富ヶ谷通信vol.2
ここのところのボクの一息は、
近所のルシャレでの珈琲一杯。
「あれ?今日は味が違うね〜」
「今日の天気がこんなですから、ドリップ早めにしました」
「お口に合いますか?」
「いやー、美味しいよ」
とか、
「今日はどんな珈琲にしますか?」
「今日の天気に合わせてくれたらいいよ」
「じゃあこっちの豆にします」
とかね、
そんな会話から生まれる珈琲の旨さ。
2人の若い娘さんがめちゃくちゃ楽しそうに、
しかしそう容易くは声をかけてくれるねよと、
人として生きる渾身で煎れてくれる一杯の珈琲。
ボクの中で10年間失われていた『東京らしい珈琲』が、
毎日の生活のごく近くで育まれているんだね。
そして、
最近は自分で煎れる珈琲も絶好調です。

豆はやはりご近所の“やなか珈琲”で、
いろいろ試しながら焙煎をしてもらっています。
珈琲を自分で煎れるのは日に一度か二度なんだけど、
それがとても大切な時間であるんだな〜、と最近気がついたのですね。
大切なのは絵を描くこと。
人とコミュニケートすること。
一日の中で「これは大切」という手前で、
珈琲を煎れるか、もしくは掃除をする。
で、大概が珈琲。
いい加減な気持ちで煎れた珈琲は、
自分で煎れたとしても必ず嫌な味がします。
こんなもん飲まなくたって死にはしないものだから、
その大いなる無駄に神経を注ぎます。
そんな作業の時が呼吸を落ち着かせます。
落ち着いた気持ちで仕事に望みます。
粗熱を取り去った心でなければ、
本当に新鮮なモノを生むことは出来ないですからね。
そんな気持ちに至って初めて道具の必然に行き当たります。
茶色いヤツは先代のポット。
銀色のは一昨日やって来たポット。
銀色ポットくん、ボクの気持ちに答えてくれるなかなかのヤツです。
「お湯よ、ここに落ちてくれ」
そんな願いに2〜3ミリの誤差で答えてくれます。
甘くて苦くて透明で濃くて、
そんな珈琲が煎れられます。

そうやって煎れられた珈琲が注がれるのが、
この小汚いマグカップ。
20、2〜3年は使っているのかな、、
ともかく昭和です。
イラストレーターとして活躍している めぐろみよさんから頂いたもの。
愛着があると言うより、
モノを買う金を持っていなくてコレばかり使っていた、
その成れの果てです。
当時はテキスタイルデザイナーだった めぐろさんの描いたプリントは、
今やすっかり消えてしまい、
取っ手の根元にはヒビが入っています。
これで飲んだからって特別珈琲が旨くなるはずもなく、
しかしこれで呑む珈琲には、
自分のリズムを共鳴させることが出来ます。
腐れ縁ですね、マグカップ。
そしてどこまでも嗜好のものです、珈琲。

代々木公園はサクラが満開で、
昨晩はご近所さんのお誘いで花見でした。
代々木公園は酷いばか騒ぎに包まれていて、
ボクらの花見は道を1つ隔てた小さな公園に移りました。
公園暮らしの方のテント小屋は、一時期減っていたのですが、
昨年の秋以降また増えてきました。

厳しい時代です。
明日は我が身です。
しかし、それでも、
テント小屋に感じる「生」の楽しさってなんだろね?
そんなこと思うのは“不謹慎”ですかね?
なんかそんな難しい漢字を使ったんでは触れることの出来ないモノ、
どーしても感じてしまうのだけどね。
テント小屋とこんな花の輪のイメージは、
とても簡単に結びつくのですが、
ナニやらコトをメンドクサクさせる力を押し付けられているんでしょうね。
ボクたちの日々は。
だから、
桜の花は静かに見送りたいと思いました。
相変わらず花の絵を描いております。

これは去年の4月、熊本の小国で撮影した田んぼの写真から。
レンゲやイヌフグリの小さな花と、
白い、なんだろ?こんな花との構図。

こちらは、
やはり同じ頃、東京は阿佐ケ谷の道ばたで撮影したツツジとタンポポの構図。
どちらも画面上で激しい破壊を繰り返した上に乗っかっている構図です。



アミイゴさんもコーヒー楽しんでますね!
コーヒーを淹れるとき、釣りをしているようです。ねらったポイントへ落とし、静けさを待ち、内から外へ少しずつめぐらし、ひきあげる。
失敗もよし、また次へ向かいたくなるんですよね〜。
>ki-machanさん。
そうか、釣りのようなのか。。
で、ボクのやり方を思うと、
そんな釣りのような基本から踏み出しちゃって、
お湯を注ぐ時の音や景色を楽しんじゃってるようです。
それで上手くいったヤツがボクの珈琲。
失敗もまたボクそのもの。
その辺は一緒ですね。