‘柳津’ タグのついている投稿

180ヶ月め_会津から飯舘村へ

2026 年 3 月 11 日 水曜日


今日は2011年3月11日から5,479日
782週と5日
15年
180回目の11日です。

15年前の3月11日の夜の闇の中でボ〜ッと光を放つテレビやPCのディスプレイを凝視し、
「これは10年、20年かかるぞ」と直感したことは、間違っていなかったと思う今です。
今朝は論調に違いのある新聞2紙を買って読み比べしてみましたが、
震災から15年の記事の隣で、イラクで起きている戦争を伝える記事が辛いです。

15年前、自然の中で人はどんな存在であるのか、私たちは強烈な痛みと共に学んだはずです。
が、東日本から視線を広げて眺めてゆくと、人の死こそが目的のような行為が行われている。

あらためて、私たちは15年前の東日本の春に何を見て、何を感じ、誰と何を語りあったのか、
ひとつ大きな深呼吸をした上で振り返り、思い出す必要があると感じた、
気がつけばまだ180回目の11日です。

先日は福島県の奥会津から福島市、飯舘村と巡ってきました。」

福島県立博物館のご縁で2017年よりアートプロジェクトとして関わってきた奥会津の柳津町。
その公民館で開催された、奥会津エリアの伝統的な食文化に出会えるイベント「ままんま博」に参加。


雪深く冬の長い山間の土地で工夫を重ねられてきた、乾物、塩蔵、発酵などの技術で「生かされる」奥会津で採れる食材やはるばる海沿いの土地から運ばれる食材が、それを美味しくいただくために必要な手間をかけられ、おご馳走に変わる、当たり前にしてもはや貴重な知恵が、やはり美味しい。
美味しいだけじゃなく、この季節にこれを食べたからこその体調の良さが実感されちゃうのです。


今回提供された山菜などは、昨年の春のシーズンに山で採られたものだけど、
昨年はその採集に、福島県の都市部の子どもたちと参加するイベントに参加させてもらって、
生活圏である「その辺の山に生える食材」を採取するお母さん方の姿を、めちゃくちゃかっこ良く思ったんよね。

ボクは群馬県の赤城山の南麓、関東平野が始まるあたりで生まれ育ったんだけど、こんなお母さん方の姿は良く見てたし、実際に婆ちゃんの後について山歩きなんかもしていた。
が、高度経済成長が行き着いた先で、里山の知恵の多くは失われてしまったなあと。
自分史の中の最初の喪失として捉えています。

こうした喪失の裏には、残すべき良き文化を言語化出来ていなかったことはあるだろうなと。
確かに「良きもの」とは手間のかかる仕事で成り立っていて、しかしその多くが人ひとりを生かすような価値観のもので、決して大きな収益があるわけではなかったりします。

それでも、その不合理性の中に光る美しさは、やはり人を生かす力になるな〜ということは、この15年のフィールドワークから学んできたことです。


今回の「ままんま博」では、お二人の先生の講演会がありました。

登壇されたのは、ジャーナリストの森枝卓士さんと山形大学農学部の江頭宏昌教授。
どちらも食の研究のスペシャリストで、楽しい話ばかりであっという間の時間でした。最後に質問コーナーがあったので、ボクもひとつ質問。
「森枝さんは熊本の水俣出身で、江頭さんは福岡の北九州市出身。そのお二人が東北で食の研究をされ、今奥会津の柳津でこの地の伝統的な食について語られているのが面白い」みたいなこと。九州も東北も足繁く通った群馬県生まれのボクは、九州の方が「これ美味しいよ〜」などと言葉にしていろいろなものを食べさせてくれたのに対して、東北の方は「まあ食べてみてくれ」のような奥ゆかしい振る舞いをされる方が多いなと。群馬に至っては「うまいもんなんにもねえけんどな」みたいなひと言から食を勧められることばかりだったなと。

森枝さんも江頭さんも、東北とは長いお付き合いだけど、それでも食を楽しそうに語る姿が、やはりボクの知る九州人だなあ〜と。

こうした異文化の交流の中で、『私たちの日常』にはどんな価値があるのか、これからさらに加速させ言語化してゆく意味を感じた、美味しい、おいしい、ままんま博でした。

会津からの帰り道に猪苗代駅で途中下車、「はじまりの美術館」へ。

この日から始まった『日本各地の福祉作業所で生まれたグッズの展覧会』福祉とアートの手しごと市「ぐつぐつグッズ わくわくアイデア」がとても楽しい内容で、自分が関わることの多いジャンルでもあり、多くの学びを得ました。


自分が障害を持つ作家さんと本格的に何かやるようになったのは、福岡のアトリエブラヴォに勤めていた原田さんと出会ってから。
「インクルーシブ」なんて言葉が世の中に無かった時からそのオープンなマインドをフル回転させ、インもアウトもごっちゃ煮させた状況創りをしていて、自分も自然と巻き込まれた感じ。

