わらでなわをなう


伯父がこさえた木彫りの十二支が出て来た

昨年の暮に母が送ってきて手つかずでいた荷物
その奥の方に束になっていたのが
今日になってみつかった

年の瀬から危篤を告げられ
一昨日84歳で亡くなった伯父

長年勤め上げた教職から退いた後
趣味の木工細工として作り続け
元気な頃は毎年親戚や知人宅に1匹づつ送ってくれていた
切り口は甘いけど愛しいカタチをした木彫りの動物たち


伯父を失い
その思い出の中で今も悔やまれるのは
「わらでなわをなう」こと

“藁で縄を綯う”

毎年大晦日が近づくと
本家にあたる婆ちゃんの家に親族で集まり
正月の準備をするのだけれど

そこで藁を“なって”しめ飾りを作るのが
叔父の役割でした

大きな手で「グイ、グイ、」と藁をない
力強い縄が生まれてゆく姿が
カッコよかったなあ〜

でもって「やってみるか?」と藁を渡されるんだけど
まだ子供のボクの力と技術では“枯れた植物の茎の束”にしかならず
その不格好さが今の自分そのものなんじゃないか?なんて感じたり

オトナになるということは
「わらでなわをなう」ことなんだと思ったのでした

そんな毎年恒例の叔父の風景も
ボクが東京に出て来たことで
どこかの国の昔話のようになってしまうのだけど

それでもいつかチャンスがあったら
伯父から藁縄のない方を教えてもらおうと考えていた

ボクはまったくダメだなあ
こうやって大切なものを1コ1コ失ってばかりいる


昨年の暮には「はだしのゲン」の作者
中沢啓治さんも亡くなってしまった

1975年
単行本になったばかりの「はだしのゲン」を
中学1年のボクたちの教室に置いたのは担任のN先生

その頃ボクの家族は
少なからずの問題を抱えていて

N先生はボクの行く末を心配してくれたんだろう
日曜日に突然ボクの家にやって来て
やはり「問題あり」なもう1人のクラスメイトも拾い上げ
養蚕農家をやっているクラスメイトの家に行き
カイコの世話を手伝ったり
庭で捕まえたカエルを食わせてくれたりした

人との生身のコミュニケーションを経験させることで
ボクが“非行”の方向に振れないように考えてくれたんだと思う

その後も
知的ハンディーを持った同級生が
「N先生に言われた」と言ってウチに遊びに来たり
学年で一番のいじめられっ子が
自転車に乗れるようになるための係に任命されたり

学年1番のボクの悪知恵は
クラスのコミュニケーション創造のエネルギーに転化されていったんだ

そんな先生がある日「はだしのゲン」をボクたちのクラスに置いた

もともと父の影響で「反戦」の意識の高かったボクだけど
その意識は「反戦」という以上に
「人の頭の上で原爆を破裂させる人間の想像力の欠如、その愚かさ」に気付き
「なぜ人は人の頭の上に原爆を落とせてしまうのか?」という
よりパーソナルな視点への疑問へと変わっていったと思う

どうしようもなく人付き合いがヘタなボクが
人への興味を持てたということ

中には「あの先生、日教組だから」とか言うヤツもいて
3学期のころには「受験のことを考えたら、あの先生では、」などという
陰口も囁かれているのを聞いたこともあった

しかし
それでもボクのような人間が今も生きていられるのは
1本の「わらをなう」ようにしてボクと向き合ってくれた人がいたからで

そこには世間一般の下世話な政治的思惑などひと欠片も混じらず
「教育」というコトバも越えた
人としての血の通った愛の力であったはずだと
あの時も今も信じています

ボクは残念ながら「わらでなわをなう」ことが出来ぬままこの歳になってしまい
伯父もN先生も中沢啓治さんも死んでしまったけれど
手の平の中に残っている頑丈な藁縄の手触りでもって
人に接しコトバを交わし愛してゆくことで
生きることを丈夫でシナヤカなものにしてゆくことは出来るはず

