しを頂いた瞬間に「行くよ!」と。

結果「行ってよかった〜!」でした。


1年半ぶりのセイラーズクラブ。
「ひさしぶり〜!」とドアを開けて入ると、当然放課後の子どもたちがいるのだけど、
その子どもたちの雰囲気が去年と違っているのが一瞬で感じられました。

その変化はもちろんポジティブなもので、それを言葉にするのはちょっと難しいのだけど、
あえて言えば「1人ひとりの個性が立って感じられた」ということかなと。


昨年出会った当初の子どもたちは、1学年30名前後の規模の学校と学童に通う「直島小学校の子どもたち」という属性を強く感じ、さらに1人ひとり割り振られたようなキャラ設定があるように思えたんだよね。

それがセッションを重ねる中で徐々に溶けてゆき、1人ひとりの個性が滲み出るようになり、一部の子どもたちは個性が際立って感じられるようになった。

ただまあ「一部」なわけで、ちょっと後ろ髪引かれるような気持ちで直島を後にしたんだった。


それから1年半後、自分の懸念を払拭するような子どもたちの姿に出会えた。

それは、去年自分がここにこれて良かったと思えた以上に、
その後この場所のスタッフの皆さんが子どもたちに気持ちよく接し続けてくれたってことだよなと。

これと同様の変化は、2017年から2021年に福島県奥会津エリアの柳津の子どもたちとのセッションで経験したことがあります。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15157 ←ローカルでの子どもたちのあり方に、それを見守る大人の振る舞いがどれだけ重要か気づけるはずなので、ぜひチェックしてみてください。

柳津での子どもたちの変化が4年間の間にあったことに対して、
(自分は途中経過をちゃんと見れていないのだが、、)
直島では1年半の間で劇的な変化を感じられた。

それはこの場所が、子どもたちのお母さんたちが問題意識を持って自主的に行われているってことなんだろう。

そもそもこの立派な施設は、お母さんたちの希望が形になったもので、
その建設から運営の財源もお母さんたちが働きかけて助成を受けたものだってこと。

その「自主的運営」というある種危機感と背中合わせのマインドが、
「子どもたち」という目的からブレる事なく運営する力になっているんだろう。

放課後児童クラブであるセイラーズクラブは、2023年に運営が始まったのだけど、
元々は「直島キッズポート」という子育て支援団体の運営を2020年に始めたことから、
子育て支援の発想が地続きで繋がり、地域の必然に応える形で生まれたもの。

キッズポートの代表理事を務めキレッキレの小学6年生女子のお母さんでもある江幡さんは、
コロナ禍で生活が変わったことと、元々の問題意識が噛み合ったことで、
仲間を募りこの事業を始めたとのこと。

江幡さんはじめ移住者の多い直島では、問題意識の高い方が多いはずだけど、
それを取りまとめるための「話を聞く能力」が高いんだろう。

それは日本各地に散らばって存在する、自分がリスペクトする地域作りのキーパーソンが持つ能力。

ただそうした1人ひとりはとても強い我を持つ人でもあるのが面白いから、自分は惹かれるんだろなと。

目的がなんであるのかの適切な判断の元、強い我を振り回す事なく人の話を聞き、課題解決の道を切り開く。

自分のような美意識を持って破壊的な現場作りをする者を呼びつけてくれる人は、
まあみんなそういう人だなあ〜と、今回直島で実感。

で、江幡さんに限らず、この現場に立つ人たちはみな、
「それやっちゃダメ!」では無く、
「それよりこっちの方が面白くない?」という問いかけの元、子どもたちと接している。
(これに関しては、昨年のセッションが活かされていたら嬉しいぜ)

小さなコミュニティの中でのキャラを演じ、だんだんと「失敗しない」ことが目的になってしまうのは、
大人も一緒ではないかと思うのだけど、

そうした生きづらさを自ら変えてゆく手段としても、
子どもたちが気持ちよく生きられる環境作りを目的に活動する。
ということは、これからの社会作りの中でマストな行いです。

