にじ画廊にまさおおじさんが来た。
20何年か前の脳梗塞のせいで右腕しか使えないくせして、
ボクの父親とカツミおじさんを三菱の軽ワゴンに乗せ、
スヌーピーのTシャツ着て群馬からカッ飛んで来た。
にじ画廊の50mほど手前の駐車場から杖をついて、
足を引きずりノシノシと、
日曜日の人ごみを掻き分け、5分かけて到着。
かわいいグッズが並ぶ店内に入り、
2階のギャラリーへの階段を見ると、
「ダメだ、手すりがついてねえから登れねえ」って。
「無理してケガしたら人様の迷惑になっちまう」って。
まさおおじさんは気遣うギャラリースタッフを制して、
「アニキたちで見てこいや」「しょうがねえ」と、
1階の奥の事務所で座って待ってることになった。
「俺のことは気にすんな」と語るおじさんに茶を出し、
ドアを閉める瞬間の心苦しさ。
これは一生忘れられないと思ったよ。
実際に2階で父らと絵を見ても、ただ気まずいだけでね。
そうしているとにじ画廊のスタッフちゃんがやってきて、
「外の階段なら手すりがあるので、それを使ってギャラリーの裏口から入ってもらいましょう」と。
そんなことして大丈夫なのかと心配するボクには、笑顔で「だいじょぶです」と、
展示してある桜の花の絵を外し、ホワイトボードを動かすとドアが隠れていた。
ボクよりずっと若い女性スタッフさんの機転で、5月の吉祥に向け開け放たれたドア。
それはボクらがこれから向かうべき世界への扉なんだと思った。
マサオおじさんは外の階段を一段一段ノッシノッシと登ってくる。
ボクは「もしも」のために後ろで構える。
5分くらいかけて2階へ。
花の絵の間からおじさん、遂にギャラリーへ。
「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会へ
スヌーピーのTシャツ着たマサオおじさんがやって来てくれた。
三男の父、四男のカツミおじさん、末っ子のマサオおじさん
大の男が3人、花の絵を見ている。
百姓と農業機械の整備が生業にしてきたまさおおじさんは、
「あれはスズナ」「あれはサクラソウ」と、ボクの描いた花の名前を次々に言い当て、
その花はどうすれば元気に咲くのかとか、やっぱり日本固有の花が可憐でキレイだとか、
滑舌の悪い群馬弁で語ってくれた。
おじさんはカッコいいことをひとつも言わないけど、
その辺でカッコいいことばっか言ってるヤツらより数億倍カッコいいと思ったぜ。
この日より22年前の夏。
26才のボクがムチャして入院した時も、群馬から東京へ片手運転で駆けつけてくれ、
ボク以外お年寄りばかり8名入院する病室に、
そこの誰よりも重症患者のような姿でノッシノッシと入ってくると、
「オメーもこうなっちゃお終いだぞ!」と大声でボクを叱り飛ばす。
でもって、
「無病息災って言うけどな、これからは1病息災くれーがいいんだ」って、
麻痺した口で啖呵を飛ばし、病室のみんなを笑わせてくれた。
そうしてボクは今も生きている。
地元のウドンと酒をみやげに置いてくれ、男3人兄弟が帰る時間になった。
やはり脳梗塞を患い上手く動けないでいるボクの父が、買い物でモタモタしてると、
「オラァー先に車に行ってらぁー」とまさおおじさん。
よく晴れた5月の日曜午後2時の吉祥寺。「昭和通り」と呼ばれるにじ画廊前の通りは、
「被災」のあっち側で自由を謳歌する、若くオシャレな人たちでごった返している。
そこをノッシノッシと分け入ってゆく、スヌーピーのTシャツを着たおじさん。
ガツっと日焼けした顔に薄くなった頭、スヌーピーのTシャツは黄ばんでいる。
前をから歩いてきたカップルがおじさんに気がつき、
ビックリしたように、もしくは見なかったことのようにして、ヒョイと道を空ける。
ボクはおじさんの後ろ姿を見ている。
百姓と機械整備でデカク育った背中の筋肉は、
麻痺した左足の細さとの対比もあって、山のように見える。
そんな背中がノッシノッシと昭和通りを行く。
それは底抜けに美しい姿だ。
圧倒的にカッコいい風景だ。
ボクはちょっと泣いていたはずだけど、
それは誰にも気付かれちゃいけないことだと、
強い西日に表情を隠し、おじさんの背中を追いかけた。
おじさんは三菱軽ワゴンの運転席に乗り込むと、
ボクの方を振り向かぬまま(もしくは麻痺で振り向けない?)右手をヒョイと上げ、
1万円札をヒラヒラさせながら「これでウマいもんでも食えや」だって。
それは絵を描き続けてきた中で、最高のご褒美なんだと思い、
ボクもおじさんのように、その辺で生きてゆくんだと思ったんだ。
つづく
花の旅
今回の展覧会は、3月に青山のspace yui から始まり、
8月に福島県白河市のSHOZO COFFEE、
9月に福島市の食堂ヒトトと旅をしてきました。
