津田大介さんのトークセッションに参加

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昨日は世田谷の梅ヶ丘へ
津田大介さんと語る“子どもの未来~福島支援から~”
と題されたセミナーに参加しました。

トーク&ナビゲート
津田大介(ジャーナリスト/メディアアクティビスト) 

パネラー
宍戸仙助(元福島県伊達市富野小学校長)
高橋真知子(「福島の子どもたちとともに」川崎市民の会代表)
上國料竜太(NPO移動保育プロジェクト)

ゲスト
保坂展人(世田谷区長)

主催:福島の子どもたちとともに・世田谷の会

震災&原発事故後「保養「移動教育」「移動保育」といった活動を通し、
福島県に暮らす子どもたちをケアするアクションを行い、
その後の社会のあり方、特に子育てのあるべき姿を探ってきた方々の経験を、
津田さんが引き出し、言葉の純度を高めるようなトークセッション。

ボクは個人的なアクションで支援のあり方を模索してきた
移動保育プロジェクトを主催される上國料さんに初めてお会いするチャンスと、

現在の絵の制作やアクションのきっかけのひとつとなった、
震災3ヶ月後に参加した津田さん主催で福島県豊間で開催された
ボランティア企画SHARE FUKUSHIMA
そこで感じたことの3年半後の意味を津田さんのお考えから探ってみられたらと思い、
参加することにしました。

2011年6月11日「福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと」

福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと

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トークセッションで津田さんが提示したテーマは“情報のギャップ”

何らかなの問題に関する情報が、それぞれの家庭環境や教育水準、
普段接する情報媒体などによって偏在し、結果的に本来伝わるべき
情報が有効に伝わっていない状況があること。

「子どもの未来」というテーマで参加してみたら、
今一番気になるテーマが浮上してました。

もっとも、それぞれの現場で奮闘されてきたパネラーのみなさんは、
まずはご自身の経験やお考えを伝えようとされる必死さが勝るようで、
トークセッションとしては“情報のギャップ”の芯を食う感じではなかったはず。

しかし、この状況こそが“情報のギャップ”の断面のようであり、
交差する言葉を追うことはとても刺激的な作業でした。

「恐怖」を口に出来ない社会になりつつある今、
うーん、なにをもってして風穴を空けてゆけばいいんだろうか?
そんな閉塞的な社会の現実も見えてきたトークセッション。

そんな中にあって上國料さんの言葉にはある種のユルさがあり、
ユルさから生まれる隙間は、
ボクの想像力が呼吸できる余地を与えてくれてるように思いました。

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鹿児島県出身で学生時代から福島で生活をされてきた上國料さん。

九州出身者らしい、良い意味でアバウトな部分というのが、
移動保育というなかなかタフな活動を長期に続けてゆく負荷の
緩衝材になっているような。

そもそも移動保育を始めた理由は「必要」からだそうで、
結果を設定して構築していったことというより、
必要が生む衝動から生まれたアクションだからこそ、
その途上で出会う想定外の事象に一個一個向き合い、
場合によっては跳ね返されたりしながら今がある。

その活動、もしくは上國料さんというパーソナルを知ることは、
2011年3月11日以降を生きる自分を知るきっかけになるんじゃないか?
なんていう実感。

ボクは「Peaceてぬぐい」というアクションで移動保育を取り上げましたが
https://www.facebook.com/peacetenugui?ref=aymt_homepage_panel

その拠点を長崎の諫早のオレンジスパイスさんにお願いしたこと、
その先に上國料さんという個性に出会ってもらえること、
ご本人お会いすることでその意味がバチッと像を結んだように思いました。

震災からもうすぐ4年。

義援、支援、という季節を超え、
共に考え行動に変えてゆけることが発見できる今。

あらためてボクたちは被災地でのアクションから学ぶこともできれば、
共に考えることもできるはずです。

そんなボクの考えは、
津田さんもセミナーのまとめの部分でさらに明快な言葉にしてくれていたし、
さらには、こういったことは政治に任せている場合ではなく、
民間、というか、1人ひとりのアクションでやってゆくことだということ、
会場に集まったみなさんと共有出来たように思います。

