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160ヶ月め

2024 年 7 月 13 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,871日
695週6日
13年4ヶ月
160回目の11日です。

あれ?あの日からまだ160ヶ月しか経ってないんだと思った昨日は、
(「今日は」と綴りつつ、今は12日です、、)
朝4時半から湘南藤沢で撮影。

自分がとても大切に思っている音楽ユニットのミュージックビデオを、
「あの日」から経験してきたこと結集させたら、何か良いものが作れるんじゃないかとという確信の元、
ともかく撮影することにしました。

実際、映像の構図が一瞬で決まる感じは、これまで自分が出会ってきたものが教えてくれるなあ〜と。
この作業はAIで生成出来ないものだと思います。

あの日から160ヶ月後の自分は、本格的に自分の東日本での経験を社会と共有するフェーズに、
やっと、ほんとやっと、なってきたんだろうなと思いました。

うん、焦って安いこと、出来もしないことやらずに来て良かった。

撮影が終わったら藤沢から小田急線で渋谷区地元へ。


息子卒業小学校の今年の1年生のタブレット学習の最初の一歩で、
クラスの先生ひとりではての回らない「タブレットのオペレーション」を、
ご近所の大学生に来てもらってサポートしてもらう作戦のコーディネート。

学校運営協議会の会長という立場で、学校をサポートする役割として去年から提案。

この仕事、きっと自分がやっていることの中で最上位で有意義な取り組みなんじゃないかと。

半年後にはオペレーション方法が変わったいる確率の高いITガジェット。
大切なことはともかく触って楽しみこと。

なので「どこを押して立ち上げてどこにPW入れる」みたいなことを「学ぶ」が目的ではなくて、
ともかく使って学びの道具にしちゃおう!なわけです。

で、
先生のレクチャーを秒で理解し、「わからない」って子に素早くアプローチ出来る大学生たち。

未来の子どもたちの学びのスタートライン、明快に感じられる、朗らかなITの時間でした。


の直後に「学校運営協議会」
「コミュニティースクール」と訳され語られる、
学校と地域とで連携を図り、学校や教員だけでは厳しくなっている学校運営を助け、
学校を地域のハブになると共に、地域で子どもたちを育てるようなシステム。

これは全国的に進められているシステムですが、
その運営には地域差があり、
東京都渋谷区が日本でもかなり先進的に進めている中、
自分が長を務めるこの学校は、さらに活発にこのシステムを活用しています。

この日は夏休み明けのタイミングで、
夏休みで生活リズムが変わった子どもたちが、緩やかに朗らかに学校生活に戻れるよう、
学校を「楽しい居場所」として開放するという企画「ワックワックとみがや」の企画会議。

PTAから子どもたちが校庭でびしょ濡れになって遊べる、水風船や水鉄砲のバトル企画が浮上。
学校からは昨年に続き「夜の学校探検」が、今年は上級生を主催者として呼び込んで開催するかもと。
その他、学校の授業では考えられないコンテンツを、いい大人がみんなで笑顔で考え、
その適切なオペレーションを導き出したりしているわけです。

こうしたことこそ、震災以降の東日本で、ていうか、日本で必要とされていることだろうと確信し、
まずは息子卒業の小学校に居残って、学びと実践を続け、
実は、こうした活動がイラストレーターとしての仕事にも、ものすごくプラスな力を与えてくれているんよ。


で、夜は代官山蔦屋書店へ。
輪島の塗師、赤木明登さんがトークショーをされているとのこと。

赤木さんやその周りの人と出会ってちょうど1年。

そして、能登半島地震から半年ちょっとの今、
ぜひ会っておきたと思い、駆けつけました。

ともかく!
能登半島地震に真正面から向き合い、
輪島塗りの灯を消してなるものかと奔走する姿を魅せて下さる赤木さん。

そんなに頑張ったら死んでしまうのでは?と懸念さえしてしまう、その原動力は、
果てしない知への欲求なんだなあ〜と。

語らえるひと言ひと言が、その瞬間自分の血肉なるような感覚。

「人のため」と思われることも、結果「自分のため」に帰結し、
しかし、それは次なる「人」にフォーカスしてゆく。

伝統工芸の方ではあるけれど、
イラストレーターとして生きる自分が絶えず視野に入れておくべき背中が、
やっぱデカく見えたんよ。。

で、
幸せすぎた能登との出会いの中でも、とても確かな手応えの記憶を残してくれた、
赤木明登さんの美意識に惹かれ、赤木明登さん専属の編集者になるべく上海から能登にやってきた
イーウェンさんとの再会は、うれしかったなあ〜!