ここ5年間、昨年までの毎年の年末に、
「小池花店」と名付けられた花の絵の展覧会を開催してきましたが、
その流れが途絶えた今年、
偶然にも年末のにじ画廊で花の絵の展覧会を開催することになりました。
10年前の春のにじ画廊での花の絵の展覧会「その辺に咲いていた花」は、
2010年3月に地元渋谷区のカフェ”ルシャレ”からスタートし、
以下の場所を1年ちょっとかけて巡り、
東日本大震災を経て、にじ画廊にたどり着きました。
・渋谷区富ヶ谷天然酵母パンのルヴァンのカフェ“ルシャレ”
・佐賀県唐津市のヌフ・ベーカリーカフェ
・宮崎県日向市のnap cafe
・栃木県那須塩原市黒磯のCAFE SHOZO
・東京吉祥寺キチムの Localite
・長崎県諫早市のORNAGE SPICE
・福岡市周船寺のcafe de Hina
・福岡県北九州市のcafe cream
・千葉県習志野市のギャラリー林檎の木
・福岡市薬院の花屋 cache-cache
・鳥取市の食堂 カルン
・大分県大分市アートプラザでのbaobab LIVE
・京都市北区の SOLE CAFE
・青森市のコノハト茶葉店
日本の14箇所を巡り、3月11日に青森のコノハト茶葉店で被災。
「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ展覧会は、
震災から40日めの2011年4月21日に初日を迎えました。
設営の時はまだ余震が頻発していましたが、
ここまでに至る14箇所で出会った人たちの存在が、
とても、とても、心の支えになってくれた記憶があります。
10年経って無くなってしまったお店もありますが、
それぞれの場所でそれぞれの奮闘を見せてくれた仲間の存在は、
今もボクのものづくりを思いっきり支え続けてくれています。
14箇所の仲間たちを巡り手渡されたマインドのバトンは、
震災を乗り越え絵を描き続ける想像力をボクに与えてくれ、
展覧会が終わると、ボクは東北に向かうようになります。
この10年、西日本の方々とお会いすする頻度は減ってしまいましたが、
みなさんから頂いたものづくりの種は、今も発芽し続けているのです。
「こんな花の絵など誰が見に来るんだろう?」と悩んだ10年前の展覧会は、
意外や、多くの方が足を運んでくださり、
人によっては絵の前で涙を流される方もありました。
「自分の描いたもので人が涙する?」
その意味は1人ひとりの中に埋まっているもので、
ボクがなにか代弁できるものではありません。
しかしその涙は、日本の各地を巡ってボクの手元に届いた花の種を発芽させるだけの力を持ち、
ボクはその後10年、相変わらずその辺で咲いている花の絵を描き続けているのであります。
つづく。
忘れな草をあなたへ
2014年2月の記事を、一部文章を修正し再掲載します。
今日、横浜仲町台での展覧会で”忘れな草を描いた絵”が売れました。
午後に予定より遅れてギャラリーに着くと、
スタッフさんから絵の購入希望でお待ちの女性を紹介されました。
初めましてのその女性は、
この展覧会はギャラリーからのDMで知ったとのこと。
購入希望の絵をうかがうと、「忘れな草」の絵だとのこと、
その女性の落ち着いた佇まいやコーディネートの印象が、
ボクが描いた絵と実にお似合いではないかと思ったボクは、
この方がこの絵を買ってくれるということに、
今まで味わったことの無い「安心感」のようなものを感じました。
「なぜこの絵を選びましたか?」
というボクの質問に、
「気に入った絵全部、1枚1枚と会話してみたんです」って。
うれしいなあー。
ボクは「東日本」という展覧会を、
そこで偶然出会った人と人の会話の現場にしたいと願い、
また、そうすることでこの展覧会も完成するのだと考えてきました。
それを今日であったばかりの「初めまして」の方が、
ボクの望む最上の方法でこの現場を楽しまれ、
1枚の絵を購入さえしてくれた喜び。
そもそも安い買い物ではないはずのボクの絵を、
見ず知らずの方がご購入下さるなんてことからして、
思いもよらぬことなんです。
直前の東京青山での展示には出品しなかったこの絵は、
自分にとってアウエーな横浜仲町台で、
「東日本」という痛いタイトルの展覧会に対し、
テンダネスを与えてくれるだろうって考え、
搬入準備の最後に手に取り持ってきたものでありました。
その女性と一期一会な出会いの喜びを分かち合いながら、
「どちらからお越しですか?」と質問してみると、
「葉山です」と彼女。
この絵を描いたのは2011年3月11日の震災直後。
3月11日の手前で誰かから頂いた花束から、
しおれ始めた花を間引いて、花瓶にさしていた忘れな草です。。