あの頃すごいなと思ったアトリエブラヴォの「当たり前」は(それ以前から活躍されていた”たんぽぽの家”や”工房まる”などなども含む当たり前)が、20年経ってかなり日本の当たり前になり、10数年前に設立された「はじまりの美術館」を飾っている。

グローバルの意味がかなり変わって聞こえるようになった今、自分は引き続き日本ローカルを歩き、必要とされることを仕事にしてゆきたいなと思いました。

で、ふと、飯舘村に行っておけたらいいなと。
調べてみると「路線バスで行けるんだ〜〜!」これまで数度訪れた飯舘村へは、すべてどなたかの車に同乗させてもらっていたので、今回初めて自分の力で行って歩いてみることにしました。ということで、福島駅前で一泊。

2026年3月7日土曜日の夜の福島市街、人がたくさんで多くの店が賑わっていました。

ボクの初めての福島市は2012年1月。
息を潜めるように雪に覆われていた街の印象は、福島に知り合いが出来る度に更新されて行ったのだけど、それでもコロナ前辺りまでは、知り合った人たちの姿しか見えてなかったはずです。

が、ここ数年で「福島ってこんな活気ある街だったんだね〜」と気がつく、名前を知らぬ多くの人の姿に目が行くようになって、今回。

この賑わいの先、飯舘村で何を見るのだろうか?答えを先回りせず歩けたらいいなと思いました。


福島駅から飯舘村中心地へはバスで1時間10分ほど。
1日6往復のバスが、福島-飯舘-南相馬を結んでいます。
途中福島市内の翁病院を経由しているので、かなり重要なライフラインとしての路線バスなんだろうね。

で、飯舘村までは体感すぐ着いてしまったという印象。

車で送ってもらっていた時も同じなはずだけど、路線バスでストレスなく着いてしまうということは、このエリアの通行量がまだまだ少ないってこともあるんだろう。
なんだけど、途中の山間の道から見える風景は美しく豊かで、若くて初めて来る人にとっては15年前にあったことを想像するのが難しいのではないだろうか。


阿武隈の山並みを縫って、「水境」という地名を超えると飯舘村。

フッと空気が変わる感じがするのは、この土地に生きてきた人たちが地域に与え続けてきた愛の力によるものだろう。


この日はかなり強く冷たい北風が吹いていて、よそ者の自分は「いい加減な気持ちで見てまわるなよ〜」と言われているようです。


農業用にまっすぐに掘られた川面に北風が起こす波紋がキラキラと。
やはり歩かなければ知れないものはあるね〜

歩いてゆくと、健康のために歩いているお年寄りとすれ違うことが数度。


ガス燈のようなデザインの街灯が、山を縫うように走る道沿いに連なって建てられているが、これはいつ設置されたものだろうか?検索してみると震災後のようだけど、後でも前でも、この土地にこのデザインのものを設置した方が良いと考えた人がいたってことなんだよな。歩いてゆくと、お地蔵さんや何かの石碑に多く出会う。

役場前はアート作品が多く設置されていて、設置年を見ると1993年あたり、役場が新築されたのと同時期に設置されたのが多いみたい。
公民館のような施設だろうかには、やはり1993年に故郷創生事業として制作されたレリーフなどが設置されたいた。
竹下内閣の故郷創生事業は1988~9年あたりだったが、そのお金で作られたのかは不明。
アニメキャラを堂々と描いたモニュメントに著作権の問題はあるだろうけど、けど、誰かが「ここにこんなんあったら子どもがたちが喜ぶだろうな」などと願い設置した。なんて想像すると、泣けるぜ。

これまでは車でサッと通り過ぎていた街を歩くと、なるほど、空き家はあるなあ〜。
最近まで帰宅困難エリアが残り、現在も村人の多くが帰村できていない飯舘のリアル。

なんだけど、
点で見るから引いて眺めるまで、どこをどう見てもここが美しい場所であることがわかる。
そしてその美しさは、この土地を愛した人たちの手が入っているからこそ保たれれ来たことがわかる。
その愛の手は、2011年の原発事故後も、可能な限りこの土地に入れられ、この村を保ってきたってことが、痛いほどよくわかる美しなんだ。

村にはやはりあちこちに石碑があって、それは「ここに石段を造った」とか、「ここに灌漑施設を造ったとか」「ここに学校があった」とか、「ここで唄が生まれた」とかが記されている。