彼女との会話で確信出来たのは、
「人は美意識で生きていいんだ」
そんなこと。

能登は今だにとても大変な状況です。

ただ、そこに希望となる人が確かにいてくれる。

自分はそうした人の力になれる仕事を、
日々絶えず考えて生きる。

これは2011年3月11日から、何ら変わらず続けていることなんだけど、
美しき1人ひとりとの出会いは、自分に「自分らしさ」を教えてくれるし、
続けてきたことに確信を与えてくれる。

2024年7月7日都知事選用

2024 年 6 月 29 日 土曜日

東京都民のみなさまへ。
7月7日用のポスター作りましたよ〜
グーグルドライブにA4データー入れときましたので、
使い道ある方はご利用くださいませ。
グーグルドライブにA4データー入れときましたので、
使い道ある方はご利用くださいませ。
https://drive.google.com/file/d/1q4IT5tXxkouPZT8424jYKHmiuwP5MLfx/view?usp=sharing

こちらは1×1のインスタ用。
https://drive.google.com/file/d/1ZaBB2Tcoc90T9dsAd6xZmbpX0nFRpY0C/view?usp=sharing

昨日は近所のワインバーで普段会話にしずらい政治の話をしてみようという、オープンマイクな集まり。

自分は選挙権を得た時から貫き通してきた「筋金入りの無党派層」として、特定の候補者を推す発言はせず、憲法で保証されている「しあわせ」になる権利から話を始めました。

幸いにも地域の小学校から「福祉」に関するテーマを投げてもらったり、フリーランスの働き方の課題についての学びもあったので、渋谷区イケ散らかしてるエリアで、楽しい会話の運びがが出来たはずです。

政治は当たり前に生活や仕事と接続しているわけで、そうしたことに対して声の出しかた忘れちゃうと、息苦しくなっちゃうよ〜!という着地だったかな。

以下ひっかかりワード

「政治的発言」の「的」とはなんぞや?

よく耳にする「変えなきゃ」は何を変える?

仮に自分が都知事に立候補したとしたら公約は何?
・都内の寿司屋の寿司は江戸前で獲れた海産物に限るという条例を制定
・生産量日本一のウドを全ての家庭で栽培し、有事に備える。
・東京のヒートアイランド現象を嘆く報道をするマスコミ各社の湾岸部に建てられたビルを解体し、東京湾の海風を取り戻し、ヒートアイランド現象を緩和させる。

ユーモアが失われる社会は嫌だ!ってことですね。

159ヶ月め

2024 年 6 月 15 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,841日
691週と4日
13年3ヶ月
159回めの11日です。

今日はといいつつ、
数日すぎての投稿です。

ここのところずっとミーティングが続いています。

2018年あたりから仕事のあり方が変わったのだけど、
父が亡くなったことや、イラストレーター協会の大変な仕事も重なり、
見失っていたことはないだろうかなんて、
2ヶ月間くらいぼ〜っと過ごす中、次にやるべきことがちょっと見えてきた。

そんなタイミングで、福島県のこと、群馬県のこと、秋田のこと、直島のこと、
もしくは今暮らしている渋谷区代々木エリアのことど、
ともかく人と話し、向かうべき方向を明快にする作業が続いています。

別々の土地での別々のアクションは、
実は自分の中ではガッチリつながっていて、
そのつながりをそれぞれの土地の方と共有してゆけたらいいのだろうなと。

引き続き会話、会話、会話です。

158ヶ月め

2024 年 5 月 11 日 土曜日


今日は2011年3月11日から4,810日
687週1日
13年2ヶ月
158回目の11日です。

4月21~22日は福島県飯舘村フィールドワーク。

一昨年の秋に始まったプロジェクトとして6回目のフィールドワークは、
3月17~18日に続いて今年2度目。

今回初めて福島県立博物館の学芸員チームと村内で一泊し、
村内在住者と多くを語り合う時を得ました。


6度目のフィールドワークで初めて、
「美しい春の風景だな〜」なんて心より思えた自分は、
原発事故以前の飯舘村も、原発事故から10年の飯舘村も知りません。

なのでしょうがない、
今見えるものがすべてであり、今見えるものは当たり前では無い。
そんな心持ちで風景に向き合います。

ということを飯館村だからではなく、
自分の場合どんな場所でもやっているんだろう。

そんな飯舘村に対して無責任な存在の自分だからこそ出来る表現があるのか。
それは誰かの助けになったり、生きる力になるのか。

その答えは先回りすることなく、
やはり「見る」「聞く」「感じる」といったことを優先ですね。


菅野宗夫さんはNPO法人ふくしま再生の会の副理事長を務める飯舘村の農家。

原発事故前は畜産も行うも、現在は農業に専従。
自宅敷地に地域再生のために村に入る学生などのベース基地を設けています。

奥様は「この春震災後年初めて集落で子供達の声を聞いた」と。

それは何かの企画で村外から集まった人たちの子どもだったけど、
それでも嬉しかった。

しかし、元々村で生まれた子どもは、もう高校生だったり成人になったりしているから、
もうここを故郷なんて思う記憶が無いよ。と…


でも、どうなんだろなあ〜〜、

自分は群馬県の長閑な養蚕地帯で生まれて、
5歳、6歳くらいまで、今振り返れば実に美しい人里の景色抱かれ育ちました。
が、高度経済成長が行き着いたあたりで、一気にその美しい風景が失われ、
いつも遊んでいた川から腐臭が漂うになった。

