2024 年 5 月 11 日 土曜日 8:25 PM 3月11日からの備忘録, SOUL, 取材 | trackback |
158ヶ月め
今日は2011年3月11日から4,810日
687週1日
13年2ヶ月
158回目の11日です。
4月21~22日は福島県飯舘村フィールドワーク。
一昨年の秋に始まったプロジェクトとして6回目のフィールドワークは、
3月17~18日に続いて今年2度目。
今回初めて福島県立博物館の学芸員チームと村内で一泊し、
村内在住者と多くを語り合う時を得ました。
6度目のフィールドワークで初めて、
「美しい春の風景だな〜」なんて心より思えた自分は、
原発事故以前の飯舘村も、原発事故から10年の飯舘村も知りません。
なのでしょうがない、
今見えるものがすべてであり、今見えるものは当たり前では無い。
そんな心持ちで風景に向き合います。
ということを飯館村だからではなく、
自分の場合どんな場所でもやっているんだろう。
そんな飯舘村に対して無責任な存在の自分だからこそ出来る表現があるのか。
それは誰かの助けになったり、生きる力になるのか。
その答えは先回りすることなく、
やはり「見る」「聞く」「感じる」といったことを優先ですね。
菅野宗夫さんはNPO法人ふくしま再生の会の副理事長を務める飯舘村の農家。
原発事故前は畜産も行うも、現在は農業に専従。
自宅敷地に地域再生のために村に入る学生などのベース基地を設けています。
奥様は「この春震災後年初めて集落で子供達の声を聞いた」と。
それは何かの企画で村外から集まった人たちの子どもだったけど、
それでも嬉しかった。
しかし、元々村で生まれた子どもは、もう高校生だったり成人になったりしているから、
もうここを故郷なんて思う記憶が無いよ。と…
でも、どうなんだろなあ〜〜、
自分は群馬県の長閑な養蚕地帯で生まれて、
5歳、6歳くらいまで、今振り返れば実に美しい人里の景色抱かれ育ちました。
が、高度経済成長が行き着いたあたりで、一気にその美しい風景が失われ、
いつも遊んでいた川から腐臭が漂うになった。
その喪失感と、忘れられない美しい記憶とで、
今こうした飯舘村を美しいと思って見ているし、
そうした風景が復活することを願って活動している。
だから、未就学で飯舘村を後にした子どもにだって、
飯舘に戻ってくるモチベーションはあるはず。
そんな話をしました。
そして、
これは飯舘の方に叱られてしまうかもしれませんが、
戦禍や原爆で失われたことも、高度経済成長やバブルで失われたことも、
実は飯舘と地続きのことであり、
だから自分はここまでやって来たんだろうと思ったのです。
ところで飯舘の民謡ってありますか?と質問。
宗夫さんが、お父さんが唄ってる動画があるはずだと調べてくれました。
2012年6月、飯舘村の田植えの後のサナブリ。菅野のおじいさん89歳が新 相馬節を披露しました。
飯舘村小宮地区大久保金一さん宅田植え後の早苗饗(さなぶり)で、飯舘音頭を歌う菅野次男さん(90才)
93歳!
うわ〜、たまらんぜ。
お父様はもう他界されていますが、
飯舘に蒔いた種は必ず芽を出し、それを必要とする人の心に花を咲かせ、
いつか飯舘に根付くのではと思ったし、
自分が作るものはこんな唄のようなものでないかと想像しました。
そして、
ひとりを知ることで胸に迫る原発事故の残忍なまでの不条理さ。
あらためて、福島第一原子力発電所の電気は首都圏に送られ、
自分はその電気を使ってラウドな音楽などを楽しんでいたってこと、
忘れちゃならんぜ。
菅野さん、色々お話有難うございました。
元気な猫さんにも「またね」と声をかけていたら、
山菜の女王コシアブラを大量に頂いてしまった。。
原発事故による放射性物質の被害を受けた土地で、
どれだけ根気よく厳密に調べてきたんだろう?
