‘3月11日からの備忘録’ カテゴリーのアーカイブ

124ヶ月め

2021 年 7 月 11 日 日曜日

今日は2011年3月11日から3,775日
539週2日
10年4ヶ月
124回めの11日です。

先月の東北フィールドワーク後、
東北で10年かけて積み重ねられてきた地域作りの知恵を、
東京での暮らしの中に落とし込むことを考えています。

対話と共有から得られる新鮮で確かな発想。

もちろん上手くいったことも上手くゆかなかったこともるわけで、
これからも東北のチャレンジは続き、ボクはそれを追いかけてゆくつもりです。

東京はオリンピックが目の前に迫り、しかしコロナの感染は収束せず、
ワクチン接種を進めながら4度目の緊急事態宣言が発出される状況にあります。

東北では今でも、テレビでも新聞でも人の間でも「震災からの復興」ということが語られていますが、
東京では復興とオリンピックが一括りにされてしまったことで、
復興の本質がなんであるのか、思考停止になってしまったように感じました。

NHKの連続テレビ小説は、震災から10年目の今年、あらためて被災をテーマに組み込み、
復興というものがどんな姿であるのか、改めて考えるチャンスを作ってくれてるけれどね。

「復興」という言葉がかかるのは、
社会的インフラ、システム、生活、心、などなど多岐にわたり、
ひとつの価値観で語れるものではありません。

「復興」と思ってやったことも、
ある人にとっては「復旧」でしかなかったりもします。

「復興って何?」を考えることはとても大変なんだけど、
だからこそ日本の社会全体の問題として、1人ひとりそれぞれの場所で、それぞれのサイズ感で、
考え続けてゆくことで「世の中をより生きやすいものに育ててゆこう!」

でないと、失われた命に対して申し訳が立たない。

ボクはそんな考えでいました。

そんな考えのもと、自分の暮らす渋谷区ローカルの活動に参加するようになってみると、
実は自治体レベルでは、震災から学んだことが細部に落とし込まれていることに気づく。

が、いわゆる「普通に暮らし」「普通にメディアに接している」だけだど、
多くのことを見落とすようなことになっている。

これはなんだろうな。
なんだかとてももったいない。

2013年5月、オリンピック開催が東京に決まった瞬間、
招致委員と呼んでいいのかな、そんな人たちが一斉に立ち上がり喜びを爆発させた姿を、
テレビの画面で見て、
オリンピック開催はそこまで喜びを爆発させることなんだと、少なからずの違和感と共に思い、
さらには、
震災から2年2ヶ月のタイミングで、まったく万歳な気持ちになれない自分がいてね。

「復興した姿を世界の人に見てもらえるオリンピックにする」と語られたことは、
国や委員会に委ねることでは無く、個人レベルでも検証続ける必要があると。

その日のSNSには、
オリンピックが東京に決まったことで、自分の仕事が増えることもあるだろう。
しかし、それで浮かれることなく、見るべきものを見続けてゆかねば思う。

みたいなことを書いたなあ。

たとえば、復興庁のHPを見ると、
大きく「復興五輪とは」と書かれ、
2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を機会に、復興しつつある被災地の姿や魅力を国内外に発信することで、被災地の方々を勇気付け、復興を後押しすることが我々の使命の一つです。
などと続きます。

社会的インフラが復旧し、さらに復興道路のようなものが新たに整備され、
人の行き来がスムースになり。経済活動が活発になるとともに、
インバウンドの呼び込みがスムースに行われ、経済的豊かさが高まり、
そうした経済サークルに関わる人々の生きがいが高まる。

そんな理屈や構図は良くわかる。

が、それだけじゃないよな。

人の生き方、人との繋がり方、そこから生まれる地域の姿、
地域と地域の連携、ITやグローバルとの繋がり方、などなど、

人が生きてゆけるためになにが出来るのか?
未曾有といわれ、かつて経験したことのないと語られる状況から、
新たな社会を創ってゆくこと。

そうしたことに、
「掛け値無しに良いこと」と信じてやまないオリンピックを手にた
おじさんおばさんたちの思考や目は曇らなかっただろうか?