その喪失感と、忘れられない美しい記憶とで、
今こうした飯舘村を美しいと思って見ているし、
そうした風景が復活することを願って活動している。

だから、未就学で飯舘村を後にした子どもにだって、
飯舘に戻ってくるモチベーションはあるはず。

そんな話をしました。

そして、
これは飯舘の方に叱られてしまうかもしれませんが、
戦禍や原爆で失われたことも、高度経済成長やバブルで失われたことも、
実は飯舘と地続きのことであり、
だから自分はここまでやって来たんだろうと思ったのです。

ところで飯舘の民謡ってありますか?と質問。

宗夫さんが、お父さんが唄ってる動画があるはずだと調べてくれました。

2012年6月、飯舘村の田植えの後のサナブリ。菅野のおじいさん89歳が新 相馬節を披露しました。

157ヶ月め

2024 年 4 月 10 日 水曜日


今日は2011年3月11日から4,780日
682週6日
13年1ヶ月
157回めの11日です。

アップした絵は昨年7月に能登里山で見た昼顔の花。

能登里山の緑は、関東の緑とはちょっと違って見えて、
濃くも優しい緑、そんな印象でした。

この日は雨がパラパラ振ったりの曇り空でもあったので、
余計緑の優しがが印象に残ったように思います。

が、まだまだ描ききれないなあ〜、能登の緑。

この日はその後輪島塗の塗師の赤木明登さんの工房を尋ね、
その仕事の奥深さに触れたこともあり、
自分の絵の「まだまださ」に呆れてしまったのもありますね。

その時のことはこちら↓「まどをあけて」をごらんください。
https://www.daihatsu.co.jp/lyu_action/book/no07/madowoakete07/

そんな能登が大きな地震で苦しんでいる今、
赤木さんは輪島塗を絶やさぬようにと、木地屋さんやご自身の著作の編集室や、
昨年大きな感動を頂いたオーベルジュ「杣道」の再建に向けて活躍されています。

今年の3月11日は、そんな赤木さんが工房を一時避難させている金沢へ。
そして夜は、やはり仮店舗で営業中の「杣道」で食事。


自分が今までいただいてきた食事の中でも、最高に肌の合うごはんを作らてれいる北崎さん、
そしてホールを担当されているこいとさんの健在を確認。

ともかく美味しくて豊かな時間で、
食後3人で話したことは「aikoのライブ、最高でしたよ〜!」みたいな他愛もないものだったけど、
まずは、ほんとこうして会えたことが嬉しかった。

で、次は能登で会いましょうと約束し、
次の日は土砂降り。

無理なく電車で行けるところまで行ってみようと、能登七尾へ。

七尾も変わらず土砂降りで、
輪島湾を見て、靴をずぶ濡らせて、美味しいうどんを食って帰ってきました。

視線を転じれば大変な風景が目に飛び込んできますが、
今自分に出来ることは少なく、無力を感じるばかり。

ただ、今後自分がやるべきことは確認出来たかなと。
少なくとも能登の緑を描けるようにはなりたいです。

そして次の週は宮城の塩釜>気仙沼~唐桑>福島~飯舘>会津~喜多方と巡り

13年前の春から、1人、1人と知り合ってきた方とお会いし、
お互いの健在を確認し、喪失を慰め合い、また元気で会おうと約束し、
津波被害から新たな再建を図ったお店では、開店10周年を祝いました。

能登でもそんな1人との出会いが続いてゆくことを願っています。

 

 

 

TIS理事長退任のご挨拶。

2024 年 3 月 30 日 土曜日

小池アミイゴは昨日3月29日ののTIS年次総会を持って
一般社団法人東京イラストレーターズ・ソサエティの理事長を退任、
次期理事長をサイトウユウスケ氏に引き継ぎました。
なお併せて理事も退任しております。
理事長の5年間を通し叱咤激励を投げかけてくださった皆様。
縁の下の力持ちとして協働してくださった歴代事務局スタッフの皆様。

