8ヶ月後の気仙沼


まずこの写真

今回気仙沼の復興屋台村で開催させてもらった大漁旗をコドモたちと描くワークショップ

1日目が雨で
そしたら屋台村事務局からの依頼で
地元の施工会社(?)の方がブルーシートで簡易の屋根を作ってくれました

それでも
滴る雨水が飛び散って絵を描きづらい場所があって

そしたらこの方が
ブルーシート屋根の水をロープを伝いに頭へ
頭からレインコートに沿って足元へと
自分の身体を雨どい代わりにして
1時間くらい立ちっぱなしでいてくれてた姿です


今回の気仙沼でのワークショップは
代理店やいくつかの企画会社が関わった
LIVEやアートを組み込んだ大掛かりなイベントの一部として
ボクの足代や宿代や諸経費まで用意して頂いてのこと

被災地でワークショップを行うのに
ここまでしてもらっちゃって良いのだろうか?

現地ではひとつのアクションを起こす前に
必ず現地の方とお話をさせて頂き
「今やろうとしていることがどういうことなのか」
確認させてもらいました


ワークショップで絵を描くということだけで
何人もの方がやってきて
ブルーシートの屋根をこさえてくれる

「これは現地に余計な負荷を与えていませんか?」

まずは事務局の方に質問

「いやいや、そんなことないですよ!」
「というか、仕事としてなくてはならないことです」
とキッパリ

ならば
設営に来られた方に質問

「これがウチらの仕事だからね!」
「助かるわいねー」
こちらもキッパリ

そんな確認の先で“雨どいおじさん”

「絆」より確実なつながり「雨どい」

仕事のプライド
人として生きる意味
愛だの恋だの
心に刻ませられる気仙沼

よっしゃー!
オレも200%でコドモと向き合い描くぜ!

これから関わるすべてのこと
こんな心持ちでやらねばと思いました


昨年の6月22日に初めて足を運んだ気仙沼

それから8ヶ月

東北新幹線で一ノ関駅へ
8ヶ月前と同じルート同じ時間で気仙沼まで
ドラゴンレール大船渡線で1時間20分

8ヶ月前はガランとしていた車内も
この日は満席で走るドラゴンレール


夏草燃える中を駆け抜けたような記憶も
すぐに残雪に下に押しやられる
「初めまして」の春待ちの山里の風景

自然と人の智恵と手仕事の調和した風景
その豊かさ美しさと
8ヶ月前に出会った被災の風景の痛々しさが
どうにも結びつかぬまま気仙沼に到着

同行のみなさんがホテルまでタクシーで移動するところ
ワガママを聞いて頂き
8ヶ月前と同じく徒歩で街を歩くことに


まずはすれ違う人の多さに驚き


再開している店があることにヨロコビ


バスが走っていたり
クルマが信号待ちで連なっていたりを
頼もしく感じたり


80cmもかさ上げされ再生された街区の車道の先で
フェリーの乗組員やタクシーのウンちゃんの表情に
笑顔を見つけたり


8ヶ月前に
それこそ疲れ果て表情を失った顔をして
店の片付けをされていた女性がいて
ボクはその店はもう再開されることは無いのではないか?なんて感じて
しかし
8ヶ月後の店内でお客さんと談笑されている姿に出会ったり
(店は震災前と同じなんてことはあり得ない様子だけど)


地元の方に言わせれば「10%も復興していない」であり
ボクは無責任な旅人でしかなく
この町のことの1%も分っちゃいないのだけれど

それでも
8ヶ月前の気仙沼の町の空気からは想像することの出来なかった
人の沸き立つような息づかいを感じられたことが
ともかく驚きでヨロコビで
人ってスゲー!と感激して