ボクは2016年オリンッピクに日本が立候補した際の計画、
「史上最もコンパクトな大会」に期待するものがあったし、
旧国立競技場はそのままに、晴海にメインスタジアムを建設する計画は、
ポジティブに捉えていたのだけどなあ。

その後東日本大震災があり、
社会のあり方をみんなものすごいエネルギーで考えていたはずの2013年、
2020のオリンピックが「TOKYO」とアナウンスされた瞬間の、
テレビの向こうで喜びを爆発させるおじさんおばさんたちは、
どこからやってきた人たちなのか、あの瞬間見失ったもの、
もしくは「見失なわされたもの」はなんだろう?
その喜びの背景にあるものは、社会や個人にシェア出来ているのだろうか?
それを共有する努力をすること無く、
「復興」をなにか都合の良い言葉として利用してしまってはいないか?

その後、
「え?国立競技場ってこうなるの??」
「え?このシンボルマークどう決まったの??」
「え?オリンピックのキャラクターって、、」
「え?ポリンピックのぽすたーって、、」
「え?オリンピックの予算てこんなに膨らむの??」
「え?女性は話が長いの??」
「え?開会式はブタが??そんなことないよね、、」

「え?聖火リレーって、スポンサーのバスが先導してくるの??」
などなど、聞いてないよ〜なことばかり。

そして、
「オリンピックってこんなにおじさん臭いものだったけ?」

これは良いことだからやるべきことをやる。

オリンピックをとりまく数々のことが、
なんだか、ほんと老けたものに見えちゃうんだよね。

それはきっと日本の社会の中でオリンピックは
きっちり56年の年齢を重ねてしまったということなんだろう。

それはボクが実際に東北で出会う「復興」ってことと、
とても生合成が悪く見える。

身近で言えば、
「スポーツの力で日本を元気に!」と叫ばれる割に、
子どもたちが駆け回る公園やサッカーグラウンドが閉鎖され、
オリンピック関連の施設に変えられているのを見て、

もしまたオリンピックを誘致するようなことがあれば、
最高峰のアスリートが競い合うすぐ側で、
子どもたちも走り回れるようなものを目指してもらいたいな。

そのためにも、今のIOCが主催するオリンピックは、
一度終わりにする必要があると思う。

123ヶ月め

2021 年 6 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から3,745日
535週
10年3ヶ月
123回めの11日です。

6月2日、福島県の郡山市の”みどり書房”さんから頂いた絵本の原画展のご縁に答え、
PCR検査陰性を確認した上で、設営に向かいました。

初めて展覧会を開催するという書店のみなさんとボクとで、
現場作りのスキルアップをするってことに意味を感じたので、
ともかく現場へ。

その後、仕事でご縁をいただいている医療法人社団進興会さんの、
宮城県仙台市にある”せんだい総合健診クリニック”で、人生初人間ドックを受診。

ならばと、連載をしている旅のエッセイの取材をしようと、
4年半ぶりの気仙沼の唐桑へ。

いつもは東北新幹線で一関乗り換え大船渡線向かう気仙沼ですが、
今回は復興道路と呼ばれる高速道路、
三陸道の仙台-気仙沼間が開通しているとのことで、
高速バスを利用してみました。

利用した印象は「気仙沼は近くなったなあ〜」です。

震災後知り合った友人たちと久々の再会を果たし、
会話のほとんどを占める他愛も無い話で笑い、
しかし、会話の中に絶えず挟み込まれる「震災から10年のリアル」に頷き、
コロナはほんと大変だよねと、慰め合う。

あれから10年の気仙沼を歩き、みんなの今を確認。

10年頑張ってきて、「よし!」と思い踏み出せたタイミングで、
コロナで足踏みを余儀無くされる苦しさ。
ボクは無力な存在ですが、まずは共有したので、
今後はアイデアを交換してゆきましょう!