ありがとうございました。

5年間の理事長職を務める中で、自身の属人的な働きは事務局の機能へと落とし込み、会の執行責任や方向性を決める理事は新たな顔ぶれであるべきと、昨年春の理事会で次年度理事選挙の免除特権を行使する旨を伝え、緩やかなランニング期間を設けての引き継ぎとなりました。

サイトウさんはまだお若いですが、今の日本のイラストレーションを代表する作家として、TISの新鮮な顔になってくれると信じております。

ただ、自分のような働きをさせるわけにはいかず、自分は引き続きサイトウさんや事務局のバックアップを続け、また渉外担当のような役割を通し、自分みたいな者を生かせてくれたイラストレーションに貢献してまいりますので、皆様どうぞこれまでと変わらぬ無茶振り丸投げをよろしくお願いいたします。

小池アミイゴ、
趣味は「火中の栗を拾う」特技は「矢面に立つ」であります。
理事長の5年間は、実に曖昧だった「TISとは」の言語化を探る5年でもありました。

1988年に強力なイラストレーターの作家団体として結成されたTISですが、当時は「世界で最も元気な日本のイラストレーション」のような言葉が踊っていたことを記憶しています。

が、その後のバブル崩壊や出版不況、リーマンショックを受け、また、フルデジタル化やネットメディアの登場、アニメやコミックとイラストレーションの境界線が溶けたり多様性が広がり深まる中で、TISの強力な作家集団というアイデンテティは、イラストレーションのあり方と共に再考の必要が生まれました。

それは安西水丸さんが理事長のまま急逝された10年前に顕著となったはずです。
自分でも確かな言語化が出来ていない「TISとは」を探るため、何度も会員のヒアリングの場を設け確認したTIS会員になる大きなモチベーションは2つ「仕事を増やしたい」と「情報交換のための交流」でした。
TIS会員になるためには、プロのイラストレーとしての一定の基準が設けられています。

そうしたことから導き出した「TISとは」

『プロのイラストレーターが1人では解決出来ないイラストレーションの仕事をする上での課題を、現役のプロのイラストレーターが集い、それぞれの最先端の知見を束ね解決することを目指す、日本で随一のイラストレーターの会』であり、

8年前には一般社団法人格を取得したことで、その活動に公益性も求められる団体ということです。

ボクは地方を巡ることが多く、そこで出会うのは「イラストレーターって何?」「イラストレーションってお願いしたら描いてもらえるんだ!」「アーティストさんなんですね、好きなことで生きているって素敵ですね〜」そんな「イラストレーターって仕事を知らない」人ばかりです。

ただ、同一の業種の者が集い、その仕事に貢献するために、たとえば一般社団法人のような会を結成することで、初めて「イラストレーターって職業なんだ!」と気づく人は少なからずいます。

ある意味、会に所属してくれるだけで、イラストレーターという職業に貢献していることになり、社会人としての信用を得て、自身の仕事が確かなものへと育つ。

それはイラストレーターという一見キラキラして見える人たちを思うと極論に聞こえるかもしれませんが、実はあらゆる職種がそうやって自分たちの姿を見せて、仕事を確かなものへと育ててきたという事実があります。

そうした考えの元、それまでよく語られた「TISをもっと盛り上げよう」という発想は、自分の仕事の下位に置くことにしました。

こうした自分の振る舞いに反発を覚えた方も多くおられたはずですが、しかし、一時は退会者が急増した会も、今年初めて300名まで会員を増やし、その顔ぶれでもって新たなTISを形作る足場が「やっと」固められるに至っております。

今後は若い力をフルに生かし、そして必要があれば多くの経験を重ねてきた先達の知見を引き出し、イラストレーションというものがイラストレーターにとってより幸せなものに育つよう、オープンなコミュニケーションのハブとしてのTISを構築してくれることを心より願い応援してまいります。

それはイラストレーションに真に貢献する”TIS3.0“の登場を意味するはずです。

最後に、
自分は理事長を務める間、「イラストとは〜」みたいな発言を一切封じてきました。
また議論の場で「〇〇さんが言ってたけど、」だったり「たぶん、きっと、だと思う」という言葉を使わぬようにしてきました。
また、自分はアイデアを考えるのが好きな方かと思いますが、それ以上に自分のアイデアを超えた発想に出会うことに喜びを感じたTISでの活動だったことを期しておきます。
実は弱音を吐きたいこともあったはずですが、

まあ今更グジグジ言っても仕方ねえ。

だけど、一枚の写真分だけ甘えさせてください。
TIS理事長に就任した2019年夏、3週間の台湾取材中に疲れていた自分のために呼んで下さったマッサージ師さんと、翻訳アプリで交わした会話のスクショが残っていて、先日見つけてひとり苦笑いをした次第です。
TISの小池アミイゴページ
仕事発注承ります。