気仙沼は相変わらず悲劇の町だけど
決して失われた町ではないんだと
町で出会う1人ヒトリから確認させてもらえました

だからこそ
今もそこにある喪失の重大さに
足がすくみます

だからこそ
さらに自分で足で歩いてみようと
ワークショップの合間で
20kmほどランニングで町を巡ってみると
そこはただただ被災の現場

よそ者のボクにとっては初めて出会う土地の景色
それが偶然月面のような場所なんだって腹をくくり
風や匂いを便りにただ走り回るだけ

他の被災地でもそうであったように
「ここでボクが勝手に被災を想像しちゃいけない」と
思考を停止させる力が働き
今回も「被災」をカメラで記録することは避けました


瓦礫の処理の問題が取りざたされている今

しかし
現地を自分の足で歩く限り
人がどう生きるのかが問題であり

「瓦礫をどうするか?」以前で必要とされる
緊急を要する決断が目の前にほっぽり出され
瓦礫以上にうず高く積み上げられているのだと感じました


仮置き場に集積された瓦礫の山は
間近で見ると圧倒的なスケールのモンスターに見えます

しかし
東京から数百キロ移動して来た距離感からすると小高い丘

それが東日本太平洋沿岸500kmに点在している

福島第一原子力発電所から東京のボクのウチが230km
気仙沼は185km
1月に行った宮古は270km

近寄ってみた皮膚感覚と確かな線量の計測
引いてみたイマジネーション
その両方を関わるスベテの人で共有出来たら
時間はかかるけどなんとかなるものなんだと思いました

みんな膝つきあわせろ!
そう思いました


気仙沼港から北に向って走ってゆくと
鹿折(ししおり)という地区になります

夕暮れ時の薄暗い中ヒトリで走っていると
景色がよく見えない分の
想像を越えたことろから迫ってくるものに
暗闇に引きづり込まれそうになります

そんな絶対的な喪失の景色の中
唐突に大きな船が現れます

全長約60mで330tの第18共徳丸

港から900mも内陸に打ち上げられた大きな船は
一瞬被災の象徴のように思われましたが
それが土地の人にとってはどんなものなのか?
そう考えるとやはり思考がその先に届かず
ただ献花代に手を合わせるのが精一杯でした

悲しいことは
その船の手前に立てられた看板に
>写真撮影の際は
>犠牲者や被災者の気持を考え
>節度ある撮影を心がけてください
みたく書かれていたこと
(うる憶えで正しい文言ではありませんが、)

ボクは気仙沼で「巨震激流」という
地元の新聞社である三陸新報社
去年の7月23日に発刊した本に出会いました


A4版のムック
白い表紙にタイトル文字
その下に共徳丸が写された写真

しかし
その写真の部分はトレーシングペーパーの帯で
半透明に隠されています

流されたままの船は震災を象徴的に伝える記号ではあるけれど
被災された方にとっては痛みの記憶

そんなことに気がつく手前
それが「なんであるのか」と考えるまでもなく
心に滑り込んでくるデザイン

そんな本が駅の売店のレジ横に平積みされていて
ボクは値段を確認することもなく購入しました

そうして開いた本は
まさに「巨震激流」

今まで出会ってきた震災を伝えるどんなメディアより
現場の臭いや凍てつく寒さまでもが伝わってくる写真
そして現場の肉声


ボクは「東日本」というタイトルの個展を終えたばかりですが

その開催の直前
東京でいくつかの震災を伝える写真集をめくることがありました

それは圧倒的に心に迫ってくる震災の写真ばかり

ボクはそれに本当に「圧倒」されながら
しかしいつのまにか
1つヒトツの写真の構図の端正さや光の加減
横たわるタンカーの迫力だったり
頭を垂れる人々の真摯な姿だったりを
「美しい」とか「かっこいい」とかの言葉と共に
見ていることに気がつきました

被災を消費してしまっている?

ただ写真からは
ボクが現地で出会った強烈な臭いや凍てつく寒さを
感じることは出来ない

いやいや、
現地に足を運んで記録を続けられている方々の奮闘は
それは一切否定されるものでは無く
本当に素晴らしいことだと思います

それでも
ボクは今持ち合わせている表現や技法を信頼し切ることなく
これからはさらに感覚のスベテを駆使して
被災だったり厳しい立場にある方々に
向き合わねばならないんだと思いました

そんな感覚を目覚めさせてくれた「巨震激流」はネットでも購入可能です


復興屋台村では
時間のゆるす限り現地の方とコトバを交わしました

被災地と呼ばれる場所に足を踏み込んだとしても
その土地のもともとを知らぬボクにとっては
そこで目にする景色は「被災地と呼ばれる景色」なのだけど

そこで生活をされてきた人のコトバに触れたとたん
初めて「被災」としての像を結びます

「被災」は打ち上げられた漁船や積み重ねられた瓦礫が見せる景色ではなく
そこで生活してきた人の数だけある生きた時間とその喪失

政府なのどによる大きな発想による被災地支援というものは
急務として必要とされることですが
(それにしても遅い!)