それを関わるみんなの日常として続けてきたのがこの場所で、
そんな大人たちの奮闘が、見事に子どもたちの表情と指先から感じられた2024年10月

直島で唯一の小学校、直島小学校6年生とのセッションでも、
学校とセイラーズクラブとの風通しの良い連携が感じられて、
これは子どもたちも親御さんも安心だろうな〜と。

6年生を前に訳わからぬこと語り倒した後、
子どもたちの直島自慢をシンプルな線と色で表現してもらったら、
さすが瀬戸内の子どもたち、シャバシャバに美しい海の青色を心に纏っているんだね〜。

もしくは、
「部屋にいることが楽しい」とか、
「読書が楽しい」とか、
大人が勝手に思い描く直島の魅力とは別の場所で、
子どもたちは生きている。

数名の男子くんたちが笑顔で語ってくれた「直島の楽しかった思い出」が、
「仲間と乱闘したこと!」だって。

いいな〜!子どもたち。

そして、子どもたちの表現はみんな美しかった。


その後のセイラーズクラブでのセッションでは、
去年やり残したことを少人数でチャレンジ出来て、
ある子どもから「楽しい」という言葉を聞くことが出来て、ちょっとホッとした。

直島に暮らしていても、実はアートに接続するような機会は少ないという子どもたち。
(港に置かれた草間彌生さんのカボチャは日常の風景だけどね)

でも、本来とても気持ちの良い場所で生きている子どもたち。

この「きもちい」や「たのしい」は、
もしかして島の外に出て暮らすことになった場合でも、生きる力になるんよ。

ということを、この場所のスタッフのみなさんと共有して行うことの出来たセッション。

もちろんやり残したことはあるはずなので、
必要と思うことがあれば遠慮なく伝えてくれよ〜!

キッズポートのアイコンは「灯台」
いつかセイラーとして社会に漕ぎ出す子どもたちにとって必要な灯台。


2024
1008
1010
PEACE!!

これは、
顔のパーツの特徴を1つひとつ言葉で伝えて、モンタージュ的に仕上げるセッションの作品。

 

163ヶ月め_能登へ

2024 年 10 月 19 日 土曜日


2024年10月11日は
2011年3月11日から
4,963日
709週
13年7ヶ月
163回目の11日です。

この日は富山の美術館のセレモニーに出席。
次の日、10月12日は輪島の門前町鹿磯を目指しました。


富山から朝一の新幹線で20分ちょっとで金沢まで。
7時50分穴水行きのバスで移動。
いや、
ダイヤが変更されこの時間のバスは無し??

震災と豪雨被害の混乱はこんな場所にも現れて見えます。

しょうがない、1時間後の特急で七尾まで、
そこからさらに穴水まで。

途中途中でブルーシートを被った家が見られ、
まだまだ「あの日から9ヶ月ちょっとの能登」です。

乗り換えの七尾は、3月11日に行った時から比べると、
息を潜めた感じが若干和らいだ印象もありますが、
地震で歪んだ街並みは変わらずでした。

ただ三月は土砂降りだったのに対し、
この日は気持ちの良い秋晴れ。

能登に疎い自分にとっては、この天候の違いを体験出来たのは大きい。

そしてあらためての能登は美しい場所だと思うばかりの風景を抜けて穴水へ。

震災後の東北でのフィールドワークでも考えた「人はなぜここで生きようとしたのか?」

それはすれ違う風景の中に大きな答えが詰まっていました。

併せて、東北の太平洋沿岸で津波がさらってしまった風景を想像もした、
やはり能登に来てよかったと思える鉄道移動。
(もちろん能登でも津波被害は甚大であることを認識した上でね)

ボランティアは無理という人でも、能登こんな風景に出会ったらいいと思います。


穴水から輪島子門前町鹿磯までは能登半島を横断する形で20km弱。

東北のフィールドワークでは歩いたり走ったりして向かった距離だけど、
今回はバスで、
いや、バスの本数少ないなあ〜、、

しょうがないタクシーで、
門前町の核となる總持寺まで30分ほど6000円で向かいました。


途中、所々で道路の補修工事が行われていて、
何ヶ所かは土砂崩れのリスクを感じる風景にも出会いました。
ただこのルートに関しては現在「分断」はされておらず、
スムースに總持寺に到着。

