豊間2014夏
去年の8月15日に続き、震災以降では4度目。
福島県いわき市の郊外、
高久の田園地帯から太平洋岸の塩屋崎から豊間にかけては、
東日本の定点観測ポイントの1つとして定着した感じ。
猛暑の中、高久の田園風景の中を歩いていると、
スッと涼しい風が通り抜けることがあって、
それは海からの風、大平洋を間近に感じさせるものです。
震災から4年目の夏。
米は今まで以上に元気に育っている印象でした。
震災で封鎖されていた塩屋崎灯台は、
一番上、ライトのすぐ下の展望台まで登れるようになっていました。
そこから眺める被災地域、そして大平洋。
海はどこまでもデカく、
ボクの手に負えるものではないと思い、
ボクはやはり、ヒトリが失われる、ヒトリが生きる、
その意味を探り続けるための
表現を続けてゆくしかないなあ〜と思いました。
終戦の5日前、
塩屋崎の灯台は米軍の攻撃に遭い、
灯台守の青年ヒトリが殉職したそうです。
そんなヒトリを失わせてしまうエネルギーは、
もっと別のこと、
笑顔をもって平和を維持してゆくことに
使ってゆかねばならないこと、
灯台の上で足をすくませながら痛感しました。
それにしたって、海も空もデカくて、
ボクらはそのごく限られた隙間に行きていて、
こういう考えは不謹慎かもしれないけれど、
海が10m、15mって盛り上がって浜に押し寄せてくるってことは、
海にとってはごく些細な、気まぐれのようなことであり、
しかし、人間にとっては決定的な危機であり、
そんなものに抗って生きることに
人類は成長を感じてきたのかもしれないけれど、
そんなものと調和しながら、
負けは負けと認めた上で必要なチャレンジ重ねてゆく、
そんな生きる知恵を、海と共に行きてきた人たちは持っていた、
いやいや、持ってるはずだなあ〜なんて、
やはり灯台の上から想像を働かせてみました。
豊間のビーチは、震災直後から比べたら、
地盤沈下で失われた砂浜が戻ってきたような。
実際に鳴き砂が戻ってきたという
地元の方の声もあり、
自然の力は、単に破壊だけではないんだって、
今まで以上にその美しさに心奪われたビーチを眺め
そう思いました。
視線を転じると、
大規模な護岸工事や、
うずたかく積まれた波消しブロックが目に入ってきます。
その向こう側、
人の暮らす領分は、相変わらず手付かずの「被災地域」
いや、新たに家を建て暮らし始めている方も、
ポツリポツリとあるのですが、
それでも海沿いには人の暮らさぬ空間がドンと置かれたまま、
雑草がその悲惨さを覆ってしまっていて、
今もし初めてこの土地を訪れたとしたら、
ボクはこの土地からなにを感じるのか?
そんなことの想像が難しくなってきたような、
もちろん、細部を1つひとつ見てゆけば、
被災の記憶に繋がるものばかりだけれど、
残念ながら、
人はそれほど立ち止まってものを見たりはしないし、
大切な記憶は徐々に沖へと流されてゆくような実感。
だからこそ、日々の意識を持って、
この場所で時が止まってしまったままでいる
1人ひとりへの想像力を働かせてゆかないと、
ほんとに大切なものを失ってしまうんだって、
危機感をもって感じた
震災から4回めの夏の風景でありました。
お盆の時期、
家だった場所を訪れる何組かのご家族とすれ違い、
遠くからは、新盆の供養として行われる
じゃんがら念仏踊りの鐘と太鼓の音が聞こえてくる。
「ゴ」という大平洋からの風の音、
その倍音を増幅させボクに迫ってくる波。
それに挑むサーファーたちは、
波に負けることも含め
その莫大な力を楽しんでいるんだと思った。
そこは悲劇の場所として記憶されてゆく土地ではあるけれど、
真夏のある日に出合った人たちは、
人としての弱さを受け入れた上で、
空と海と地べたの間で美しく存在しているように感じました。
それにしたって、
何度も描いてきたこの場所だけど、
まだなにも描けていない!
空と海と地べたとそこに暮らす人たちの姿に
ガツンと一発食らった真夏の日。
空と海と地べたの間で細々と生きざるを得ない人間の、
こんなささやかな日々が、戦争のようなものに不当に奪われることのないよう、
さらに想像力を働かせたものを創ってゆかねばだと思いました。