個人と個人の繋がりを構築し豊かに育ててゆくことは
ボクたち1人ヒトリが長い時間をかけて取組んでゆけることで
実際に必要とされていることなんだと
現地の方との会話の中で確信しました


ある洋食さんは
港近くのビルの3階でお店を営まれていたそうです

昼間はちょっとしたカフェとして営業していて
そこのコーヒーが美味しくて

美味しいコーヒーを日々提供するってことは
特別なことだな〜と

晩メシを食いにいったら
やっぱりしっかり旨い!

鶏肉のコンフィをスルスルと食べて
シラスとちじれホウレン草のペペロンチーノもスルスル食べてしまって
ハウスワインがちょうど良い感じで寄り添ってくれて
最後のコーヒーがやっぱり旨い

同席した地元のお母さんとお子さんが
やはりほんとに美味しそうに食事されていて

「美味しくごはんを食べられた」と感じたのは
ほんとごく最近だって

だからこそ店主さんは
「みなさんがやっているような活動、ぜひもっと厳しい環境にある方に届けてくれ」と
「ここは気仙沼でも一番元気な人たちが集まっている場所だから、ある意味大丈夫なんだ」と
ガツンと一発

それはあまりにも真っ当なコトバだったので
一晩じっくり考えた後
あらためて店主さんとお話

「この元気な場所が“元気の配電盤”として機能できたらいいですね」
「ここに美味しいコーヒーがあるかぎり、ボクはまた足を運びます」
「そうして生まれた顔の見える関係を足がかりに、次を目指すことがあっても良いのでは」

なにより
「今回の気仙沼では、ボクは美味しいコーヒーを呑んで来たよ」って
東京ではそんな話から始めるはずだって

生意気に思われることを覚悟して
ボクの考えを伝えました

そしてお互いのこれからの元気と再会を約束しました


讃岐うどんを提供してる方のご実家は
造船だったか鉄鋼だったかの工場をやっていて
(酔っぱらいのうる憶えですみません、、)
3月11日に被災

この屋台村が11月にプレオープンするのに合わせて
夏の終わりくらいに決断
うどん修行に出た後
出店されたそうです

ズイブン悩んだけれど
これをチャンスに変えようと考えられたそう

こう考えられる人と
考える余裕さえない人があることを
日々確認しながら踏み込まれるうどんは
しっかりとした腰の「根性うどん」

コンフィとスパゲティーを食べたばかりだけど
ついついツルツル
やっぱ旨い!

東北気仙沼という土地で讃岐うどん
土地の食材を上手く使ったメニューも用意しつつ
さらに自分のうどんへと成長してゆく先に
気仙沼のどんな未来が待っているのか?
楽しみだね〜!!


連日お世話になった居酒屋さんの大将も
屋台村がきっかけで初めて飲食の現場に立たれたとのこと

プレハブの店内にカウンター席と小上がりの席の小さな店だけど
こんな店が近所にあったら毎日通っちゃうぜ

なにより大将の心意気が酒を旨くするね!

ここでご一緒させてもらったお2人の常連さんが
現実を熱く語ってくれたことをちょっと

内装業を生業とされてる方は
自身が今復興バブルの中にあることを自覚しながら

「テレビ局野郎は、オレらが仕事で現場に車を止めてると、今からそこを撮影するから車をどけろって」
「それはテレビ局の考えたアングルであって、オレたちはここで働いて生きてんだから、それを映せって!」
「テレビ局やマスコミは、自分たちが必要とするアングルを切り取って流してるだけで、
 そんなもんで被災の本当の姿なんか伝わるはずねーっぺ!」

こんな調子で
政府からマスコミ、復興利権や震災ビジネス、
「がんばれ!」や「絆」、瓦礫除去やボランティアのあり方までメッタ切り

その全部はここでは書ききれないのだけど
ともかく徹底的に聞き役に回って思ったのは

被災に対してボクたちがどれだけ自分の都合の良いことで表現して
美談に押し込み「消費」してしまっているってことの恐さ

そして
「これからは被災者の間で ものスゲー格差が生まれんぞ」
「それを食い止めることは、実際無理」
「だったら、それでも生きてゆけるんだってこと考えなきゃダメだっぺ!」

あらためて自分の無知をみとめバカをさらして
スベテの感覚で言葉を受け止めてかなきゃだ!