156ヶ月め

2024 年 3 月 10 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,749日
678週と3日
13年め
156回めの11日です。

先日、渋谷区うちの近所のパン屋のカフェに居合わせた仙台在住の方と話し込むことがありました。

震災直後から東北に行くようになったこと。
そんな中で、まだ小さかった息子に初めて寿司を食わせたのが仙台だったこと。
その際、お店の常連さんにとても良くしてもらったことなどなど。

共通の知人の名前も数名上がり、話は絵本「うーこのてがみ」について。

この絵本は、アートプロジェクト「鮫ヶ浦 水曜日郵便局」と連携し創作したこと。

プロジェクトの舞台は津波被害の大きかった宮城県東松島市の宮戸島であり、
絵本を制作する際に取材に行ったこと。

うーこのモデルは、宮戸島と松島湾の挟んだ対岸の塩釜で、
わかめの生産をされているご家族の長女であること。

彼女とは震災から1年10ヶ月後の塩釜港の復興市場で出会ったこと。
その際に白詰草を描いたポストカードを手渡したこと。

家に帰って間もなく、彼女から手紙が届いたんだけど、
そこには彼女の白詰草にまつわるパーソナルな思い出と、
震災直後ご主人の仕事場である松島湾の海から見上げた空に、
カモメが何事も無いよう飛んでいる姿に希望を感じた話が書かれていて、
自分はそこで「被災」と「復興」の意味を自分なりに言語化出来たこと。

自分はすぐに塩釜に行き、彼女に会って、
「ご主人さんの仕事場見てくるね!」と松島湾へ。
そこで見たカモメの姿を描いた絵がきっかけで、

「とうだい」という絵本の作画担当が決まり、
熊本でのアートプロジェクト「赤崎水曜日郵便局」の書籍の表紙を担当し、
そのプロジェクトの母体である「つなぎ美術館」での展覧会、
さらには「鮫ヶ浦水曜日郵便局」に紐ついた「うーこのてがみ」の制作に繋がったこと。

「うーこのてがみ」はうーこが友人との手紙のやりとりを重ねることで、
今自分が生きている場所の魅力に気がつくというファンタジー。
ボクは彼女から手渡され『人ひとりが生きるに必要な大切なこと』を
リアリズムを持ってこの物語にこめています。

さらに、同じ絵柄で塩釜の市場の壁画も作成したこと。

しかし、その壁画も「うーこのてがみ」も、彼女には見てもらえなかったこと。

震災直後から家族の力になろうと奮闘してきた彼女は、
ボクに家族が営む海産物のブランディングの仕事を投げてくれたり、
塩釜でのボクの展覧会も計画してくれていたんだけど、

頑張りすぎたんだろう、
2018年夏に急逝されてしまった。

こんなお話を初めて会った人に夢中になって語っているのは、
2024年3月11日の自分は、昨夏能登で出会った人たちと会う約束をしているからだろう。

2011年3月11日以降に出会ったことは、
自分に多くのことを与えてくれた。

それをどのようの形で次に手渡してゆくのか。

あらためて見つめ直す、
あれから13年の11日です。

155ヶ月め

2024 年 2 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,720日
674週2日
12年11ヶ月
155回目の11日です。

2024年2月11日は大分県別府の鉄輪で壁画制作を行っています。

そんなわけで、このブログは後日書いているのですが、
11日から14日までの作業で、知人が新たにオープンするお店の壁に菜の花を描きました。


ボクよりちょっと先輩の和田さんは、
東日本大震災をきっかけに職を失うも、
その人柄が引き寄せる「出来る」仲間たちの助言を受け、
築地で「おかみ丼々 和田」というお店を始めました。
2012年、和田さんが60歳の時です。

うどん屋での修行で身につけた自慢のお出汁で作るどんぶりメシの店は、
お客様のニーズに応え、良い酒と美味いおばんざいの楽しめる店へと成長。
熱烈なファンを獲得することになります。

しかし、コロナによるパンデミックで足踏み。
やはり多くのお客様の力で持ち堪えるも、
ご自身の人生を考え、2年前に鉄輪へ移住。

この2年間に彼女を慕い鉄輪を訪れる方が急増。
地域の方にも慕われ、協力も得て、
72歳になった今、この地域の新たな拠点として店を、
古い建物をリノベーションし作ることになりました。