タクシーを降りると寺街には賑やかな民謡が流れていて、
観光で訪れた方の姿も見られ、
その向こうからは復興作業の重機の音が聞こえてきます。

ここから鹿磯までは4~5キロの距離。

通り雨に降られたり、強い日差しに煽られたり、
能登自然の多様性を感じながら歩きます。


能登色彩、もしくは光は、
やはり能登だからこそのものなんだろう。

日本の他のエリアで感じたことの無い独特の美しさがあります。

ああ、これなら「私はここで生きよう」と人間は思うよな。


しかし、その自然は人を苦しめ、大切なものを奪ってゆくものでもある。

自分はこれまで「被災」を切り取った写真をシェアすることをなるべく避けてきました。

それは、元々その土地に暮らす人を知らずに足を運んでいたからで、
「簡単に痛みを分ったような振る舞いをしてはならない」という考えからだったでしょうか。

しかし、今回は昨年能登で出会った愛しき人たちの存在があり、
これまでとは痛みの想像の仕方が違うなと。

能登で誠実に美しく生きる人たちが、
これまで大切にしてきた生活の風景が歪んだまま置かれていることは、
どれだけこころを苦しめることだろうか?そんな想像もしながら歩いていました。


(もっとたくさんの痛ましい写真も撮影しましたが、まずはこの歪み感をシェア)

歪んだ先にはギシッと並べられた仮設住宅。
その前の海は地震による隆起でとても遠くに行ってしまったように見えます。

今後はさらに「復旧」と「復興」と「再生」と「新生」の考えが交差した、
正解のわからぬ議論が多く交わされるでしょう。

ただ「ここは美しい場所だ」と知っている外者の存在も心の片隅に置いて頂き、
建設的な会話を重ねていって頂けたらいいなと思います。

そして目的地、食堂「杣径」に到着。


オーナーで輪島塗の塗師 赤木明登さんのご依頼で、
この店の広告を制作した自分です。

しかし、9月3日のオープンが1週間ほど遅れたり、
開店後すぐに豪雨被害が能登を襲ったりで、
ともかく現場を一度見てから自分の仕事を振り返りたいと考えたこの日です。


ランチは2000円のコースのみ。

だけど、シェフの北崎さんのご飯が2000円は、安い!!


「杣径」のことに関してあらためて言葉を盛ってしまわぬよう、
その時のSNSのポストをそのまま掲載します。

直島まで行ったら能登に行かない理由は無く、美味い昼メシ食って東京に帰ろうと、
輪島の門前町鹿磯の食堂「杣径」へ。

ああ、この空間。
1年3ヶ月前はここでイーウェンさんのトマトの卵炒めをご馳走になったんだ。

そして今日、「杣径」の北崎さんの料理をただただ楽しんでる。

地震に豪雨被害と色々大変。
自分の様な者が思考停止になる風景にも出会う。

しかし、「被災」とは潰れた家屋の写真じゃ無いぜと。

これは東日本で確信したことなんだけど、
自分は何か美しく人の気配を感じるものへの視線を大切にしてゆくのだ。

その視線をさらに確かにしてくれる北崎さんの料理。
肌があうなあ〜

3月に金沢での仮営業の「杣径」で食事をした際、
能登と金沢での水の違いがすごく良く分かった北崎さんの料理。

昨年7月以来の能登での食事は、やっぱ「ああ、能登の水だあ〜」って、
それくらい繊細で、実は大胆。


ああ美味しい。いや楽しい!
こりゃ日本酒呑まないわけいかねーじゃん。


食事を終え外へ。
「家と家の間からキラキラ光ってみえる海が、いいんですよ〜」と語る北崎さんこそ、
この場所でピカピカ光る灯台のようだと思ったよ。

能登、またね!
応援する以上に、愛してます。

以上。

「杣径」は夜の営業も予約を受け付けていて、
いろんな場所から人が駆けつけてくれているみたい。

大震災を目の前に多くの日本人が無力感に襲われ、
なんなら潰されてしまうことはあります。

大震災の復興に対して無力なひとりであっても、
その土地にひとりでも友人を得ることは、
後々その土地や人の大きな力になることは、
自分が東日本で実感してきたことです。


