137ヶ月4日もしくは 77年め


今日は2011年3月11日から4,175日
596週3日
11年5ヶ月4日
137回めの11日から4日経った8月15日。
太平洋戦争が終わった日から77年です。

7月31日に展覧会を開催している長崎県諫早へ。
生活雑貨とカフェを営むオレンジスパイスのみなさんと久々の再会。
開業から28年の底力ある現場は相変わらず素晴らしく、
この場所を維持してこれた力というものをあらためて考えてみました。

次の日は福岡へ。
出会った、絡み始めて16年。
相変わらずぶっ飛んでアート作品を産み続けているアトリエブラヴォへ。
以前からスタッフが更新された中、次世代の福祉の風景を見せてくれてるのが嬉しくて、
予定よりずっと長居して、商品開発のブレインストーミング。
「障害を持っている」と呼ばれる人たちと当たり前に触れ合い、当たり前に16年の時を重ねてこれたこと、これは未来だなあ〜。

その後薬院のカフェsonesへ移動。
現在ケータリングに力を入れている店とは、
0年代の多くで心通う現場作りをしてきた仲間。
そのケータリングカーにペイントの依頼を頂きました。

オーダーされた絵柄から、ボクなりに魂の逸脱。
福岡の街のこの店じゃなきゃ描けないものを提供できたはずです。

夜は、やはり多くの現場を共にしてきた仲間のライブ。
小さくても軽やかに深い表現の現場は福岡ならではだな〜

浜田真理子さんなどという憧れの存在とも出会え、
福岡の底力を感じながらカミさんの実家のある北九州へ。

先に来ていた中一の息子と合流し、
大変なおもてなしを頂き、人のありがたさを感じ…

自分がこうして善き人に恵まれている意味とは?

善きものに恵まれたら、その逆にも視線を向けた方がいいねと。
ほんとギリギリまで悩んでいたけど、息子を連れて広島に行くことにしました。


もともと息子を広島や長崎、沖縄に連れてゆくことだけは自分の責任として行うつもりだったのだけど、
中1になって自我が急激に芽生えたように思えたので、このタイミングだろうと、1ヶ月半前に自分ひとりで来たばかりだけどね、広島平和公園を目指しました。


ボクが震災後の東北を目指した大きな目的のひとつは「息子に自分の言葉で震災を語れる大人でありたい」と思ったから。
そう思った背景には、中越地震でのボランティア参加や、福岡西方沖地震後の活動などと共に、広島や長崎、沖縄で戦争の記憶を探る旅を続けてきた経験があります。

そうした経験で得たことは「ひとりが語る言葉の重大さ」
もしくは「ひとりを失うことの重大さ」

個人的に3度めとなる広島平和記念館は、数年前の改修でより「ひとり」というものにフォーカスされた展示になっているイメージで(以前は「原爆資料館」的なニュアンスも強かった印象)、12歳男子はそこでどんな言葉に出会うのか、受け止めきれぬこともあるだろうけど、まあ俺がついてるぜと、彼の背中を追うように展示室を巡ってゆきました。

もともと文章を読む能力の高い息子ですが、展示されているほとんどの言葉をインプットしているようで、ゆっくり時間をかけ、たまに椅子に座り込みながら、広島であったことに向き合っていました。

その後ろ姿を見ている自分は、多くの思いが心の中で交差していたんだろう、ある意味感情が真っ白な感じしていました。

息子が来館者用のノートに刻んだ言葉を見ると「この戦争で人は人でなくなったのだ」という言葉。
ボクはあらためて真っ白な心にこの言葉を書き込み、残りの人生を歩んでゆくことになるんだろう。

そして、広島向き合ったことに対して12歳はこれからどう生きてゆくのだろうか?

正義感の強さが脆さに思えてしまうことのある12歳だけど、この日のことがひとりでも人を救うことに繋がるよう見守り、ただ暴力の芽が見えたら、その根を断ち切ることは大人の責任をしてやって行かねばだなあ。

そんなことを考えていたら、旅の最後に鹿児島の知覧に行ってみようと思いました。

北九州-広島の後、熊本で楽しい仕事を頂き、そのクライアントさんである高橋酒造さんが米焼酎を醸す人吉の多良木町まで連れていってもらい、長年の酒造りが人と自然とが共生した美しさの中で行われてきたこと、2年前の豪雨被害からの復旧状況など確認。(復興ではなく復旧だなあ)

明治維新というものがあり、
主権がちょっと「民主」というものに振れつつ、
西洋列強の植民地支配は相変わらず脅威で、
いくつかの戦争で成果を残すも、
農村や漁村といった日本を支えてきた人々は貧しさの中にあり、
軍事国家を維持することを、さてどうしよう。

ボクなんかが簡単に語れる判断なり思い込みなり勘違いも重なったりしたんだろう。

ただ、今めにしている多良木の風景はなんて美しいんだろう。

人がなんとか生きようとして力合わせ工夫し生まれた景観、そこで酒を造り続けることの豊かさ美しさ。

こんな人と自然との風景を心にインプットして知覧へ。

自分の中でモノクロの映像であった知覧は、緑豊かな台地の上にありました。

島津藩の出城としての城下町として栄えた歴史ある街並み擁する土地で、戦争遂行のための合理的な判断で戦闘機乗りの訓練場として整備された知覧が、戦争末期には沖縄戦での特攻の出撃基地と変化したこと。

本来エリートである若者が武器にされること。
その作戦立案した者、指示した者など、そうか、今の自分より若い人だったんだ。

そして12歳の息子もあと5年、17歳で特攻に加わった人がいたこと。

青年の「純粋」を戦争遂行に利用したことについて、答えを求めずあれこれ考えてみたが、無感情という状況になったのは、初めて東日本大震災の被災地である福島県の豊間に行った時、広島に行った時、沖縄の摩文仁に行った時と同じ。

ただ、豊間で出会った少年との会話、
ボクが「あの辺は被害が少なかったんだね」という質問に、
「少なんくなんか無いよ!2人も死んだんだ」という言葉が心のなかでループして響いていた。

こうしている間も、世界のどこかで戦争が行われている。

東京にもどった8月6日。
広島の平和祈念式典を見ていると、子供たちが「平和の誓い」で「多様性を尊重することが平和に繋がる」と語っていた。
戦後77年の今、多様性から平和を語れる世代が生まれて来ている。

自分が社会に向ける視線もさらに豊かに磨き、ついつい見落とされがちな身の回りの小さな美しさに気づき、大切にしてゆく人生を歩まねばならないと考えている。

自分の中で色のついた知覧という場所が、若者の純粋を未来に繋ぐ場所であるよう願いながら、鹿児島中央駅行まで1時間ちょっとのバスに揺られた俺です。

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