そこからさらに陸前高田、大船渡と北上。


陸前高田では、東日本大震災津波伝承館へ。
この国の作った施設と、たとえば、気仙沼市が運営する東日本大震災遺構・伝承館との、
存在意義の微妙な違いを肌で感じつつも、
あれから10年の今、心はまだ静けさと共に祈る気持ちで支配されるのだなあと思い知る。

初めましての土地大船渡は、
東京で知り合った大船渡育ちの女性の、大船渡への愛と喪失の言葉を頼りに、
ともかく自分の足で歩いてみることをしてみました。

中学生の春、彼女が心に刻んだものは、消えてしまようものでは無く、
今もその時で止まっていることばかりでもあろうけれど、
だからこそ救えるもの、生かすことの出来ることはあるんだろうと、

未だ復興の石鎚が鳴り響くリアスの街を包む、
懐の深い美しき自然が与えてくれる優しさと強さから直感しました。

小笠原満男さんが中心となり尽力し造ったサッカーグラウンドにも出会えた。
なるほど「誰が造った」なんて言葉はどこにも書かれていない、美しいグラウンド。
俺の満男、紛れもなくいい漢です。


そして宮古。
なんども利用している三陸鉄道も、南リアス線は初めて。

2年ぶりの宮古駅を降り立つと、
懐かしいという気持ち以上に、なんだが元気そうに見えるぞ!という、
震災直後では感じられなかった”華やかさ”なんてものを感じました。

それでも、いつも立ち寄る食堂は、ゴリゴリのコロナ対策での営業で、
10年頑張ってきて、今回のコロナは、やはり厳しいのだろうなと思うばかり。

旅の最後の目的は井戸。

岩手県沿岸部のすべての町から映画館が消えてしまったことを受けて立ち上がった、
古い酒蔵を利用し、映画を上映し、地域コミュニティの核を創ろうとするプロジェクト、
シネマ・デ・アエルのコアメンバーが新たに企画した、
「街に”井戸端”を復活させよう!」というクラウドファンディングを利用し達成したプロジェクト。
その井戸を見ることです。

この日偶然にもプロジェクトの代表の有坂さんに会うことが出来て、
こうしたプロジェクトの意義なんてものをあれこれ聞かせてもらえました。

そこで語られることのほとんど全てには「対話と共有」という原則が通底しています。

この「対話と共有」は、この旅を通して聞こえてきて、ボクも繰り返し使った言葉でした。

議論以前に対話。
決定の前に共有。

人間の力の及ばの震災というものを経験し、
社会での経験値や職業、もしくは政治信条なんてものも違う人たちすべての命が尊重され、
新たな社会を創ってゆかねばならない。

そんな状況に直面し、最適解を求め続けた東北の人たちは、
幼い発想で開催されるオリンピックでどうにかなってしまっている東京より、
確実に10年先の未来を生きていると思えた今回です。

たとえば、
・巨大防潮堤が造られる。
・砂浜が失われるのは身を切られるような思いだ。
・ならば、防潮堤のデザインを砂浜が失われるものに変えよう。

対話と共有をサボることなく重ねた結果、
ボクのようなものから見たら、なんて美しい風景なんだと思えるビーチが生まれた。

気仙沼の大谷海岸は”おもてなし”のTOKYOが本来目指すべき未来だと思いました。

あらためて、
復興とは元に形に戻すのでは無く、
みんなが願う未来を創造することなのではないかと。

それは、あの日から10年の今から始められることも多いぞ!と思った今回。

復興のお金が土木にばかり流れることに違和感を感じるも、
三陸を貫く高速道路には確かな意義を見つける。
ならばこれをどう使っていったら良いのかを考える余地を、
東北の人は握っているように見えました。

そんなちょっと未来の東北では、
イラストレーションやデザインがもっと必要とされるし、
そんな必然に答えられるものを作らなくちゃと思ったのです。

そんな話の続きは、9月ごろ絵と一緒にまとめてみますね〜

福島県いわき市豊間でごく個人的に考えたこと

2011 年 6 月 14 日 火曜日


6月11日土曜日6時30分、
東京駅八重洲南口近くの駐車場に集合。

高速バス2台を駆って、福島県いわき市の豊間という土地を目指す、
震災ボランティア体験とLIVEがセットされたツアーに参加。

1万円の参加費は、全額豊間に義援金として寄付されます。

土砂降りの雨の中、時間通りに駐車場に着くと、
すでに多くの参加者が傘をさし、思い詰めたような表情をして待っていました。


7時20分出発。

首都高箱崎ジャンクションを抜けるまでは、いつもの渋滞。
常磐自動車道に入るとスムースに流れ始めます。

震災から3ヶ月後の土曜日、
『被災地に向けた車列の緊迫感や熱』を想像していたけれど、
上下線とも「こんなものか」と思われる通行量の少なさ。

その意味をぼんやりと考えている中、
参加者の自己紹介がスタート。

この企画は津田大介さんのプロデュースであり、
ツイッターで情報を手にし参加されたという学生さんが多く参加していました。
みなさん一応に”深い意気込み”を確かなコトバで語られていて、
この企画を自身のこれからの活動のきっかけにしてゆこうとする、
熱い気持が伝わってきました。