美しきものからちょっと目を転じるだけど、
絶望的な風景が目に入る現状に変わりの無い今。

しかし、美しさを頼りに創り上げるべきものは必ずあって、
それに関して誰もが恐れることなく前に進めばいいし、
もしそれで迷いそうになっても、
たとえば能登には「杣径」が灯台のようにして導いてくれるのだと思いました。

 

今日から2日間群馬の前橋でコーヒーマーケットが開際されます。
ボクは10月20日に能登チャリティ似顔絵自分塗りワークショップを開催します。

1,000の参加費で、自分が似顔絵を描き、色は自分で塗る楽しい企画です。
チャリティのドネーション先は赤木明登さんが手がける
「小さな木地屋さん再生プロジェクト」に充てます。

能登地震と豪雨被害で輪島塗はかなり厳しい現実を突きつけられています。

たくさんの職人が力を出し合い完成させる輪島塗は、
構造的に高齢者の職人さんに守られてきました。

そこに今年の大災害。

重篤な被害に遭われたことで、仕事の継続を諦めてしまう現実があります。

その現実に対し、素早く行動を始めた赤木さんの活動を支援することは、
輪島の小さな灯火をみんなで守るようなことだろうなと。

しかし、この小さな灯火はとてつもなく熱い。

というわけで、
ボクは10月20日に群馬の前橋で輪島の灯台を務めるわけです。

162ヶ月め

2024 年 9 月 11 日 水曜日

今日は2011年3月11日から4,933日
704週5日
13年6ヶ月
162回目の11日です。

福島県の飯舘村のフィールドワークで描いたスケッチで映像を作りました。
映像に添えた曲はハルカストリングを主催するギタリストファルコンの「美しき様々の夢」
歌は盟友 Eri Liao 、スケッチに登場するのは祐香さん

2022年9月に初めて訪れた福島県の飯舘村。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15465

自然エネルギーの発電会社飯舘電力とのアートプロジェクトのため案内された飯舘村では、飯舘電力の千葉さんが熱心に村や自然ネルギー、原発事故の被害についてレクチャーしてくれました、

しかしその情報量の多さ、そもそも被害の重篤さ、未来の想像しづらさに、自分は混沌とした荒野にポンと放り出されたような感じで、なかな自分の言葉が思いつきません。

電力にまつわるマッチョなイメージから脱却し、サスティナビリティと紐づく電気への更新など、飯舘電力としてだけじゃなく、日本の社会のあり方も考える必要がある中、自分は飯舘村や飯舘電力をモチーフとして何を描けばいいのだろうか?

それでもその土地に暮らすだれか1人と親密な関係が構築出来たら、これまで東北の被災地と呼ばれる土地でやってこれたようなこと、自分の言葉で語る作品制作が出来るはずなのですが、あれから10年ちょっとの『帰宅困難区域の解除が進み始めた』というフェーズの飯舘村では、まだ難しいことに思えました。

そこで、誰か自分以外の1人と飯舘を歩くことで、自分1人では得られないことに気がつけるんじゃないかと考え、初めての飯舘村から半年後、2023年3月13日、福島生まれで、震災後志を持って故郷の力になることに尽力してきた祐香さんにお声かけし、飯舘村のフィールドワークにお付き合いして頂きました。

2023年3月ボクは東日本大震災発災から12年の11日まで、東京都内で7回目の開催となる「東日本」と名付けた展覧会を開催していました。


明けて12日に福島市に移動。
祐香さんの活動の拠点のひとつ、食堂ヒトトで福島の仲間と再会。
これから自分が発想し実行することにどんな形でも良いので、ご協力頂けるようお願いしました。

