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155ヶ月め

2024 年 2 月 11 日 日曜日


今日は2011年3月11日から4,720日
674週2日
12年11ヶ月
155回目の11日です。

2024年2月11日は大分県別府の鉄輪で壁画制作を行っています。

そんなわけで、このブログは後日書いているのですが、
11日から14日までの作業で、知人が新たにオープンするお店の壁に菜の花を描きました。


ボクよりちょっと先輩の和田さんは、
東日本大震災をきっかけに職を失うも、
その人柄が引き寄せる「出来る」仲間たちの助言を受け、
築地で「おかみ丼々 和田」というお店を始めました。
2012年、和田さんが60歳の時です。

うどん屋での修行で身につけた自慢のお出汁で作るどんぶりメシの店は、
お客様のニーズに応え、良い酒と美味いおばんざいの楽しめる店へと成長。
熱烈なファンを獲得することになります。

しかし、コロナによるパンデミックで足踏み。
やはり多くのお客様の力で持ち堪えるも、
ご自身の人生を考え、2年前に鉄輪へ移住。

この2年間に彼女を慕い鉄輪を訪れる方が急増。
地域の方にも慕われ、協力も得て、
72歳になった今、この地域の新たな拠点として店を、
古い建物をリノベーションし作ることになりました。

築地時代はボクの展覧会によく足を運んでくださり、絵を購入してくれたり、
ボクの友人で、東北での被災から再建した生産者さんと繋がってくれたり。

そんなご縁に対して「店が出来たら絵を描きに行きますよ!」と約束。

さらに、大分に移住した作家で大工仕事もする友人を紹介。

ざっとこんな理由でボクは鉄輪で菜の花の絵を描いているのです。

大国入った友人とは、
東京で大分で、ライブイベントや展覧会などなど、
自分たちが本当に美しいと思える場所作りをしてきました。

東日本大震災の余震で街がグラついていた2011年4月には、
まさに花の絵の展覧会を一緒に作っていたなあ〜。

そんな彼との久々のコラボは、とても嬉しくとても緊張感のあるものです。

また、ボクは和田さんに請われてここに来たのですが、
だからって自分勝手な絵を描くわけにはいかず、
ともかく、関わるみんなとコミュニケーションをとって、
関わるみんなのベストとなるものを作らねばです。

そのために、鉄輪の街を歩き回って、ここがどんな場所なのか、
ここに足を運ぶ人が求めるものがなんであるのかをキャッチ。

そしてまた関わるみんなとの会話。
そこから感じる熱を頼りに答えらしき方に向かって筆を動かしてゆきました。

この作業の背景には「今後能登をどう描けばいいのか?」というエクスキューズが、
渦巻いていたはずです。

2011年3月11日から続けてきたことは、ひたすら考え続けるってことなんだろうか。
いつも同じところをグルグル回っているだけで、
しかし、その時々で出会う人や空の色、道端に咲いてる花なんてものが、
まだまだ考え続けないといけないぜ!と語ってくれて、
そうだね、しょうがねえ、まだまだグルグル考え続けるしかねえな。
と。

和田さんが新たに生きる場所で、
自分のこれからをグルグルと考えることの出来た創作の美しき時間。
ありがとうございました。

店が出来るの、楽しみ!

 

140か月め_塩釜での壁画制作

2022 年 11 月 11 日 金曜日

今日は2011年3月11日から4,263日
609週
11年8ヶ月
140回めの11日です。

10月31日から11月4日まで、
宮城県塩竈市の塩釜水産物仲卸市場の北側の扉への壁画制作を行いました。


震災の津波被害の遭った場所で、長年稼働してきた仲卸市場ですが、
老朽化と世代交代のタイミングで、若手と呼ばれる人たちがこの場所の更新を担うことに。
これまで4つに別れていた運営をグループを1つにまとめ、
課題解決に向けたコミュニケーションのよりオープン化させ、
新たな試みも加えて、10月15日にリニューアルオープンさせた場所。

ボクが懇意にさせてもらっている塩釜のアートシーンの中心人物 高田彩さんが、
この春ここの南口に作家さんと地元の若者たちを結びつけた壁画制作をしていることを知り、
とても良い試みだな〜などと思っていたところ、
次年度予算で北側の入り口にボクを呼び込んでくれました。


その際にオーダーがあったのが、
ボクが過去に同じ構図で2度描いた塩釜の海、「千賀の浦」を飛ぶ鳥たちの絵、
それをこの場所に施してもらいたいとのこと。

ああ、うれしいな〜。

この絵は、ボクが2013年の5月に塩釜で見た風景です。

この年の1月、ボクは震災後の何度めかのフィールドワークで東北を巡り、
旅先で見た「マリンゲートという港の機能が一部再開」のニュースから塩釜に行ってみようと思いました。