築地時代はボクの展覧会によく足を運んでくださり、絵を購入してくれたり、
ボクの友人で、東北での被災から再建した生産者さんと繋がってくれたり。

そんなご縁に対して「店が出来たら絵を描きに行きますよ!」と約束。

さらに、大分に移住した作家で大工仕事もする友人を紹介。

ざっとこんな理由でボクは鉄輪で菜の花の絵を描いているのです。

大国入った友人とは、
東京で大分で、ライブイベントや展覧会などなど、
自分たちが本当に美しいと思える場所作りをしてきました。

東日本大震災の余震で街がグラついていた2011年4月には、
まさに花の絵の展覧会を一緒に作っていたなあ〜。

そんな彼との久々のコラボは、とても嬉しくとても緊張感のあるものです。

また、ボクは和田さんに請われてここに来たのですが、
だからって自分勝手な絵を描くわけにはいかず、
ともかく、関わるみんなとコミュニケーションをとって、
関わるみんなのベストとなるものを作らねばです。

そのために、鉄輪の街を歩き回って、ここがどんな場所なのか、
ここに足を運ぶ人が求めるものがなんであるのかをキャッチ。

そしてまた関わるみんなとの会話。
そこから感じる熱を頼りに答えらしき方に向かって筆を動かしてゆきました。

この作業の背景には「今後能登をどう描けばいいのか?」というエクスキューズが、
渦巻いていたはずです。

2011年3月11日から続けてきたことは、ひたすら考え続けるってことなんだろうか。
いつも同じところをグルグル回っているだけで、
しかし、その時々で出会う人や空の色、道端に咲いてる花なんてものが、
まだまだ考え続けないといけないぜ!と語ってくれて、
そうだね、しょうがねえ、まだまだグルグル考え続けるしかねえな。
と。

和田さんが新たに生きる場所で、
自分のこれからをグルグルと考えることの出来た創作の美しき時間。
ありがとうございました。

店が出来るの、楽しみ!

 

震災後の子どものための絵のワークショップ

2024 年 1 月 21 日 日曜日


絵のワークショップをやるようになって20年以上経ちますが、
2011年3月11日の東日本大震災発災後に「子どものためにワークショプを開催してくれ」との声が増え、
それに対して基本的にすべて引き受けています。

お声掛けくださるのは個人から行政まで様々。

その際「講師料はいくらでしょうか?」と質問を受けますが、
それに対してまず「出来る範囲で考えてください」と伝え、
次に「一度やってまた同じようなことが出来るイメージを持って考えてみてください」と。
もし仲間がいるのなら、そのことを皆さんで考えられ、
その上でお金が無いというのであれば、無報酬でも引き受けます。

このことで重要なのは、自分が報酬を得ることでは無く、子どもたちが笑顔になれること。

こんな確信を持って活動するのは、やはり東日本大震災以降で、
それは未曾有と言われた悲劇に対するボクなりの闘い方なんでしょう。

ただ、こうしか経験は、自分の仕事にリアリティをもたらし、
ボクやボクの家族、さらには自分が属するコミュニティを確かななものにする力になっているはずです。

写真は12年前の3月に気仙沼で開催したワークショップ。
この時は共に行動する仲間を得て、大漁旗に絵を描くワークショップとして開催しました。

その時のワークショップをアーカイブしたブログ
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7542
震災から1年後の気仙沼のことも綴っています。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=7578

今読み返すと、自分は震災後の混乱の中にあるし、
子どもと向き合い起きることに対して言語化が追いついていなかったことに気づきます。

そもそも全ての現場で行うことが初めて行うこと。

それはどんな状況でもまず飛び込んでしまう自分の良いか悪いか分からぬ資質によりますが、
こうした現場を重ねて行く中で言葉が追いついてきたこともあります。

この時の気仙沼の経験のひとつは、後ほどあらゆる現場で以下のように語るようになります。

震災から1年後の気仙沼で子どもと大漁旗に絵を描くワークショップをやったんだけど、
テーマは「学校や保育園や家でやったら怒られちゃうだろうけど、今日は好きなもの描こう!」ってね。
沢山集まってくれた中でも、オシャレした女の子3人組が最初からテンション高くてね。
何か叫びながらなんだけど、すごく綺麗な色を使ってオシャレな絵を描いてゆくので、
「キミたち、おしゃれだね〜!」なんてレスポンス返していったら、さらにオシャレを加速させて。
これは傑作が出来るぞ!って思ってたところ、1人の女の子の目つきが変わって、、
何するんだ!って思ったら、真っ赤な絵の具でベタっと「復興するぞ!」と書いたんよ。

それまで美しく楽しくおしゃれに仕上がっていた画面が台無しになっちゃって、、
でも「好きなもの描こう!」て言った自分はそれを否定するわけにはいかず、
「復興するぞ!だね〜」と声をかけたら、なんかその子の目が悲しそうなんよ。
で、「それ書いて楽しかったかな?今日は好きなものだけ描いていいんだぜ」
「今日みんなで描いた絵、めちゃくちゃオシャレで俺は元気になったぜ!」
そんな声掛けしたら表情が緩んで、ホッとした柔らかな表情を見せてくれた。

