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179ヶ月め_会津から豊間へ

2026 年 2 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から5,451日
778週5日
14年11ヶ月
179回目の11日です。


先日は福島の郡山から会津若松、そして奥会津の柳津と巡り、県立博物館の学芸員チームとこの1年の『会津の食にまつわるプロジェクト』の振り返り。
関わったみなさんと再会し、そこで何があったのかを思い出しながら語り合いました。
子どもたちに関わることの多いプロジェクトだったので、やはりそ『の後の子どもたちはどんなか?』それぞれ責任を感じながらもオープンに話すことが出来てよかったです。

今の小学生は『物心ついたり』『自我が芽生えたり』のタイミングでコロナ。
社会に触れるほとんどの場面で、マスクで顔を覆われた大人からモラルを守ることが求められることを経験してきた人たち。

そんな子どもたちに対し自分がやるべきことは、アートを手段とした気持ちの良い体験から自己肯定感を得てもらうこと。絵を描く紙の上では、無理して良いことを語る必要も無く、好きな色を気持ちよく塗るようなことで心を開いてもらえたらいいなと。大切な話があるならその後で良い。


気がつけば、今向き合う子どもたちば2011年3月以降に生まれた子どもたちなんだなと、、
時が過ぎる速さに慄きつつも、それでも「まだ15年」との思いもあり、今回。

会津から浜通りまで移動、震災後にボランティアで入り、その後定点観測的に足を運び続けてきたいわき市の太平洋岸のビーチ、豊間を目指しました。

しかし豊間、定点観測的に足を運んだと言うも、いつぶりか?と振り返ってみると、コロナ禍突入直前の2020年1月11日ぶり?6年ぶりになるんだ…

「この6年間に何があった?」と振り返るも、2020年コロナ初年に小学5年生だった息子が今は高校1年生になったという時間軸に、自身の仕事や社会的活動の記憶の断片が、時系列を無視する形でランダムに置かれ捻じ曲がり、メビウスの輪のような無限ループになってるのを想像しちゃうのだが…


『東日本大震災からの復興』というテーマで歩み出しように見えた社会は、自分が思ってたほど真っ直ぐな道を選ばなかったんだろう。そこに「いつでも個人的記憶を取り出せる」ネットにシフトしたメディアのあり方が掛け合わさり、時間という概念がネジれ、自分の時間の圧縮や記憶の混乱なんてことが起こっているんじゃないか?

ただ、豊間エリアにある塩屋崎灯台を参照し描いた絵本「とうだい」が今年で発刊10年。
そんな確かな時間軸もあり、今回個人的な検証として、ボランティアから個人的のフィールドワークにシフトし歩いた塩屋崎や豊間で、自分は何を見て、何を見落としていたのかの確認はしておきたいぜ。

会津若松から磐越西線、磐越東線と乗り継いで夜に着いたいわき。急遽とった宿はJRいわき駅に隣接したビルに新設されたもので、そういやこんなホテルも無かったなあ〜。

晩めしを求め街に出てみると、以前はこんなにも見せなかったよな〜。この日は火曜日だったけど、こんな駅前の明け透け場所でキャッチに捕まること無かったよな〜。キャッチをやりすごすした背後から「今夜はダメだな〜」と世界を恨む声が聞こえた。火曜の夜に欲張りすぎ違うか?と思うも、いやいや、みんなそれぞれの事情があるんよ。


明けて朝早くのバスに乗り太平洋岸へ。
途中の真冬の田園風景は、以前よりずっと休耕地が減った印象で、農家のみなさんの努力の跡が美しく広がっている。

初めてボランティアで入った2011年6月。その時の暴力的に破壊された風景に出会い、「これは自分の足で歩いて見なくちゃ」と思い、2ヶ月後には徒歩とランニングを交えて海を目指した。その時の破壊され、ある意味遺棄されたように見えた悲しい風景は、さすがに15年分、きっと良い方に更新されているんだと思った。


これはバスに乗ってる場合じゃないなと、予定よりかなり手前のバス停で降りて、海岸線に沿った道を歩いてみる。

津波被害から7~8年後(?)に整備された運動公園では、多くのお年寄りがゲートボールに興じていて、そこから目を転ずると、以前には無かった立派な老人ホームの建物が見える。
15年前に悲劇に晒された土地で健やかに生きるという選択肢が整えられたんだね。

朝の光に包まれたビーチが美しくて、いつかまた大きな地震や津波があるかもしれないけれど、人間がこの土地を選んで暮らすという選択はごく自然なことと思えた。
ただ原発事故は人が作り出してしまったとても不自然なことなんだ」とも思ったよ。