茨城県に入りしばらくすると、
未だに屋根にブルーシートのかかった民家を多く見ることになります。

そんな痛々しい点景を、
田植えの終わった緑色のみずみずしい風景が包み込む。

そんなのどかな景色が、100km先のいわき市まで繋がっていました。

人の手の回わり切らぬ被災の現実と、
どうしようもなく廻ってくる自然のサイクル。

放射能は人間社会にとって重大な障害であっても、
自然を相手にした人の営みのスベテを支配するものでは無い。
その事実がバスの車窓の外を小気味良く流れてゆきます。

「米、育てよ〜!」
「無事に出荷されろよ〜!」

雨も小降りに変わり空が明るくなってきました。

3時間ちょっと走り、高速を降りていわき市内へ。

バイパス沿いの工場や火力発電所はどこもフル稼働のイメージで、
煙突から白い煙を吹き上げています。

小雨の降る交差点で、2人の男の子が自転車にまたがったまま、
信号が変わるのを待っているのを見ました。

この日発表されたいわき市の放射線量は、
0.20マイクロシーベルト。

東京新宿が0.0598マイクロシーベルト。

この数字の意味を考えるのは、目的地に着いてからにしました。

しばらく行くと、日本中どこへ行っても出会う事の出来る景色。
ファミレスやDIY系の量販店や中古車販売店などが、いくつも軒を連ねる地域を通過。

常磐道とは一転、軽自動車が連なるバイパスを徐行するように走るバス。

東京でみられる「がんばろう」的なスローガンを出しているのが、
1店舗だけだったのにちょっと驚いたのですが、

その意味も津波被害に遭った目的地に着いて、改めて考えてみることにしました。

バイパスを左折、山道風情の切り通しや短いトンネルを抜けると、
景色は海の匂い。

福島県いわき市豊間(とよま)地区に到着

大きな地図で見る

太平洋に面し、なだらかな山が海岸線近くまで迫る、
南の合磯崎から北の塩屋崎まで、大きく弧を描く2kmほどのビーチを有する土地。

高速道路や常磐線といった幹線から離れ、近隣の漁港から揚がる海産物の加工場が点在。
わずかな土地を有効に使い米作も行われています。

福島第一原発から南に49km。

そんな土地の、住民の生活圏の85%が地震と津波で壊滅。

こちらの集落では80名からが犠牲になり、
向うでは100数十名が犠牲。
未だに発見されていない方も多く…
など、など、など。

しかし、かつて街だった場所を案内されても、
ボクはこの土地の3月11日14時46分以前の姿を知らず。

無惨に破壊された家や瓦礫の山を見ても、
それは1つの景色でしかなく…

そこにどんな痛みや悲しみが今も置かれているのか、
想像すら出来ず。

あらためて自分の心を探ってみても、
感情というものが涌いて来ないのでした。

間違いなく”感情”はこの土地で生活を重ねられてこられた方々のもの。

この土地に至る直前のバイパスで、「がんばろう」などのスローガンに出会わなかったのは、
この土地が未だに震災の真っただ中にあるからなんだと思いました。

ボクは豊間でかなりの枚数の写真を撮り、
その中には破壊された家も多く写っているのですが、
それをここで発表するのはボクの役割では無いように思います。

ただ、
感情とは別の部分の肌感覚。

風がどうとか、陽の光がどうとか、
そんなのを頼りに出会った景色を並べてみます。

この日のメインとなったのは、
渋谷慶一郎さんと七尾旅人さんのライブ。

津波の被害で鉄骨だけになったセブンイレブン。

それでも商売を再開された方々の心意気が、
津田大介さんを動かし、イベントを立案実行。

そんな現場を舞台にしたLIVEは、
2週間ほどの準備期間で当日を迎えたそうです。

区長さんやセブンイレブンの店主さんは、
「3ヶ月経ち、ともかく楽しいことに切り替えてゆきたい」との旨をスピーチ。

清掃ボランティアをする前に、被災地の一部を案内され、
被災の現実をコトバとして伝えて頂けました。

豊間のビーチはサーフィンの大きな大会が行われてきた場所。