もっとも、ここに集まった100名からの人は
「もともとそれを出来てる人」
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ボクが出会ってきた多くの人は
未だに震災や原発事故に対する無力感の中で光を探しています。

以下いくつか感じたことを

*「被災地」と呼ばれる土地を巡ることの中には、
誤解を恐れず言えば
「癒し」の要素が少なからずあるように感じています。

それは被災地に足繁く通う1人ひとりとの会話から感じらるマインド。

震災の悲惨さを目の前にして「なにかしなくちゃ」と感じても、
「プロジェクト」や「アクション」なんて
立派な言葉に負けてしまう人ってかなりいるはずです。

しかし初めから立派なことは求めず、
目的さえ持たず失われてしまった土地を目指すことは
もちろん間違いでは無いし、
そこで出会う人や自然に「癒し」を感じてしまっても、
それはごく当たり前のこと。

なので、
ともかく今からでも遅くないので「被災地」と呼ばれる土地に
行ってみたら良いと思います。

そこで心が開かれるか問題を抱えるか、
どっちにしても自分の「ひとり」の大きさを知り、
その先で必然を見つけたら
「保養」や「移動教室」のサポートなどに関わる。

そんな段階を踏むことが4年後に始まっても、
ちっとも遅いことでは無いし、
むしろ今こそ必要なはずです。

*今回のセミナーで度々発せられた言葉「子ども」「おかあさん」
では「オヤジ」はなにしてるのか?なにをするべきか?
そんな質問を投げてみました。

みなさんの回答は「もっと母子に寄り添ってやってくれ」というものでした。

もちろん世の中のお父さんは必死で働いて家族を支えています。
それを実感した上で、それにしても元気無くないか?オヤジ、
つか、男ども。

以下ボクの持論ですが、
こういったアクションにもっと「オヤジの活用」の余地を与えたらどうかなと。

それもただのオヤジではなく「バカオヤジ」

今や絶滅危惧種になっている「バカオヤジ」ですが、
たとえば子どもを保養キャンプで線量の低い草むらに連れていったとして、
そこでなにかを「教える」前に我慢できず草むらを転げ回ってしまうようなバカ。

そんなバカを見て子どももスイッチが入るし、
おかあさん方は草原でどこまでバカが許されるのか測ることが出来ます。

ボクたちが子どもたちを前につい口にしてしまう
「自由に」「子どもらしく」なんて言葉、
しかし、その本質がなんであるかなんて分かっているオトナ
ボクも含めほとんどいないでしょ?

おかあさんは本能的にお子さんを守る立場にあり、
今は閉塞感のある社会の中で力を合わせて
「どうにかしよう」というアクションを各地で生んでます。

そんな真摯な活動の現場創りの中、
ともかく悪い部分はバカオヤジの責任にできたら、
もっと風通しの良いコミュニケーションが生まれるはずだし、
男ももはやカッコつけてる場合ではなく、
子どもの未来のためにバカを晒す勇気が持てたらだなあと。

そんなバカ晒しのきっかけを作ってゆくことも、
個人的にやってゆこうと思いました。

で!
おかあさんが涙することがあれば、
何も言わず抱きしめてやりゃーいいだけだぜ!

などと言い続けるバカオヤジは
俺だ。

(!)「バカ」という言葉を
人の感情を表す思いつく限りの言葉と差し替えて
読んでみたら面白いかもです。

*「保養」「移動教室」「移動保育」
ボクにはもはや一般名詞として当たり前のものだけど、
実際には知っている人は限られていますよね。

こういったアクションに参加、もしくは触れることは、
次の社会創りのアイデアに触れることでもあり、
もっともっとオープンなものになってゆけば良いはずですが、
その入り口、
たとえばウエッブサイトでもSNSでもポスターやチラシでも、
もっとデザインやイラストレーションの活用をしてもらいたい。