波打ち際から丘の方に目を転じると、6年前には完成していた高い堤防が白く輝き、その向こうには復興のための造成の必要から切り崩され、稜線を変化させた山の姿が見える。

火曜日の朝、ここまでですれ違った人は無く、遠くに堤防の上を歩く人の姿が見える。

以前は立ち入って良い雰囲気の無かった岬に出てみると、立春の陽の光に包まれた灯台のある塩屋崎の岬が、太平洋にグイッと突き出て見えたのが、実にカッコよかった。


津波による多くの被害者を出した薄磯エリアの整備は進み、被害の爪痕が生々しく残された頃、造成による盛り土で月面のような風景に思えた頃の記憶が更新されてゆく。
6年前、海岸線に沿って何キロも渡り『防災緑地』として整備され始め、松の苗木などが植えられていた場所は、自分の背丈より高い木々に覆われた緑のベルトに育っていた。

↑ 6年前の写真
6年後の写真 ↓

これからさらに何年も時をかけて立派な緑地に育ってゆくのだろうけど、自分はそんな風景を確かめられるまで生きているのか?


6年前には無かった『いわき震災伝承みらい館』に入ってみる。
まず「入場無料」ということが多くを語っているなあ〜。

展示を見ると、知っていたことが少し。あとはほとんど知らなかったことばかりか…

なんだけど、自分の記憶の多くは15年前の春でフリーズさせているなあ。

東京に暮らす自分がそんなであれば、ここでの生活があった人の今はどんなだろう?

自分は想像するしかないんだけど、でも今ここにいることは間違いじゃないように思う。

さらに歩いて塩屋崎へ。
干潮のタイミングで、岬は穏やかに見える。

灯台の立っているのは、岬の先端じゃなく、ちょっと奥まった場所だったっか。
上書きされた記憶を修正する。

昼が近づき腹減ったなと思い、以前は開いていなかった土産物屋や食堂を覗き、でも思い直して塩屋崎の向こう側、豊間のビーチを目指して走る。なんでか走りたくなった。

豊間。

ああ、こんなに美しかったっけかな。

ビーチに出てみると、強い風に煽られた白い砂が川のように流れ海に注いでいる。

石英を多く含む砂は、踏みしめると「キュ」と音を立てる鳴き砂。
よく見ると多くの貝殻が打ち上げられていて、これも時間をかけて白い砂に変わってゆくんだね。

震災から3ヶ月後のボランティ活動の際、このエリアの町会長さんは「震災で砂浜が失われることがとても悲しい」と語っておられたけど、もし今もご健在であれば、この風景をどう思うのだろう?

自分はよそ者として勝手に「美しい」なんて思っちゃっているんだけど、でも人に対する想像力は失わずにいなくちゃだ。

後で調べたら、やはりこのビーチの景観を守ろうとゴミ拾いに尽力されているグループはあって、なるほど、今日これまで極端なプラごみに出会っていないのは、そうしたこともあるんだね。


太平洋、というか地球、というか、宇宙の力で押し寄せる波。
それに抗うように吹く陸からの風と低く舞い上がり流れる白い砂、
そうした力の拮抗から生まれる描くことの出来ぬ紋様を魅せる砂浜。

この世界には人間が我が物顔で居て良い場所はどこにも無いと思ってしまったんだけど、みんなはどう思うのだろう?
先回りせず、1人ひとり確かめてゆけたらいいな。


堤防を超え集落に入る。
真新しい住宅が並んでいる。

「復興」という言葉ではなく「再興」という言葉が浮かぶ風景。
それをより良いものに変えてゆくためには、何が必要なんだろうか、「ここでは無い場所」に暮らしている自分も考え続けなければならない。

震災直後から根性で営業再開したコンビニは、以前の場所から数百メートル移転して営業していて、それは前回と変わらず。ただ、周りの木が育ち、初めて来た場所のように思えた。

Googleで検索すると営業している食堂がいくつかあった。
ひとつめ、営業してなかった。
ふたつめ、駐車場に多くの車があって、よしここで食事しよう!と。
しかし、現金しか使えないとのこと、財布の中の3,000円で食べられるのはエビフライ定食くらいで、名物の鰻重は、今度だな…


しょうがない、3,000円ちょどくらいになるようビールの中瓶を一本頼むと「お車ではないですか?」と当たり前の質問。
「いや、歩きできました」と答えると、しょうがない、そりゃ怪訝な顔されるわな、、

10km以上歩いたからなんてこと関係なく、ほんと美味しいエビフライ定食を食べることが出来た!
こんなん15年前には考えられなかったことだよ。

お店の方にうかがいことが山のようにあったんだけど、でもそのほとんどはこのエビフライが語ってくれたはずなので、「また来ますね」とだけ伝えてお店を出た。

うん、やっは次はぜひ鰻重を食べたいぜ、豊間。