これはどういうことか考えたんだけど、
すべての大人が「復興」のために頑張っている。
それを見ている子どもたちは、自分の楽しいより「復興するぞ!」と書いた方が、
大人が喜んでくれる。もしくは安心してくれる。
そんな先回りした考えがあったんだろう。

大人に連れてこられた絵のワークショップで、それに答えるように「元気に」絵を描く姿を見せたら、
オトナが喜んでくれるであろう言葉を、険しい表情で書き殴った子どもたち。

すげーいい子たち。
だけで、俺は大人だから、君たちが好きな絵を描いて、出し切ってホッとした顔見せてくれるのが、
幸せなんだ〜

そのために気仙沼まで来たんよ。

もしくは熊本地震から3ヶ月後の熊本市内でのワークショップ。

その日は、大人たちが震災復興バザーをやっている隣のスペースで、
子どもたちと絵を描いてくださいというオーダー。

みんなで大きな絵を描きはじまたんだけど、
ひとりものすごく反抗する子がいる。

ボクはこの子とほぼマンツーマンでのコミュニケーションになってしまったのだけど、
反抗の意味が掴めないでいる。

彼女の反抗は絵を描くのを楽しんでいる子たちのマインドも揺るがしちゃって、、
これはもう無理だと、
このワークショップはその子とボクがガチで向き合う姿を他の子に見てもらうものでいいやと、
さらに徹底的に彼女の反抗的なアクションに付き合う。

と、絵の具をベターっとつけた紙パレットをキャンバスに投げつけ踏みつけ、、
「そこまでやれば気持ちいいだろう!」と言って、
その子が紙パレットを剥がすと、それがとても綺麗。
「おい、それ綺麗だなあ〜!」と伝えたら、初めてニヤっとだけど笑って、
親がいる部屋の方に走っていってしまった。

いや、すごい暴れん坊だったなあ〜と思って、
その日の夜のバザーの打ち上げのような会場で言ってみると、
さっきの子がニッコニコで募金集めをやっている。

なんだ?すげーいい子じゃん。

彼女を知る大人に聞けば、彼女の家は地震の被害が酷かったそう。

そうか、
彼女は大人たちが復興のために奮闘するバザー会場に連れて来られて、
そこでバザーのお手伝いをせず、絵を描くワークショップに参加させられた。

オトナが復興に向けて頑張っているのに、
私は子どもだからって絵を描いて遊ばなければならないの?

彼女の反抗のエネルギーはそんなだったのだろう。
それは夜の表情でわかった。

でも、
絵を描くワークショップの現場で絵の具を投げつけたことでアウトプットできたことがあってこその、
夜の表情とも言えなくないかな。

別れ際に「ありがとー」と、いわゆる子どもらしく朗らかに声をかけてくれたことで、
なんだが自分も救われちゃったぜ。

熊本では同じタイミングで別の場所でもワークショップをやったんだけど。

そちらは親と子が一緒の現場で、子どもたちは親の視線に守られて安心して出し切っていった。

自分の子どもたちとのワークショップでは、
アートは手段であり、
目的は子どもたちの心の中で蓋をされてしまった恐怖の記憶のアウトプットだったり、
この先の未来を生きるための「気持ちの良い自分」の発見だったり、
子どもたちとと日常を共にする親やコミュニティの関係性の更新だったり。
そんなことを確信的に思えた熊本でも2本のワークショップでした。

そして、
12年前の気仙沼も、8年前の熊本も、今自分が暮らす東京も、2024年の能登も、
すべては自分の中では地続きであり、
もし自分のような者でも必要とされるのであれば、画材を担いで向かいますよ!
ということです。

154ヶ月め_能登へ

2024 年 1 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から4,689日
12年10ヶ月
154回目の11日です。

1月1日に発生した能登半島地震。
今日11日の段階で、213名の方が犠牲になり、
まだ安否がわからない方も多数おられるとのこと。

これ以上被害が広がらないことを願うばかりであります。

能登は昨年7月にご縁をいただき、
その際にお世話になった方が現地から情報発信して下さっています。

ただただ厳しい現地の状況に触れ、
災害救助の能力を持たぬ自分の無力を知るばかり。

ほんとみなさん、どうかご無事であってください。

自分で出来ることとして、
東日本大震災の時のアクションを踏襲し、
能登で地震のあった夜、義援活動に使えるデザインの配布を始めています。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15978
↑リンク先の画像やこちら↓の画像は自由にお使いください。


また、
この画像を使ったポストカードを印刷し、
SNSで募った希望者に配布しました。

現在在庫が少なくなってしまっていますが、
もしご希望あれば増刷し送りますので、ご遠慮なくお申し付けくださいませ。
(これらの活動はすべて無償で行っております。)