ヒトトは震災以降福島の人に請われて生まれた食堂。

福島生まれの米や野菜を使った料理は、動物性の素材を使わないものですが、ガッツリ力強くとても美味しいです。
そんな店は隣のギャラリーで、お店で使う食材の生産者をピックアップした展覧会を開催していました。

展示に関わるほとんどのものが手作りの展覧会は、展覧会慣れしている自分にとってもとても新鮮なもので、この場所で多くの時間を過ごし、ヒトトに関わる人にとっての福島を心に沈めました。

この日は震災以降長く続けられているイベント、ASYLUM 2023 in Fukushimaが福島市郊外の正眼寺で開催されているとのこと、自分の音楽関係の仲間も関わるイベントに初めて参加することが出来ました。

震災と原発事故発生から今に至るまで、悲しみや怒りの炎が燃え続けている現場。
そんな感情以上に12年の憤りのようなものをより感じた時間。

突然友人のとんちピクルスにステージに上げられたので、しょうがねえ、悲しい唄をひとつうたいましたよ。

あくる日の朝、祐香さんにピックアップしていただき飯舘村へ。

お互いの近況を確認しながら、たまにパラつく雨の福島の中通りから山間の道を浜通り方面、50分ほどで祐香さんにとっては初めての飯舘村へ到着。

特別目標も決めず村内をめぐり、気になる風景があれば写真を撮る。
それだけのことだけど、誰とどんな会話をしているかで、風景は違って見えます。


祐香さんは目の前の風景の何を見ているのか?
そんな興味は自分に新たな視線を与えてくれるのですが、実際彼女が何を見ているのかは想像するばかりで、言葉で訪ねるようなことはしないでおきました。


そもそも新型コロナウイルスが5類に移行される2ヶ月前で、マスクをした顔の表情がわからないのです。
スケッチは後日、このフィールドワークのイメージから想像し、顔を描いています。


彼女との出会いは2009年だったでしょうか、
栃木の那須のSHOZO COFFEE が運営するアパレルショップ、04STORE のスタッフとして働かれている時でした。

SHOZO の美意識に惹かれていた自分は,04STOREで1枚のTシャツを買いました。その時対応してくれたスタッフのお姉さんが実に丁寧で、アパレルショップが苦手な自分が、そこにいることに居心地の良さを感じてる。買おうと思って手渡したTシャツを、またまた実に丁寧に畳んで、丁寧にラッピングし紐をかけて、クルッと回して、とんでもなく大切な何かを差し出すようにボクに手渡してくれた。経済的な効率とは縁遠い丁寧な所作。その一部始終が店の窓から溢れる西日の中でキラキラ輝いて見えて、自分はここで何を買ったんだろうかって、ぼーっと考えちゃってね。
そのスタッフのお姉さんが祐香さんで、ボクは彼女に恋したようのこと書いているけど、いやいや、なんだろ…

それはきっと、自分は自分の仕事にそこまで丁寧に向き合えているのか?という自問なんだろうね。
(ボクは男女問わず働いて綺麗に見える人全てが年上の先輩に思う習性があるしね)

SHOZOのオーナー、菊池省三さんと接した時もそうだけど、今自分が描いている絵は、はたしてこの人が働いている現場に飾れる価値のあるものなのか?みたいなことを自問し、自分の描く絵を見つめ直し更新させなくちゃと思った。それを実現させるためになのか「このTシャツは今後この店だけで買おう」と心に誓ったりもしたのです。

そのTシャツは湘南の葉山で作られ、代官山でも買えるのだけど、家から200km離れたこの店で彼女から買うことに意味があるんだろうってね。


そして2年後に東日本大震災が起きて、原発事故が起きて、SHOZOのある栃木も、自分が生まれた群馬も、それぞれ被害を被り、まず自分が東京から向かったのがSHOZO。
そこを足がかりに福島へ、さらに北へとボランティアやフィールドワークのエリアを広げていったのですが、原発事故に対してはアプローチの糸口がどうしても見つからなくてね。ネットを除けば持論の石礫を投げ合うような風景ばかりで、そこにリアリズムを感じられず。自分はそうした先回りした主張に振り回されることなく、自分1人のサイズで受け止め語れることを手にしたいなと。福島ではまず誰か1人との確かな関係性を得ることを優先させました。

