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177ヶ月め

2025 年 12 月 11 日 木曜日


今日は2011年3月11日から5,389日
769週6日
14年9ヶ月
177回めの11日です。

今日は近所の小学校6年生と地域の壁画制作。
2018年から9回に渡って制作してきた壁画、子どもたちと学校と親と地域と自分とが連携し、街にとって幸せな壁画を制作してきたプロジェクト「とみがやモデル」の発展版。


渋谷区が先進的に取り組んできた子どもたちの探究的な学びの教育プログラム「シブヤ未来科」をフルに活用し、地域の課題を探究的に調べてきた6年生グループと、学校長の挑戦的なアイデアがうまいこと噛み合い、現在ある壁画から学校に続く道沿いに設置された小田急線線路の防音壁に、落書き防止と地域美化を両立される壁画を制作することに。


これを実現させるため、小田急の担当部署と折衝を行ったり、道路使用許可の申請を行ったり。
また、子どもたちが地域の課題に当事者として向き合えるよう、地域の落書き消しを一緒に行ったり。
その他、デザインやイラストレーションを使い地域に貢献するためのセッションを行ったり。


趣味は「火中の栗を拾う」、特技は「矢面に立つ」な自分ですが、

現在高校1年生の息子が大人になった時、どんな人が社会の仲間であったらいいんだろう?
そんなエクスキューズのもと、ともかく子どもたちと一緒に出来ることを重ねてきての今回です。


さて今の6年生。
小学校入学のタイミングでコロナ元年。

「それやっちゃだめ」「それ人の迷惑になるでしょう」
すべての会話がそんな枕詞から始まったような時代に1年生になった彼ら。

自分との関係で言えば、彼らが4年生の時に初めてセッションを行った世代。
その印象は、めちゃくちゃ頭良くてクレバー。
なんだけど、すべてのアクションの頭に「これやっていいの?」のひと言が入るような世代。

コロナの影響は侮れないです。


そんな彼らに対し、どこか何かのきっかけで1人ひとりのマインドにブレークスルーを起こしてあげたい。

自分のようなものが学校に呼ばれて子どもたちと向き合う意義はそこにあるわけです。
が、答えを先回りせず向き合って1年半。

「そろそろブレークするか!?」と思わせる事象がちらほら見え始めると、これまで押さえてきたものがボンと音を立てて吹き出るような瞬間が何度かあって今回。
壁画制作のタイミングとして最高!と真実実行しました。

そのタイミングがベストであったかどうか、1時間15分の制作時間で描いた50センチ幅で50メートルの壁画を見ていただけたらうれしいです。


今回のプロジェクトに利用した「シブヤ未来科」は、文科省が進めている探究的な学びのカリキュラムのシブヤモデルですが、こうした探究的な学びはこれらからの日本に絶対必要なことと考えています。

しかし、子どもたち1人ひとりが探求脳を獲得するには、自分の中にあるものを気持ちよく出し切り、その気持ちよさを誰かと共有できるようなことが必要だなと。それは自分が多くの現場で子どもたちとのセッションを繰り返してきた経験から実感しています。

子どもとの共感の共有のようなきっかけを創れたら、探究的思考が働き出すまで「待つ」といことが保護的立場にある大人には必要とされます。

そうして探究的思考が働き出しても、安易に成果を先回りして求めず、子どもたちの成長と楽しく並走するようなことも必要です。
自分が子どもたちと向き合った感じだと、子どもたちと出会って1年半は「待つ」ことの必要を感じています。

が、そうして子どもたちと付き合ってみた1年半後、子どもたちは自分と対等の立場で話しかけ、質問し、一緒に考えるようになってくれます。

そうなれば、自分のような者はただ子どもたちの背中を見守るばかり。
いや、ほんとみんないい顔した「人」に育ってくれるなあ〜と。

こうした子どもたちの成長が求められる時代ではありますが、それをすべて学校や先生に任せてしまうと、学校の現場はパンクしてしまうので、保護者や地域や企業や自分のような専門家も学校の力になり、理想的な子どもたちの学びと成長をバックアップする必要があります。

自分の場合は、週に1時間とか2時間の時間を子どもたちのために使うだけですが、それでもそこでの子どもたちの成長は絶大なわけで、その成長は自分の人生の喜びであるなあと。

その喜びは自分の「幸せ」の価値観を思いっきり良い方に更新させてくれるのです。

今回の壁画実現のために、子どもたちや担任とのミーティングから、PTAk、地域、行政、企業などなど、多くの方と語り合い、お力添えをいただいてきました。

そして本番。見守りや片付けを手伝ってくださった子どもたちのお母ちゃんたちと交わすひと言ふた言がオープンで、豊かで。。子どもたちを主語で語ることで、自分たちはこんなにも豊かな会話を持つことができるんよね〜。


にしても、絵を描くことを「アート」や「芸術」という枠に押し込め、何か特別なことのように語ってしまうのは、もったいない。

身の回りの課題を解決するための整理や、人とのスムースなコミュニケーション、ディスカッションの大まかな方向性を共有する手段として。さらには、この課題解決にはどんな学びが必要なのかを導き出すため(従来の国語算数理科社会の学びを受け身では無く能動的に学んでゆくきっかけとか)、絵を描けばいいのにな〜と思うのです。

そうした経験を持った人なら、AIに独創的で適切で社会に有益なプロンプトを打ち込む力を身につけるはずだしね!