元旦の16時台に発生した地震なので、
日本の多くの家庭で、普段テレビを見ない人がこの悲劇を目の当たりにしたのが、
東日本大震災以来の状況ではないかと想像します。

仕事で日本各地を巡って気がつくのは、
日本で暮らすほとんどの方は心優しき人であること。

そんな方の想像力を揺すぶらせてしまうのも、
自然災害の恐ろしさと考えます。

東日本を振り返れば、
当時は1年で3万人を超える人が自殺していた時代でした。

日本に暮らす多くの方が生きづらさを感じていたところに、
多くの人命が失われてしまう事態が起きた。
さらには、生活が破壊される事故が起きた。

自分は被災されその瞬間困難に直面されている人と共に、
この瞬間こころを痛めた被災と対岸にある人のことも想像しました。

多くの人が悲惨な映像に接し心をフリーズさせていることは想像出来ます。
そんな1人が小さなアクションを起こすことで、心を1mでも動かすことの重要さを直感し、
誰でも使える日本列島の絵を描いて、3月11日の夜にネットでシェアしました。


今回も同様のアクションを行ってみると、
やはり東日本の時と同じくらいのリアクションを頂き、
能登半島地震に多くの方が心痛めておられることが実感出来ました。

自分のこれまでの経験では、
被災に対して人ひとりが役に立てるフェーズは必ずやってきます。

それが何年後になろうとも、
今困難な状況に置かれている人に対する想像力を失わない限り、
力を必要とされる場面は訪れます。

メディアから伝わる義援活動は、個人の能力を遥かに超えた数字で伝えられたりします。
「〇〇さんが数千万円の寄付を行った」みたいなことですね。

それは素晴らしいことですが、善良な1人がそうした情報に潰される必要は無く、
1人の人間として想像力が途切れぬ分母の小さな働きを考えることも、
困難な状況にある方を助ける力になると信じてもらえたらいいな〜

日本に暮らす心優しき誰か1人が、
今困難に直面している誰か1人の笑顔を作れたら、
それはものすごく大きな力に育ちます。

今は復興では無く、救助と復旧の段階ですが、
いつか復興の段階に入った時、
1人に生まれた笑顔が、そのまわりの人を助ける力になる。

そんな想像を被災の対岸で育てることは、
たとえば、今多くの場所で起きている義援活動の現場に、
風通しの良い会話が生まれることで確かなものになるはずです。

1月2日には近所の仲間のコーヒー屋リトルナップコーヒースタンドが、
正月休みを返上した募金活動を、ボクの絵使って始めました。

自分も駆けつけてみると、
ちょっと驚くくらいのお金が集まっている。
のだが、
それ以上に後から後から駆けつける人たちが無言で募金し、
しかし、その後はみなさん語り合っている。

この意語り合っている風景こそ力だなと。

募金の送り先は北陸出身の店主に安心してお任せ出来ます。
そして、もしこの街で災害が起きた際は、
そこに助け合って生きようとする仲間を想像することが出来るのが、
このような活動の意義のひとつです。

自分の活動を振り返れば、
今から31年前の3月に実家を焼失したところから始まっています。

東京から群馬の実家に駆けつけると、
近所の名もなき人々が余計なことを口にせずただ家族を助けてくれている。

義援とは人が生きるに必要な空気や水を無言で分け合うようなことだ。

その時の実感が、阪神淡路の無力感、
初めてボランティアに参加した中越地震、
実際に自分も被災した福岡東方沖地震、
自分に守るべき子供が出来た直後の東日本を経験し、
自分の当たり前に育ってきて、今があります。

残念ながらXのようなSNS上では、言葉の殴り合いが始まってしまっているのは、
東日本の直後と似ています。

ただ、当時Twitterで語られたことは、
被災エリアで苦しんでいる人が見ることは無く、
(そもそもじーちゃんばーちゃんまだスマホ持っていなかった)
なんとういうか、持論に対する承認欲求が渦巻いていただけのように思えました。

今回の地震では、能登の方が情報に対しての予防線を張っている印象です。

被災の対岸にあると認識されている方におかれましても、
情報の接し方に気をつけて、大切なことは信頼おける人と確認し合い、
心の平穏と被災者への想像力を維持されることが、
災害との戦い方のひとつのように思うのです。


あらためて、
昨年の夏の始まりに歩いた能登の里山の美しさを思うと、
心締め付けられるばかりの今です。

失われたものは取り返しようが無く、
またこれからも多くのものが失われてしまうはずです。

それでもそこに救いを見出すのが人であることは、
東日本でボクが学んできたことです。

災害救助に従事されておられる方のご健闘と、
困難に向き合う皆様の安全を心よりお祈り申し上げます。