ほんとちょっとした部分で社会との親和性が高まり、
間口がグッと広がります。

ボクたちはきっと
「思い」を「丁寧に手作り」し「手渡し」することで
大切なことが伝わると信じているはずですが、

ボクが思うに、
「思い」をシェアし言葉を交わし整理して
「丁寧な」コミュニケーションでデザインに落とし込み
予算等の条件の中最良の方法で「手作り」して
「手渡し」のマインドを忘れず
それを必要とするより多くの方に伝えてゆく。

文章は長くなりましたが、
実はほんとちょっとした一言、一仕事を加えるだけの話です。

「子どもたちの未来」を考えることで、
「デザインのスキル」も向上させ、
私たちの生活がより輝くものになった。

そんな二兎を追ったらいいんだと思います。

そういうことが出来るよう、クリエイターと呼ばれる人も
技術や素材をオープンに提供出来るような発想が出来ないかな
なんてことを思いました。

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長いブログになってしまいましたが、
最後に2011年6月11日からのこと。

福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと

ボクは2011年6月11日に開催されたボランティア企画で
福島県の豊間に初めて行ったのだけど、
それが津田さんが企画されたものであり、
ライブも行われることも知らずに申し込んだわけで、

そうやって行ってみると
企画に対する少なからずの疑問を感じたりもしたんだよね。

ただ、疑問を感じるということは、
被災の現場という月面に放り出されたような状況の中で思考停止になっていた
テメエの脳みそが動き出すということ。

そうすることで、2ヶ月後には同じ場所を自分の足で歩いてみたし、
他の土地へもどんどん進んでゆくようになった。

そうして自分も、そしてきっと社会も必要とするであろう絵を描いた。

昨日のセミナーで津田さんは、
このSHARE FUKUSHIMAのことも語られたけど、
なるほど、彼にとっても震災後の積極的なアクションの1発目だったんだと。

観念的に企画しても、現場ではなにが起こるかわからない。
しかし、ともかく一歩を踏み出してみた。

そんな中でボクは確実に「次」を拾って帰れたんだなあと。
この企画に参加出来たことの意味を確認。

セミナーでの津田さんは「発信者」というイメージ以上に「聞き上手な人」

なるほど、ボランティア企画に参加したボクは、
あれから3年半ずっとアンサーを求められていたわけで、

あらためて、2011年6月11日に「ごく個人的に考えたこと」は
さらに自分の中で生かし続けてゆこうと思いました。
 
以下、
上記リンクのブログでは書かず、
mixi(!)のクローズされた中で言葉にしたこと、
津田さんと再会した3年半後の今、解凍してみます。
(!)最後に先ほど津田さんからTwitter上でご指摘をいただいた一文を添えてます

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先週の土曜日
6月11日に福島県いわき市豊間に行って来たこと
ブログにまとめてみました

福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと

で、
実は

ボランティア清掃の時間として準備されていたのは
40分ほどのもので

町への義援金授与にはわざわざのセレモニーがあって
そこに参加者全員が集められて
なぜか蓮舫も現れて
その一部始終が映像で記録されて

ライブは崩壊したセブンイレブンがステージ
車も通る道路を挟んで黄色いロープで囲まれた地べたが客席
それをユーストとニコ動でネット配信

七尾旅人くんがダブ処理で津波っぽい音を再現
地元のばあちゃんがホンモノの津波を思い出して泣き出して帰っちまってね、、

そんな流れの演出の中で黙祷

ボクはその一部始終とは別にガラス拾いをしてたんだけど
「黙祷には参加してくれ」みたいな、、

本心としては
ボランティアをしている中で「その時」が来て
ただ静かに目をつむりたかったけど

しょうがねえ
集団黙祷に参加してみたら
あらゆる方向からカメラのシャッター音を浴びながらの黙祷で
黙祷の終わりのサインが
またまたダブの音がシュワシュワシュワみたく押し寄せてきて
恐えーのなんの、、