今は堤防のすぐそばで波の立つのが見えるけど、
震災前は沖合の方まで“鳴き砂”の美しい砂浜が広がっていたそうです。

しかし、地盤沈下でその砂浜が失われてしまったとのこと。

それを語る区長さんの表情は、
『土地の方が犠牲になった悲痛さを簡単に説明してしまわぬよう』
凛とした姿で語られていたのとは打って変わって、
“町民の誇りであった美しい浜を失ってしまった淋しさ”が滲み出た表情をされていて、
それは決して「楽しい」に切り替わろうとしている人のものには見えなかったです。

ボランティア体験として街区の清掃作業が始まると、

ボクは区長さんの記憶の中にある豊間のビーチを想像して、
ならば、
『ここがまた美しいビーチに戻り、サーファーや海水浴に来たコドモたちが歩いた時足をケガをしないよう』
ガラスの破片を集めることにしました


清掃ボランティアの時間はあっという間で、
義援金受け渡しのセレモニーを経て、LIVEスタート。

しかし、イベントを目指して地元のコドモたちが集まっていたので、
その足元の安全確保のため、通りから駐車場、ライブ会場までと、
ガラスを拾い続けていました。

七尾旅人さんは今一番出会いたい人のヒトリだったけど、
彼のピュアネスに答えるボクのあり方は、
ガラス拾いだったように思います。

この日は、彼に正面から向き合うより、
風に流され届いてくる音と並走してガラス拾い。
そんなのがより音楽的に思えたのです。

なにより個人的危機意識が、
「ガラスを拾うこと」がここに居る意味だと、
直感的にボクに語り続けていたように思います。

みんながLIVEを見ているのに、自分はガラス拾いをしている。

3・11以前であれば、
自分のやっていることをイヤミな事だと思ったかもしれないけれど、

感情の入る隙間も無く、カラダが動いてガラス拾い。

それがとても当たり前であると思った6・11豊間。

いつかこの時のコトを七尾旅人さんと話すことがあると思うけど、
それは復興が成された遥か未来でもいいこと。

ともかくガラスを拾う。

そして14時46分。


雲も切れ、陽射しの暑さを肌に感じるようにもなった豊間。

凪の状態がしばらく続き、空気が停滞して蒸し暑さを感じる中、
2時間ほどの作業でガラスを拾い切ってしまったので、「そろそろLIVEに向き合おう」と。

すると、凪から海風へ。

東南東の方向から海を渡ってきた風を、
ボクは気持の良いモノだと感じた。

圧倒的にヒドい状況の土地にあって、
人は風を気持よく感じる?

「ここはこんなに心地よい風に包まれる豊かな土地なんだ!」

ボクはもっとこの土地を感じてみたくなり、
ヒトリで海岸に出てみた。

東南東の風であれば、
北にある原発の放射性物質も混じってはいないだろうしね。

夕暮れ近くの空と太平洋、
そこに美しい構図を添える豊間の海岸。

こんなものが10mもせり上がり押し寄せ、人を殺すのかって…

そのまま清掃していた地区と逆の方に歩いていったら、
そこは圧倒的になにもかも失われていた場所だった。

清掃してライブを見ていただけでは出会えない、
底なしの穴ぼこのような景色。

しばらくヒトリで迷って歩いていたら、
強烈な腐臭に出会う。

主の帰ってこない海産物の加工工場、
そこの冷蔵庫が圧倒的な臭いをまき散らしている。

この場所で1分こらえることが出来るかどうか、
それほそ暴力的な腐臭。

「ボクは東日本大震災の被災地にいるんだ!」

感情の扉が開き、
怒りが込み上げてきた。

後で確認してみたら、
被災後しばらくは“津波臭”に覆われていた被災地だけど、
それと交代で魚の腐臭が街を覆っていったとのこと。

腐臭はしばらくボクにまとわりついて、
ライブ会場に戻るころには潮風と混じり合い、
磯の匂いに化けていた。

この日のことはネット配信され、
多くの方がそれに触れられたそうだけど、
ボクが「被災地の海風が気持よく感じたこと」や、
「暴力的な腐臭」は配信出来ないことであり、