阿武隈の山間の土地に可能性を感じた人が入植し、灌木の林やごろごろ転がる大きな岩を排除し、田畑を切り開いて生まれた美しい村、飯舘。

今の都会の暮らしと比べて不合理に見えてしまう暮らしの細部に「ここで生きる」というプライドが宿っていたのが、やはり切実に伝わってくる。

ここでは、昨日会津の柳津のお母さんたちが作っていたような『この場所だからこそ』の食べ物があったんだろうか。
15年より前の飯舘を知らぬ自分です。

が、そうした人が大切にしてきたことを、札束なのか便利さなのかの定規で計り、いわばバカにするような振る舞いでやってきてしまったことがあった。

そして、そこで生まれた電力を使って生きていたのも自分なんだよな。

15年前に気づいたはずのことを、あらためて自分の足の裏と、強烈な北風に教えてもらった飯舘フィールドワーク。

それは自分がまだ子供の頃に失ってしまったと思った故郷のことをあらためて考えるきっかけにもなるし、きっかけにしなくちゃ人間としてどうかしているってことだぜ。

うん。まだたかが15年。たかが5,479日。
やること、やれること、やるべきことばかりだ。

昼メシはこれまで何度か行ったうどん屋で。

日曜の午後。
工事で飯舘に入っているおっちゃんグループが、帰り際に「ここのは日本一うまいうどんだ」と言って金を払っていたけど、自分の心の中で「そーだ、そーだ!」とエールの交換。

このうどんが食えるなら、次は花の季節か草萌える頃かにまた来ます、飯舘村。


今日は強い北風の中、健気に咲くオオイヌフグリの花がまぶしかったぜ。

128ヶ月め

2021 年 11 月 11 日 木曜日

今日は2011年3月11日より3,898日
10年8ヶ月
556週6日
128回めの11日です。

今回で5年めとなる福島県奥会津エリアでの子どもワークセッションが、
来週より始まります。

今回は2017年の初回と同じく柳津町の子どもたちと、
地元を描き続けた版画家、斎藤清さんの作品を通し地域の魅力を再発見しよう!
という大人向けのテーマを掲げつつ、

どんな山間のエリアでも、ネットで情報が共有出来てしまっている今、
ローカルに生きる子どもたちに何かを与えるというより、
彼らの中にあるものを共有することから始め、
思いがけないものに出会えたら思いっきり驚いてみたい!

そんなセッションにするつもりです。

しかも、今回は同じ町内でも生活エリアに隔たりのある柳津小学校と西山小学校、
それぞれの学童保育を利用する子どもたちに、それぞれのエリアならでは発想を持って臨みます。
!)これは学校単位の企画なので、一般の募集はありません。。


主催者の福島県、共催の町立斎藤清美術館、企画運営の県立博物館学芸員チーム、
お手伝い下さる地域おこし協力隊のみなさん、サポート下さる法人との企画会議では、
まずは「山間のエリアに暮らす子どもたちにもアートを与えたい」という考えが示され、
そこから発想されるワークショップ案を提示されるのだけど、
前述の通り、
まずは山間に暮らす子どもたちが何者なのかを知るのが先では無いかなと。

「多様性」というワードが発想のスタートラインにしっかりと記されている今、
奥会津というとても貴重な土地に暮らす子どもたちに、
都会で暮らす子どもたちは当たり前に手にしているであろう価値を、
都会の子どもたちと同じく与えてあげたい、そんな考えの前にやっておくべきことがある。

もしくは、そうしたことは学校というシステムで行なった方がスムースであり、
ボクのような個人が行う必然はないんじゃないかな?とかね。

そもそも、柳津と西山とでも違いがあって、それが面白い!

みなさんが真面目に考えてきてくださった案を、申し訳ないのだがひっくり返し、
発想の荒野にみんなで立って、子どもたちにとって今必要なものはなんだろうか?
それはそのまま、私たちにとって必要なものはなんだろうか?という投げかけとともに
考えてゆきました。

この企画と並行したタイミングで、いくつかの子どもたちとの企画が動いていて、
そこでも変わらず、
東京でイラストレーターやっているボクのような者が地方の子どもたちになにか素敵なものを与える、
そんな考えをひっくり返して考えてもらうことから始め、
子どもたちが何者なのか、何を必要としているのかを、アートの力を使って知ってみよう。
何かを与える、もしくは共有するのはそれからでいいんじゃないか。
それはそのまま、そこに暮らす大人たちが何を必要としているのかの気づきの現場とはならないだろうか?
そんなことを語り続けています。


「震災から10年」というワードの魔法が間も無く切れる今。

しかし、今からやらねばならぬことばかりです。

ボクが向き合う大人は、子どもたちのことを真摯に考えている素晴らしい方ばかりです。
ボクは彼らが愛す子どもたちと共に、そんな1人ひとりの大人の心もオープンに解き放たれる、
そんな必要があると考えています。

柳津セッションのフライヤーデザインは今回も江畑さん。
彼女もまた地域おこし協力隊として会津に入り、
このプロジェクトに5年に渡り関わり続けてくれてます。

とてもセンス良い人で、
最初の頃はとても繊細で綺麗なデザインを投下してくれていたのが、
ボクが毎回ガチで子どもたちと絵の具遊びしている姿に慣れたのか、
今回はとてもタフで美しいデザインにしてくれ、
このフライヤーを手渡された学校の先生からも「綺麗!」と歓声が上がったとのこと。

なんつーか、彼女の生きる免疫力も高まったような5年。
こういうことが日本中で起きたらいいなと、
次の10年はそんな10年であればと願っています。


この秋何が生まれるのか、
楽しい報告が出来るようがんばりますね〜〜!