さて、子どもたち。
次はなにをやろうか!?

132ヶ月め

2022 年 3 月 11 日 金曜日


今日は2011年3月11日から4,018日め、
574週
11年
132回目の11日です。

77年前に東京大空襲があった3月10日。
2022年の今はウクライナで戦争が行われていて、
引き続きコロナ禍ではあるけれど、

2018年から始まった、
渋谷区立富谷小学校に通う生徒と、子どもたちの親と、
学校と、街の人とが、力を出し合い助け合い描く、
代々木八幡ガード下壁画プロジェクト「とみがやモデル」の
一応のフィニッシュの作業を、
2022年の春に卒業する6年生との制作を行いました。


これまでに重ねてセッションは5回。

最後は2年前のコロナ蔓延が深刻化した3月。

この年の卒業生で完成させるイメージでやってきて、
しかし、子どもたちの作業は中止。

それまで子供達がのびのびと、しかしラフに描いたものが宙ぶらりんになっているのがかわいそうで、
大人のボランティアを集めて、子どもたちの描いた22メートル2面の壁面に額縁を与えるようなペイントを施しておきました。

そして2年後の3月10日。

それまでカラフルであったペイントに、
街で暮らす人たちのリズムに合った大らかなタッチを与えよう!
色彩で言えば、色んな色が混じり合ったグレーな壁にしよう!
そして、描かれる絵からなるべく意味を削り落とし、
この壁の前を歩く人にこそ意味があるような壁を目指そう!

そんなことを小学6年生に投げかけてみたら、

すごい壁面が生まれました。


ボクはこの壁画のコンセプトを、
被災した太平洋沿岸部を歩くことで得たはずです。

意味があるとすれば、人の命が不当に失われること無く、
ただそこにあること。

自分の作るものは、そうした人に対して出しゃばること無く、

ただその生を称え、意味もなく美しく存在する、

なにか得体の知れぬ力を宿したもの。

主役は人であり続ければよく、
そのためのより良い手段が見つけられるなら、自分の表現を引っ込めてもいいやって。

自分の子供が産まれ、
1年後に震災が起きて、
自分に何が出来るのかを考え続け、
ひとつは東北に足を向け、
ひとつは今暮らす街で生きることを考え、
自然と地域や学校でやれることにアプローチしていったら、
代々木八幡のガード下の22メートル×2面の壁面に、
子供たちと絵を描く必然にたどり着いた。

関わってくれた何人もの顔が思い浮かぶ壁は、
ここに色を落としていってくれた子供たちが、
将来何か困難に向き合うことがあっても、
12歳の春の日の大きな壁に思いっきり向かってゆけた記憶が、
困難の壁を乗り越える力になるものと信じているし、
自分の命が続く限り、12歳のその後を見守ってゆく約束の壁なんだと考えます。

そして、
東京都渋谷区富ヶ谷の代々木八幡周辺で出来たことは、
他の場所でも出来ることです。

そのため、この壁の名前は『作品名』では無く、
『この壁画作成に関わった人たちはオープンに語り合い最善の喜びを共有出来た』という願いを込めて、
「#とみがやモデル」と名付けました。

ある街に子どもたちが言葉の意味を超えた気持ち良さで描いた絵がある。

街の人は意味無き何か美しきものを前に、心を開き、語るべき言葉を目の前のひとりに手渡す。

自分の思う「復興」のひとつの雛形を、渋谷ローカルで形にしてありますので、
余裕があれば見にこられてみてください。

最後に、

小学6年生だって、きっちりオープンにコミュニケートしたら、
こんな感動の絵のタッチで返事をしてくれる。

そんな人の生む1つのタッチが、いとも簡単に無きものにされてしまうのが、
津波や震災というものであり、戦争というものなんだと、

あれから11年の3月11日に考えています。

そんなことを考え、ちょっと一休みしようと、近所のパン屋、ルヴァンのカフェ”ルシャレ”に入ると、
ここの壁も熱かった。

日本の天然酵母パンのトップランナーの店の壁に掲げられていた言葉、
「パンは目的ではない、手段である」

うん。

「イラストレーションは目的ではない、手段である」

よっし!
いい街に生かされているぜ、俺。