PCに開いた窓の向うへと働かせるべきイマジネーション、
それを支える足場のようなものを造るのは、
ボクのような立場にあるものの責任なんだと思った。

そのためには、
分かったふりをせず、
分かった口もきかず、
思考停止に陥らず、
コミュニケションを続けなければだ。

地元の方は遠巻きにして見ていたライブ、

中には炊き出しだと勘違いして来られた方もいたりする。

ガラスを拾いながら側に寄ってゆくと、なんとなく会話が始まり、

しかし、なんとも言いようの無い表情で、人の輪から遠ざかるご婦人がいたり。

そんな方々と、わずかな時間だったけど交わした言葉の中からいくつか。

・へたりこむように座っていた2人のご婦人との会話

「岩手にも宮城にも原発事故は無い」

「ともかく原発事故をどうにかしなければ、なにも始められない」

「今はまだいいけど、北風が吹く冬が恐い」

「数値がいくつなんてことは放射能が恐いってことと関係無い」

「出て行ってしまった人は、しょうがない」

「コドモたちはもう津波ごっこやってるよ」
「でも、すぐにホンモノの警報が出るから、カワイソウだよ」

「被災者の中でも格差がある」 

「地域はもう元に戻らない」

「政治家は自分たちことばかり、」「やることやれ、」

・海沿いの家と家族を流されたご夫婦

「ここに車とめたすぐ後だよ、津波が来たのは」

「もうここには家は建てられねえし、住む気には、なれねえんだよなあ」

・一匹の犬を囲んで朗らかな会話をしてた二家族

「ワンちゃんいい子ですねえ〜」

「いや〜、ただの雑種ですよ」

「ウチのワンは ばあちゃんと流されちゃってね、」

・海産物の加工品製造のおばちゃん

「三ヶ月前と何も変わってない」

・とても元気にしてる男の子がいたから
 ちょっとホッとした気分で交わした言葉

「キミ、どこから来たん?」

「あっち」

「被害が小さかったって聞いたとこかな?」

「小さく無いよ!2人も死んだんだ」

ボクは80名が犠牲になった土地に立ち、男の子とコトバを交わし、
ガツンと頭を殴られたよ。

人の痛みや喪失感は、恐ろしく個人的なことであり、
数字で表せることでは無いよね。

そんなこと分かり切っていても、
それでも分かった顔してちゃいけないんだ。

・あらためて2人のご婦人のことば

「なにもかも流されて、そしたら海ってこんなに近くあったんだって思った」


被災地を後に東京に戻ると、
東京の夜は2011年3月10日の夜と比べて、あきらかに暗いものであり、

東京で生活するボクたちも、「真っただ中」にあるんだって実感する。

福島に行って何が出来たのか分からないけれど、
今回のチャンスを有り難いことだと思い、

では、
同行した”ぼくよりずっと若い人たち”は何を感じたのだろうか?と想像してみる。

もしかしたら「やりきれない」だけで帰って来た人もいるののかもしれない。

ただ、
ボクはこの日の朝、
土砂降りの中で思い詰めた表情で出発の時を待っていたみんなの姿も、
被災地で見たものと共に、忘れちゃいけないことのように思った。

このツアーに参加された方とは、コトバをほとんど交わすことなく帰ってきてしまったのだけど、
いつか改めてコトバを交わしてみたく思うよ。

これからアクションを考えられている方は、
ともかく現地に行かれても良いのだと思いました。

人としてオトナとしての当たり前の節度を忘れず、
顔を合わせた現地の方と小さくても良いからコミュニケートされ、
そんな関係の中から義援を道びき出したら良いんじゃないかな。

ホント小さなことで良くて、
しかし、
顔の見える関係だからこその可能性はデカイと感じました。

ともかく想像を越えた時間も労力もかかる復興への道、
風化なんかさせちゃ人としてハズカシいことだし、
「政治が何をやる」なんて待ってる場合でもねえ。

東京に戻ったボクは、
被災地の映像を見ると、表情の失せたおばちゃんの顔と共に、
被災地を強烈に覆っていた魚の腐臭を思い返す。