ところで、ある日SHOZOから祐香さんの姿が見えなくなって、どうしたんだろうかと。


2016年、ボクはSHOZOから「那須の花を描いて展覧会を開催してくれ」とのオファーをもらい、
立春から初夏にかけて何度かSHOZOに滞在していました。

そこで今は故郷の福島に戻っているという祐香さんと再会。

そのそもあなたは福島県出身の人だったのですね。
そんな今更な会話から、今彼女は震災以降深刻な状況に置かれた福島の力になりたいと願い、福島に戻る決断をしたんだと教えてくれました。

「あの日のTシャツ」に感動した話をすると「いやいや、あれはただ緊張していただけですよ」と謙遜する彼女でしたが、ボクはあの日Tシャツを丁寧に畳んで渡してくれた人ごしに福島を見たらいいのだろうと直感。福島での再会を約束しました。

その年の夏に祐香さんからメッセージが届きます。

今度福島市に出来る食堂ヒトトのオープニングスタッフを務めることになったとのこと。

吉祥寺でマクロビオテック・ヴィーガンの店として有名だったヒトトが閉店するということで、店主であり日本の古来種の野菜の種から育てた野菜を大切に考える奥津さんに対し、「福島を自分たちが望む姿に育てて行きたい」と望む福島市のグループがオファーをし、福島に誘致。
その店長候補として白羽の矢が向けられたのが彼女だということです。

原発事故以降、食や健康に不安を感じる人が少なからずあったであろう「あの日から5年の福島」で、ボクは祐香さんの周りで起きていることは、とても真っ当な発想だろうと思いました。いや、もしかしたら日本で最も新鮮な何かが福島で起きようとしている?

実際、祐香さんから紹介される福島のコミュニティの人たちの顔つきがいいんだよね〜。
そして、震災と原発事故から5年間、考えて、考えて、考え続けてきた人たちの発想は、やはり東京より未来にあるように思えたのです。


その年、2016年の11月末、ボクは雑誌「暮しの手帖」で『5年後の被災地を巡る取材旅』に出ます。

2011年3月11日から親交を深めた宮城県気仙沼唐桑を目指す途中、福島市で立ち上がったばかりの食堂ヒトトに寄りました。その頃からボクは福島に足繁く通うになり、徐々に増えていった仲間と「最近どう?」なんて会話を交わし、1人ひとりの実感としての福島を知るようになります。


2016年、そういえば3月に初めて会津に行ったの年でもあります。

そして2017年、ついにこの飯舘電力のプロジェクトも進めてくれている、福島県立博物館の学芸員チームとの知り合い、奥会津エリアの子どもたちとのアートプロジェクトも始まります。

そんなこんなの展開があっても未だ原発事故を肌感覚で掴むには至らず、これに関してはともかく自分のペースでじっくり確かに受け止め、自分の言葉で語れるようにしてゆかねばと。
いや、こうした事が言語化出来たことだけでも、ここまでの人との繋がりは有り難たいし、自分らしく確かな行いである実感は手にできたはずです。


2016年からもう8年が経った今、祐香さんもボクもそれぞれ色々あったね〜。

彼女はヒトト立ち上げからしばらくして、ヒトトに関連した都内での仕事に就くも、また福島に戻り自身の焼き菓子ブランド「コケス」を立ち上げます。それは彼女と出会ったき生産者さんの素材を作った「The食い物」と言えちゃうくらい美味しく豊かな食べ物だとボクは思います。そして、福島市を代表する果樹園”あんざい果樹園”を手伝ったり、彼女なりの福島への貢献を実践している。


飯舘村でのフィールドワークの帰り道は土砂降りの雨。

だよね、ちょっと来たくらいで分かった顔すんじゃないぞ!そんな雨だろう。

福島市に着き、飯舘電力本社へ。

前回のフィールドワークでお世話になった千葉さんに祐香さんを紹介する。

そして、なぜ自然エネルギーの電力会社を立ち上げたか、から今ある課題までを一気に話してくれた。

その多くが祐香さんの知らないことだった。

しかし飯舘電力も、福島市で実り始めている街のコミュニティと接続しておらず、千葉さんと祐香さんの間にあるもの、そして無いものを考えることが、自分の仕事になりそうだと思いました。