少なくとも
伯父もN先生も中沢啓治さんも、その後に出会う長沢節先生も口にした
「戦争は愚かな事だ」という考えは
ボクが死ぬまで心の中で縄をなうようにし生かし続けることです

ただ「わらでなわをなう」
こんな美しいコトバが死にかけているのが淋しい

あらためて伯父との思い出

中学3年の冬
ボクと同い年の従兄弟とを並べて
中学校の教頭先生になってた叔父が
「おまえら将来なにになるんだ?」と

漠然と“なにか作る仕事をしたい”と思っていたけど
具体的に何と言えるものが無かったボクは
伯父が“なわをなう”姿を自分に重ねながら
「手になる」と言ったら
「真面目に聞いてるのに、バカにするなー!」と大剣幕

しかし伯父さん
ボクはちょっとは約束を守ったよ

ただ
なわは今でもなえないんだ

2013
0110
ボクの好きな伯父さんへ
PEACE!!

コメント / トラックバック 2 件

  1. aska kaneko より:

    アミイゴさん
    今ニューヨークです。昨日コンサートを終えてゆっくりとした朝、これを読んで心が震えて涙がでてしまいました。しばらくはじーんとしてフリーズ状態だったけど、こういうお話と絵に音楽をそっと寄り添わせてみたいな、なんてことも読んでしばらくたつと思ったりもして。
    東京育ちの私には、わらでなわをなう なんて言葉も その様子もイメージすることには遠い風景です。その替わりに母と2度目の父の油絵の具のチューブや筆にまみれたアパートの中で大きな壁一杯の絵を描く手と背中を見ながら育ちました。

    それぞれの人が持っている、記憶。愛の原点、自分が生かされて来た原点につながるような誰かの支え、それを言葉にして絵にして音にして
    「本・つながる・未来」で一緒に創るものとして紡ぐのもいいですね。名も無い、とある瞬間や小さなつながりが私のいのちをたしかに創ってるのだといつもいつも気がつきます。一番大切なこの宝物を人と分かち合えるなら美しいこと。。。。
    わたしからつながるアミイゴさんとそこからつながる アミイゴさんの大好きな叔父さんへ 暖かい瞬間をありがとうございます。

  2. 小池アミイゴ より:

    >aska kanekoさん。
    なんだかシミッタレタ話ですみません、、
    ホントに今創りたいものは、みんなをドカーンと元気に出来るものなのだけど、
    どうしても自分のシミッタレタものが滲み出てしまい、
    それを拭き取る作業が必要なのだと思います。

    3月11日を過ぎ、
    ボクはあらためて百姓の血が流れていることに気がついています。

    ボクの家は百姓では無いのだけれど、
    父方も母方もお百姓の家。

    原風景には泥にまみれて働く人たちの景色があります。

    その記憶は美くエレガントなもので、
    しかし、「村」的な人間関係に少なからず苦しめられた記憶もり、
    そんなスベテは、高度経済成長からバブル経済を抜ける中、
    木っ端みじんに破壊されてしまったように感じています。

    ボクが東北の被災地で見た風景は、
    経済優先という津波で押し流されてしまった
    ボクの生まれ育った土地の風景とどうしようもなく重なるものでした。

    でも、そんな荒野の中にあっても、
    人ヒトリがその人生をかけて気がつかせてくれることはあるなあ〜と、
    そんなことを伯父が忌の際に手渡してくれたように思います。

    そういえば、ある農業体験ツアーに参加させてもらった時、
    参加者50名ほどの中で、鍬や鎌をまともに使えるのはボクだけでした。

    そうか、鍬や鎌を使うように絵筆を使えばいいんだな。
    そんなことを考えたことがあったなあ〜

    飛鳥さんとご一緒する中でも、そんな鍬鎌な技術が反映出来たらですね!

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