38ヶ月め

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2014年5月11日は
2011年3月11日から3年2ヶ月
1,157日め
38回目の11日でした

ボクは大分県日田市のリベルテでの個展「東日本」開催
baobabが創る森のお祭りsing bird concertの手伝いとで
九州で過ごした5月11日でした

「東日本」と題したボクの個展は
長崎の諌早から現在展示中の大分の日田と
西日本を巡っている途中ですが、

タイトルがこんなだからでしょう、
長崎でも大分でも地元の新聞社から取材を受けました。

絵は言葉では語りきれない部分を表現してくれるので、
それを言葉で説明することは困難なことなのですが、

展覧会はその場所を営まれている方の
個人的な思いで成り立っていることなので、
そういった取材にも真摯に向き合わねばと考えています。

それにしても、
西日本の土地で「被災地」という言葉を使うことの難しさ。

長崎では「20分」と言われ取材を受けましたが、
結局1時間半もかかってしまいました。

「被災地」という言葉は、
ものすごく慎重に扱わなければならなず、
西日本の新聞記事としてその言葉が使われることは、
展覧会にお客様が足を運んで頂くきっかけにはなるはずですが、
同時に大きな誤解を生む可能性も感じます。

何度か巡った東日本の土地。
そのたとえば東北沿岸部と内陸部、
沿岸部でも平地と高台、
もしくは、福島と宮城岩手、
青森だったり茨城や千葉だったり、
そして東日本と西日本、

「似た光景」はあっても
「同じ景色」に出合うことはありませんでした。

「被災」は実にパーソナルな問題です。

肌で感じること、
足の裏から伝わること、
鼻孔の奥で知ること、
舌の上で学ぶこと、
1歩踏み出し10cmの背伸びで違って見える風景、
その次の瞬間に振り返り見えた自分の歩いて来た道、
慈しみの情の上に交わす人と人との会話。
それらひとつひとつをあきらめず続けてゆくしつこさ。

ボクはひとりのサイズと時間で追い続けてゆくことで、
「被災」というものがなんであるのか、
ちょっとでも掴めたらと考えています。

そういった1コ1コを共有するきっかけの現場として、
「東日本」という展覧会が機能してくれたらなあ〜と。

そういう1コ1コを絵を見に足を運んで下さった
お1人おひとりと直接話しをしてしまう前に、

しっかり時間をかけ現場のスタッフのみなさんに伝え、
お客様とのコミュニケーションは託してしまう。

そんなやり方が西日本での「東日本」の意味ではないか?
なんて実感を感じています。

ボクの望む未来は
時間をかけて創ってゆくしかないなあ〜。

長崎で取材してくださった26歳の取材記者女史。

はじめ会話が上手く噛み合ず、
新聞というフォーマットからはみ出てしまう会話もあり、
ちょっと鈍くさささえ感じてしまっていたけれど、
それでも、やっぱその取材というコミュニケーションを
諦めるわけにはゆかず、
ついつい1時間10分オーバー。

しかし、彼女はメチャクチャ闘ってくれ、
とても芯のある記事に仕上げてくださいました。
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そして、
「『被災地』という言葉を使いたくなかった」
という言葉も届けてくれました。

うん、オレたちはこれからも正々堂々悩んでゆこう。
そういうことだと思ったし、
26歳の純はハートに教えられもしました。

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そんな気持ちを持って出合う九州の風景、
諌早の干拓地や、五島列島、長崎の圧巻の棚田群、
北九州の洞海湾、日田の杉林と川が造った風景、
小鹿田の焼き物の里としての景観などなど、

自然と拮抗する、抗う、調和する、人の営みが、
ココロにポンと放り込まれてきました。

「東日本」というテーマが見せてくれる西日本の風景

現在個展開催中のリベルテの映画館で上映した
東日本を描いたモノクロの線画の映像は、
心の中で西日本色に塗り上げられるものでもあるのだと、
それはそこに集まって下さったみなさんとの会話で気がついたこと。

1本の線でボーダーを引くのか
人と人と繋げる手綱とするのか

そういうことだと思いました。

個展「東日本」は5月25日まで日田のリベルテで開催
http://bit.ly/1j3uMxy

その後大阪の池田市のギャラリーLargoへ、
さらに西日本の旅は続きます。

そのスベテがさらに風通しの良い
コミュニケーションの現場になるよう、
良い空間を創ってゆきますね。

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