ひとつ浮かんだのは、
大手でも飯舘電力でも、もしその現場に「1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれるような人」がいたら、自分が使う電気はどんな色に見えるだろうか?
そんなこと。

その日「おつかれさま〜」と蕎麦屋で蕎麦を食べていると、祐香さんが婚約したことを話してくれた。

やったね!1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれた人。

そしてボクの福島での物語は、ここからさらに深みを増し、
サスティナビリティのイメージはさらに淡いピンクに染まる。

2023
0313
PEACE!!

 

 

161ヶ月め

2024 年 8 月 11 日 日曜日

今日は2011日3月11日から
4,902日
700週2日
13年5ヶ月後
161回めの11日です。

8月8日に日向灘を震源とする最大震度6弱の地震が発生しました。

9月に宮崎県で展覧会やワークショップを開際する話をしていたところで、
現地の人たちのことをとても心配に思っています。

その次の日には、神奈川県内陸部を震源とする震度5弱の地震も発生。

その時は外で家族と食事をしていた時だったのですが、
すぐ情報を収集し、お店のスタッフや周りのお客さんと「落ち着こう」と声掛けあって、

そうした振る舞いは東日本大震災の経験があってこそなわけで、
自然災害を避けるのは難しいことですが、
その時どう振る舞うべきかは、日常のあらゆる場面で考えておかなくちゃと、
家族と確認しました。

掲載した動画はハルカストリングスの「夢は止み 過ぎゆく 春のかけら」
自分が初めて撮影&編集をしたミュージックビデオです。
ハルカストリングス instagram

ハルカストリングは、昨年アルバムとデジタル配信シングルのカバーアートを担当。
福島県飯舘村の風景をオマージュしたアートワークは、
震災以降自分が作ってきたものが集約された仕事になったはずです。

ハルカストリングのヴォーカルを担当するEri Liaoさんは、
2017年の5月の夜に突然「アルバムジャケットのアートワークをやってくれ」とメールをくれた人。

台湾の原住民タイヤル族にルーツを持ち、10歳より日本で暮らすようになり、
東京大学からアメリカのコロンビア大学と学び、その際JAZZを歌うようになり、
日本に戻ってからは、台湾、中国、沖縄、日本などなどのルーツミュージックも取り上げ、
とても大きなタイム感で歌人とです。

そんな人の歌を表現するためにはどうしたら良いのか、しばらく考え込んで、
和紙に着彩し、カッターでフリーハンドで切って、コラージュして、
音楽そのものようなものを作りました。

自分の創作は、自分の「描きたい」より、描く必然に出会うことで生まれるなあと。

大震災というとてつもなくネガティブなことと向き合い、ささやかなものを作り続けた先で、
ネガティブな状況の中にわずかでもポジティブなものを見つける目が育ったのかなと。

それが、人との出会いの中でみつかる「描くべき」テーマと掛け合わされ、
さらに自分が生きてきた時間と掛け合わされ、思いがけず何か美しきものに昇華するんだろう。

今回のミュージックビデオも、そんな必然を直感出来た歌に出会えたことで、
これまで作ったこと無いけど、これは自分が作るべきだと直感し制作した映像です。

ほんと自分は多くの好き人に出会い、多くのインスピレーションを頂き、
それをイラストレーションや絵画というもの昇華してこれたけど、
これからはさらに、手段はなんでも良く、ただ何か美しきものを創ってゆくんだなと。

生きてる限り突然の自然災害で大切なものを失う可能性があるからこそ、
もしくは、世界にはポジティブなことが全く見つけられそうも無い事態が進行しているからこそ、
日々何を大切に生きてゆくべきか考え続け、
ささやかでもいいので、何か美しきものを創ってゆこうと思うのです。