音楽、いらねえねえ~、
風の音や野鳥のなく声、車が通り過ぎる音でもいい、
ともかくその土地の音が聞きたいな、とね

いやいや、七尾旅人くんはただ無垢なだけだであり
東京から行った若い人にとっては
イマジネーションを喚起するにありあまる表現だったはず

しかし
3ヶ月後の地元の方を笑顔に出来る種類の表現ではなかった

で、
ライブを抜けて被災地を歩いてみたら、
ツアーとして案内された場所では想像もつかないほどヒドい現場があって、
そこを見なきゃダメだろうって、、

帰ってライブが終わると記念撮影だって
もちろんそんな気持にはなれないでいたので
離れて見ていたら
「みなさーん、いい顔してー」「ハイチーズ!」だって

ただ、
それだけ「違うな」と思ったツアーだでも
ボクよりずっと若い人には確実な1歩になったはずだし

主催者や政治に携わる人には
なんらかのパフォーマンスは必要なことだろうし

そもそも
参加費1人10000円
合計で100万円が寄付されたのは事実だし

ボクにとっても
東京の若い人と地元の方とを並べて見る事で
何が今必要なのか見えたりもしたし

自分のイマジネーションの働かせ方次第では
発見することばかり

でもまあ、
ボクがこういうことやるとしたら、
坂本冬美さんをブッキングしただろね

そんなこんなをツイッターで

・義援は静かに行うべし

・黙祷に演出はいらねえ。そんな当たり前を被災地で確認。

・分かったふりしねえ。分かった口たたかねえ。思考停止にならねえ。
 コミュニケーションを続ける。そんな当たり前を被災地で思い知る。

なんてつぶやいたら

さっそく

>出た!説教でなんちゃらするヤツ

>被災を前に民主主義をどうたらこうたら、ハッハッハ

とかな
ただただ暴力的に揶揄するツイートくらって

で!!

たりめーだ!バカ野郎!!
テメーみてーなバカチンのガキが想像力欠如のままで
義援もなんも自分探しの先のつまらねえ自己表現にしちまわねえよう
説教してんだ、バカ!

と思いました。

すくなくとも
自分の息子が義援金寄付したこと自慢げに話してたら
「みっともねーことするな!」ってはり倒します

しかしつくづく
被災の事実はネットで配信出来ねえ

もちろん
その無力感に押しつぶされながら
自分もキーボード叩いているんだ

2011年1月20日9時23分追記
津田さんからのTwitter上で頂いた返信
ありがとうごさいます。ライブで泣かれた老婆の方はあのセブンイレブン店長さんのお母様です。津波のフラッシュバックというより旅人くんの表現に心が動かされたと聞きました。あの時あそこにいた人がどんなことを考えていたのか聞きたかったのでありがたいです。

+++

以上。

セミナーでは津田さんが当時どんな心情と経緯で
この企画を動かしていったのか語るに触れることが出来、
当時の直感で殴り書いたmixiのブログと実際とで違いのあることがわかりました。

それでも2011年6月に直感的な心情を語る言葉を残しておいたことは、
2015年1月に考えを深める起爆剤となり、

『つくづく被災の事実はネットで配信出来ねえ』という心情は、
3年半の時の中で
『それでも知恵を出し合い工夫すれば、パーソナルな被災の断片は共有出来る』
というところまで変化してきたことに気付きました。

これからもそう出来るように、
イガイガした心情のアウトプットって必要なことで、
「絵にはそんなことを促す力があるぞ!」という確信も持てている
3年半後のボクです。

2015
0118
PEACE!!

コメント / トラックバック 2 件

  1. 上國料竜太 より:

    ありがとうございます。
    いくら考えても他に イイ言葉が見当たらず…
    何度も読ませていただきました。
    PEACE!!

  2. 小池アミイゴ より:

    >上國料竜太さん。
    先日はまずはお会いできたこと、とてもうれしかったです。
    立ち話でもなんでも、もうちょっと話をできたかもしれませんが、
    その前にこのい会のことや、自身の過去から繋がることなど、
    言葉にしておいた方が良いなと思い、ブログを書くことを優先させました。

    間違いや思い違いを多く含んだものでしかありませんが、
    このジャンクな言葉の山から「使える」ものを削り出してゆけるよう、
    あらためて、これからもご縁をよろしくお願いいたします。

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