東京のみなさんに「良い」と言ってもらえた「東日本」てタイトルの個展も
こちらではなんの意味ももたないことだって実感
ボクもここから始めなきゃだ!

で、
トゲトゲした空気も和らいできたところでお2人が
「でも、東京の人がこないだの3月11日の2時46分に、街ん中で黙祷してくれてるのテレビで見て、
それはやっぱうれしかったよなぁ」と

それに対してボク
「あ、でもそうやってどこでも誰でも黙祷したわけでなくて、それもテレビ局のアングルっすよ」て

「なんだー!そうなんか、、」

そうなんだよな、
ボクたちはもっともっと顔の見える関係の会話を必要としている

話の最後に質問
「ではどんな社会になったら良いですか?」

アンサー
「社会なんてヒトツのもんではもう語れねーっつーの」
「1人ヒトリがそれぞれの立場で生きてく希望みてーなもん、どうにかして持てるようにするんだな」
「それが集まって、はじめて社会だっぺ」

政府のおっちゃんたち!
復興屋台村気仙沼横町からの声
聴こえているかー!!


2泊3日でのべ11軒をハシゴ(朝食2食はホテル)
物販店も全部巡ってみた復興屋台村気仙沼横町

資金やアイデアは民間からのものです

仙台に本社を置く方が
震災直後の去年の4月後半には市にかけあい
8月にGOサインが出て参加者を募り
11月にはプレオープン

それまでの間
どの店も開店後にリピーターがつくように
商品開発のためのコミュニケーションを
何度も重ねてこられたそうです

だからどの店も一本筋のある個性をもって
集まってくるお客さんにアピールしている

こういうことは
行政の発想からは生まれないことなんだね

もちろんこういった発想での被災地支援がスベテではないのだけど
それでも
夜の灯りを8割方失ってしまったままだという港にあって
暗闇の先にボーッと見える赤提灯を見ると
よそ者のボクでさえホッと出来たし
復興への灯台のようだとも思えました

そして
今回出会ったスベテの方が口にしたのは
復興は今からがスタートだってこと


帰りの列車の時刻が近づく中
復興村のスタッフさんと炭火を囲み談笑

わずかの滞在の間に言葉にならないことばかり
抱え切れないほどの宿題を出されました

それでも今回の経験を活かして
次にまた一緒に出来ることのアイデアを絞り出して
またここに戻って来ることを約束

ヘトヘトに疲れた頭の中では
福岡で街で奮闘してる古着屋の若いヤツらや
鳥取のシャッター商店街を盛り上げようとしてる人たちや
東京に溢れかえっているイラストレーターとか
そんな人と被災地の人とが出会い
それぞれの街を楽しくするアイデアを交換でいたらいいのにな
なんて思いが浮かんでいました

義援の時から次のステップへ
今までは絵を楽しむなんて気持にはなれなかったけれど
今はなんでもない花の絵1つでも力になるんだって
これも出会ったみなさんが言葉にしてくれたこと

みんなこれからが本当の出番
楽しいアイデアを結集してゆけたらいいね!

サヨナラ気仙沼
ありがとう
またいつの日か

コメント / トラックバック 2 件

  1. かなえ より:

    とても大事なことについて、改めて考えさせていただいた文章でした。
    私も福島原発から230km離れた地に住んでおります。
    でも、被災地の方とは全く違った日常生活を送っております。
    復興に向けて、何かしたい、とは思っていても、
    なかなか行動に移せずにいます。
    被災地の現状をちゃんと知ることから始めたいと思います。

  2. 小池アミイゴ より:

    >かなえさん。
    被災地もこっち側も、日常ってあんま変わんないで流れているんじゃないかな?
    ただ、日常を支える足場がどうなっているのか?
    隣りのウチの足場がグラついていたら、ちょっと支えてあげるような心づかい。
    家を建て直すみたいな発想は、政府とかのお偉いさんの発想であって、
    しかし、顔の見える関係でやれることはい、くらでもあると思いますよ。
    それを思い悩む前に、
    千葉、茨城、福島、宮城、岩手、青森のどこかへ
    日常のちょっと延長で、ぷらっと足を運んでしまうのも、
    ありだと思っています。

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