そこにはプレハブ建ての復興市場があって、
ボクは共栄丸水産で働く水間さわ子さんと出会います。

とても溌剌としていて気持ちよくて、自分では嫌だなと思っていた
「逆に被災者に元気もらっちゃいました」みたいなことが起きてしまったのです。

そこでラブラブだというご主人を紹介され、
ボクは手持ちのシロツメクサを描いたポストカードを手渡し、
東京にもどりました。

しばらくするとさわ子さんから手紙が届きます。

そこには、保育士となった二十歳の時、不安な気持ちで通学バスに乗る際、足元に咲いたシロツメクサを見て、なんだか励まされたような気持ちになったこと。
震災の直後、何もかも流されてしまった養殖場ある海に出て呆然と空を見上げていると、呑気に飛んでるカモメ(ウミネコか?)の姿が見えて、やはりなんだか大丈夫と思えたこと。
そして、ご自身の今のことと相変わらずラブラブなご主人自慢。そんな自慢のご主人が働く海と5月に塩竈神社に咲く塩竈桜を見に来て、いつか絵にしてくれと。

ボクは彼女と会えたことで、被災ということ、復興の意味、もしくは、被災地と呼ばれる場所にひとりでも友人が出来たら、それはとても豊かなことなんじゃないかという直感を得ました。

で5月、東京から弾き飛ばされるようにして向かった塩釜。

復興市場でさわ子さんを見つけ「ご主人の仕事場を見てくるね〜!」と声かかけて、遊覧船に乗って松島湾へ。
古くは「千賀の浦」と呼ばれた場所で、ボクはかっぱえびせんに群がるウミネコを見ます。

被災と日常が千賀の浦の上で交わって感じられた瞬間。
ボクはこれを描き続ければいいのだろうと確信しました。

彼女はその絵をとても喜んでくれて、
この絵を使ってご家族で営む共栄丸だけでなく、塩竈の復興に役立てたいと考えを持ってくれました。

いくつか具体的なアイデアもあったのですが、
2018年の夏、彼女は急逝してしまいます。

家族のため、地域のためと、ものすごい笑顔と共に頑張っていたんだよね。


今回の壁画制作にあたり、
高田綾さんに共栄丸さんにご挨拶に行きたい旨を伝えたら、
一緒にゆきましょうと。

美人すぎる元気すぎる共栄丸シスターズの洗礼を受けていましたね。

コロナでしばらく来れなかった塩釜で、ボクもお互いの元気を確かめ合い、
さわ子さんが愛してくれた絵を、いわばライバルと言えるような場所に投下する旨を伝えたら、
逆に喜んでくれて快諾をいただきました。

ああ、こういうマインドなんだよね〜、今日本中で必要とされていることは。
(オリンピックの金の流れとか見ちゃうと、特に、、)

で、シスターズ、
「お父さんがアミイゴさんの影響で絵を描き始めちゃって、」なんて言って見せてくれた絵。


きゃーー!
素晴らしい。

お父さん、俺にはこんなん描けないです。

海を愛し海に生きた人だからこそ描けるリアリズム。

近年見た絵の中で一番愛しいかも。

そして、自分がやってきたことでこんな絵が生まれたことに感謝。

都会のなにやら立派な場所で輝くものでは無い、

自分のアートとは、こんな絵が生まれることなんだと、
またまた塩釜で教えられてしまったのです。


共栄丸さん、いつまでも元気で!
また塩釜で会いましょう。

仲卸市場での壁画制作は、
主に市場の閉まる13時から日のかげる16時半くらいの3時間半が勝負。


それまでは扉が開いていて、少なからずの方がここを通ります。

そんなお一人お一人が気持ち良い言葉をボクにかけてくれて、
この作業が行われることに関して、市場で働く多くの人のコンセンサスが取られている事を感じます。


ボクがここで制作することで生まれるコミュニケーションも、
こな市場を再生して行く上での重要な要素なんだと思います。


「被災地」と呼ばれる場所で生きる人の多くは、
あの日からずっと考えるのやめなかった人。
(あらゆる事情で考えることを足踏みする人のことへの想像も忘れずに、)

個人的には東京の(中央の)発想のずっと先を走っているイメージさえあります。

そんな方々が大切にされていることのほとんどは、
風通しの良いコミュニケーションの現場作りではないかと。


若いアイデアが結集され生まれた市場内のフードコートの風通しの良さは、
コンサルタントや代理店の発想では生まれ得ない気持ちよさがあります。

現状はリニューアル・ブーストがかかった状態で、多くのお客様が足を運んでいる状況かと思い、
これを維持してゆくのは大変さも想像出来てしまうのだけど、
だからこそ高田 彩さんはこのタイミングでボクを呼び込んでくれたんだよね。きっと。