「これは食べられる」「これはまだ食べられない」と
すらすらと語る飯舘のみなさんから学ぶことはデカい。
そしてやはりふくしま再生の会の理事長を務められる田尾陽一さんのご自宅へ。
迎えてくださった奥様が「一年で一番いい季節の最後の風景」と教えてくれた、
ご自宅前の里山の風景が、美しい。
東日本大震災発災後「便利」や「豊か」で語られる東京在住の自分は、
東北の各地を巡り「人はなぜここで生きようとしたのか?」を探ってきたのだけど、
その行く先々で出会うのは、人の力だけではどうにもならない自然の美しさであり、
それと調和した人の営みにから感じる深い愛おしさであり、
なるほど、人は「効率」だけで生きてるわけじゃないんだなと気がつくわけです。
もちろん三陸の漁師が鮪漁で御殿を建てるなんてこともあるけど、
それにしたって、自然と調和した漁師街の美さ!
いや、田尾さんともいろいろ話したなあ〜。
話に没頭し、写真撮ってないもんね。
神奈川に生まれて、広島の原爆の閃光を目にして、
東京大学大学院で高エネルギー加速器物理学を研究されていた田尾さんは、
福島第一原子力発電所の事故に際して、放射線量の測定をし村の再生に関与するため、
農民と協働してふくしま再生の会を組織する。
その後飯舘に移住し、娘さんと共にアートプロジェクトの核となったりもしている。
現在は、地域の拠点ともなるゲストハウス「風と土の家」も運営。
そのエネルギー、どこから湧いてきたんだろう。
田尾さんの持論は「自然との共生」
過去には飯舘村のほとんどの家に炭焼き小屋があり、
村内で採れた米や野菜を調理する火力にしていた。
そんな実に合理的な循環型社会が失われたのはなんでだろう?
東日本大震災と原発事故以降、多くの人が「豊かさの意味を見直そう」と考え、
しかし、今はどうなんだろうか?
自分は今中3の息子たちがどんな社会で生きてゆくのか、深く考えてみました。
ひとつ今回確信的に言えるのは、
コシアブラはとても美味しく、心を豊かにしてくれたよ〜!
です。
また、3月の取材でもうかがった”きまぐれ茶屋 ちえこ”の昼ごはん、
まずは写真を見てもらいたいのだけど、
これに狂おしいほど絶品の”ごんぼっぱ餅”もついて、
1,500円!!!
しかも今年の2月までは1,300円で提供していたって、、
もし日本が経済優先の成長を目指すなら、
この値段をどうしたら良いのか、みんな一度ここに来てちえこ婆ちゃんのご飯を頂いて、
胸に手を当てて考えたらいいね。
しかし、ちえこ婆ちゃんは「これあるから持ってけ」なんておこわを手渡してくれちゃったりで、、
2004年、59歳の時に飯舘村で採れる山菜や凍み餅、漬物など地産地消の農家レストラン「氣まぐれ茶屋ちえこ」をオープン。翌年には飯舘村が福島県第一号の「どぶろく特区」に認定されたのを機に製造免許を取得。現在もどぶろくの製造・販売に取り組む。
という経歴のちえこさんだけど。
もちろん原発事故で避難を余儀なくされ、
その後どんだけの志を持ってだろう?
避難指示が17年に解除さた後、19年5月1日、店を再開。
が、すぐにコロナだぜ、、
なのに「あるから持ってけ」って、、
78歳のばーちゃんから学ぶこと、絶大なのだ。
今回、飯舘に暮らす人と出会ったことで、
自分の飯舘村が動き出したイメージでいます。
いやきっと「何を今更」なんだろうが、
それでも、きっと自分だからこそ出来ることはあるだろうねと。
フィールドワーク後、博物館チームとこのプロジェクトの母体となる飯舘電力チームとでミーティング。
次もまた「聞く」「見る」「感じる」というワークを重ねた上で、
具体的なアクションを生もうという合意を得ました。
タグ: 飯舘村, 飯舘電力