震災から8日後、
もともと予定していた帰省で、カミサンの実家の北九州へ。
東日本の様子が不透明だったので、カミサンと息子は滞在を延長。
ボクは5日間の滞在の後、1人で東京に戻りました。
大きな余震が続いていた東京の家に着くと、
4月を目の前にしても、まだ冷たい空気に包まれたままの部屋で、
ボクは忘れな草がさらに枝を伸ばし花を咲かせているのを見つけました。
「おまえ、よくがんばっていたなあ〜」って思い、
そのけなげな美しさと儚さに心をわしづかみされ、
震災から続く夜の暗闇の中、
4月末ににじ画廊で開催予定の「その辺に咲いていた花」と名付けた展覧会のため、
“生き残り”の忘れな草を描きました。
その直後、永井宏さんの訃報は届きました。
美術家で文筆家で音楽家で、
自由と恋愛を愛し59歳で逝ってしまった永井さん。
ボクは人生の節目節目で永井さんから気にかけて頂き、
なんだろな、ちょっと似たとこあるのかな、どうかな、、
そんなフワッとした心地よい距離感を保ちながら、
氏の活躍を追いかけていた関係でありました。
忘れな草を描こうと思うに至ったインスピレーションは、
永井宏さんがボクに届けて下さったものなのではないかと勝手に思い、
描き終えたはずの絵にさらに手を加え、
「永井宏さんに捧げる」とメモして額装しました。
そんな秘めた経緯は今まで口にしたことはなかったのだけど、
絵を購入された方が忘れな草の絵ととてもお似合いで、
しかも絵と会話までして選んでくれたということがうれしくてね。
ボクは「これは、葉山に住まわれ、絵を描いたり本を出版したりしていたけど、
震災の年に亡くなってしまった方に捧げた絵なんすよ、」なんて話してみたのです。
すると、
「その方、もしかしたら私の患者さんかも、」と、
ボクが永井さんの名前を語ると、
「はい、永井さんの最後の治療を担当していたのは、わたしです、」
絶句。
そして涙…
その方は葉山で開業医をされていて、
永井さんの治療の一翼を担われていた方だったのです。
彼女に、ボクが永井さんと初めて出会った場所は、
このギャラリーの企画を担っている、青山のspace yui であることを伝え、
「この絵はあなたに手渡されるために描かれたんですね」と。
「奇跡」や「サプライズ」という言葉が苦手なボクは、
今日のこのことをどんな言葉で表そうかと考えました。
ボクは青春のある時期に絵を描き始め、長沢節という美意識を浴び、
数多の先輩イラストレーターの方々に生きる厳しさ学んだことで、
青山のyuiという美意識の場所で、永井宏という恋する心に出会うことが出来た。
そういったことの1つひとつは
ボクに”生き残りの忘れな草”を見る目を与えてくれ、
出会いの喜びは震災のリアルと拮抗しながらも、
ボクに1枚の絵を描かせた。
その絵は2年前にyuiの壁を飾ったけれど、
今年の冬は、そこを飛び越え、仲町台の空間を飾った。
それを永井さんに縁の深い方が手にしてくれた。
必然の先にさらに必然が、
偶然やって来てくれた。
ボクはこれほど絵を描いてきて良かったと思えた瞬間は無く、
それはボクが生きてきた意味を裏付けてくれるものだとさえ思いました。
今ボクが死んでしまっても
「あいつはこんな絵を描いたヤツだった」って語ってもらえるような一枚の絵。
もちろん、ボクは今は死ぬ訳にはゆかず、
今日手にした喜びを抱え、仲町台での残りの会期を過ごし、
小池アミイゴ個展「東日本」西日本ツアーで、さらに心の体力をつけ、
いつの日か東北の方にも喜んで頂けるものを創り育ててゆきたい。
そんな表現の旅の足場になるのは、
忘れな草と永井さんと女医さんとボクの間で生まれた
ささやかな出会いと別れのヨロコビの記憶。
ボクが震災後の世界に求めていたのは、
もしくは「東日本」を巡り構築したかったことは、
今日のこの出会いと分かれのヨロコビに集約されているのかもしれない。
忘れな草の絵の婿入り先となった方との別れの時、
「握手しますか」と言ってみたけど、自然とハグになった。
永井さん、
あなたの夢見た世界はこんなじゃないかったかな?
そしてyuiの木村さん
あなたの創りたい世界はこんなじゃないかな?
イラストレーションの仕事の締め切りがあるため、
午後3時過ぎにはギャラリーを後にするも、
ギャラリーからの角を曲がってすぐの花屋の軒先で、
ハッハッハ、
これは笑っちゃうよな〜
210円で売られている忘れな草と目が合ってしまったよ。
そんな初恋の成れの果てのような花を抱え、
帰りの電車に飛び乗るも、それは逆方向、、
次の駅で降りて、
駅のホームのベンチでお客さんからの差し入れのドーナツを食いながら、
折り返しの電車を待っていたんだ。
2014
0226
PEACE!!