いやー、この壁の前でほんと色々な人と会話をしたな〜
その1つ1つが愛しくて仕方ねえぜ、塩竈、宮城、三陸、東日本。


大切な友人も駆けつけてくれたし、ここで友人になれた人もいるし、
さわ子さんとのご家族とは「今でもその辺にさわちゃんがいるよね」と。
この壁がある限り、そして少なくとも自分が生きている限り、
これからも続いてゆくものばかりです。


塩釜を良い方に更新しようと奮闘するみなさん。


そこでアートを翼に軽やかに舞う高田 彩さん。

この場所への導きをありがとう。

綾さんが運営するアートの拠点「ビルド・フルーガス」は、
エスペラント語で「ほら、鳥が飛んでいる…」という意味だそうです。

あらためて、
2011年の春に千賀の浦でさわ子さんが見上げた空を想い、
塩釜で出会った人たちに感謝を深めた壁画制作。

この空、東京へ、日本中へ、世界へと広げてゆきたいです。

 

132ヶ月め

2022 年 3 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から4,018日め、
574週
11年
132回目の11日です。

77年前に東京大空襲があった3月10日。
2022年の今はウクライナで戦争が行われていて、
引き続きコロナ禍ではあるけれど、

2018年から始まった、
渋谷区立富谷小学校に通う生徒と、子どもたちの親と、
学校と、街の人とが、力を出し合い助け合い描く、
代々木八幡ガード下壁画プロジェクト「とみがやモデル」の
一応のフィニッシュの作業を、
2022年の春に卒業する6年生との制作を行いました。


これまでに重ねてセッションは5回。

最後は2年前のコロナ蔓延が深刻化した3月。

この年の卒業生で完成させるイメージでやってきて、
しかし、子どもたちの作業は中止。

それまで子供達がのびのびと、しかしラフに描いたものが宙ぶらりんになっているのがかわいそうで、
大人のボランティアを集めて、子どもたちの描いた22メートル2面の壁面に額縁を与えるようなペイントを施しておきました。

そして2年後の3月10日。

それまでカラフルであったペイントに、
街で暮らす人たちのリズムに合った大らかなタッチを与えよう!
色彩で言えば、色んな色が混じり合ったグレーな壁にしよう!
そして、描かれる絵からなるべく意味を削り落とし、
この壁の前を歩く人にこそ意味があるような壁を目指そう!

そんなことを小学6年生に投げかけてみたら、

すごい壁面が生まれました。


ボクはこの壁画のコンセプトを、
被災した太平洋沿岸部を歩くことで得たはずです。

意味があるとすれば、人の命が不当に失われること無く、
ただそこにあること。

自分の作るものは、そうした人に対して出しゃばること無く、

ただその生を称え、意味もなく美しく存在する、

なにか得体の知れぬ力を宿したもの。

主役は人であり続ければよく、
そのためのより良い手段が見つけられるなら、自分の表現を引っ込めてもいいやって。

自分の子供が産まれ、
1年後に震災が起きて、
自分に何が出来るのかを考え続け、
ひとつは東北に足を向け、
ひとつは今暮らす街で生きることを考え、
自然と地域や学校でやれることにアプローチしていったら、
代々木八幡のガード下の22メートル×2面の壁面に、
子供たちと絵を描く必然にたどり着いた。

関わってくれた何人もの顔が思い浮かぶ壁は、
ここに色を落としていってくれた子供たちが、
将来何か困難に向き合うことがあっても、
12歳の春の日の大きな壁に思いっきり向かってゆけた記憶が、
困難の壁を乗り越える力になるものと信じているし、
自分の命が続く限り、12歳のその後を見守ってゆく約束の壁なんだと考えます。

そして、
東京都渋谷区富ヶ谷の代々木八幡周辺で出来たことは、
他の場所でも出来ることです。

そのため、この壁の名前は『作品名』では無く、
『この壁画作成に関わった人たちはオープンに語り合い最善の喜びを共有出来た』という願いを込めて、
「#とみがやモデル」と名付けました。

ある街に子どもたちが言葉の意味を超えた気持ち良さで描いた絵がある。

街の人は意味無き何か美しきものを前に、心を開き、語るべき言葉を目の前のひとりに手渡す。

自分の思う「復興」のひとつの雛形を、渋谷ローカルで形にしてありますので、
余裕があれば見にこられてみてください。

最後に、

小学6年生だって、きっちりオープンにコミュニケートしたら、
こんな感動の絵のタッチで返事をしてくれる。

そんな人の生む1つのタッチが、いとも簡単に無きものにされてしまうのが、
津波や震災というものであり、戦争というものなんだと、

あれから11年の3月11日に考えています。

そんなことを考え、ちょっと一休みしようと、近所のパン屋、ルヴァンのカフェ”ルシャレ”に入ると、
ここの壁も熱かった。

日本の天然酵母パンのトップランナーの店の壁に掲げられていた言葉、
「パンは目的ではない、手段である」

うん。

「イラストレーションは目的ではない、手段である」

よっし!
いい街に生かされているぜ、俺。