‘ヒトト’ タグのついている投稿

162ヶ月め

2024 年 9 月 11 日 水曜日

今日は2011年3月11日から4,933日
704週5日
13年6ヶ月
162回目の11日です。

福島県の飯舘村のフィールドワークで描いたスケッチで映像を作りました。
映像に添えた曲はハルカストリングを主催するギタリストファルコンの「美しき様々の夢」
歌は盟友 Eri Liao 、スケッチに登場するのは祐香さん

2022年9月に初めて訪れた福島県の飯舘村。
https://yakuin-records.com/amigos/?p=15465

自然エネルギーの発電会社飯舘電力とのアートプロジェクトのため案内された飯舘村では、飯舘電力の千葉さんが熱心に村や自然ネルギー、原発事故の被害についてレクチャーしてくれました、

しかしその情報量の多さ、そもそも被害の重篤さ、未来の想像しづらさに、自分は混沌とした荒野にポンと放り出されたような感じで、なかな自分の言葉が思いつきません。

電力にまつわるマッチョなイメージから脱却し、サスティナビリティと紐づく電気への更新など、飯舘電力としてだけじゃなく、日本の社会のあり方も考える必要がある中、自分は飯舘村や飯舘電力をモチーフとして何を描けばいいのだろうか?

それでもその土地に暮らすだれか1人と親密な関係が構築出来たら、これまで東北の被災地と呼ばれる土地でやってこれたようなこと、自分の言葉で語る作品制作が出来るはずなのですが、あれから10年ちょっとの『帰宅困難区域の解除が進み始めた』というフェーズの飯舘村では、まだ難しいことに思えました。

そこで、誰か自分以外の1人と飯舘を歩くことで、自分1人では得られないことに気がつけるんじゃないかと考え、初めての飯舘村から半年後、2023年3月13日、福島生まれで、震災後志を持って故郷の力になることに尽力してきた祐香さんにお声かけし、飯舘村のフィールドワークにお付き合いして頂きました。

2023年3月ボクは東日本大震災発災から12年の11日まで、東京都内で7回目の開催となる「東日本」と名付けた展覧会を開催していました。


明けて12日に福島市に移動。
祐香さんの活動の拠点のひとつ、食堂ヒトトで福島の仲間と再会。
これから自分が発想し実行することにどんな形でも良いので、ご協力頂けるようお願いしました。

ヒトトは震災以降福島の人に請われて生まれた食堂。

福島生まれの米や野菜を使った料理は、動物性の素材を使わないものですが、ガッツリ力強くとても美味しいです。
そんな店は隣のギャラリーで、お店で使う食材の生産者をピックアップした展覧会を開催していました。

展示に関わるほとんどのものが手作りの展覧会は、展覧会慣れしている自分にとってもとても新鮮なもので、この場所で多くの時間を過ごし、ヒトトに関わる人にとっての福島を心に沈めました。

この日は震災以降長く続けられているイベント、ASYLUM 2023 in Fukushimaが福島市郊外の正眼寺で開催されているとのこと、自分の音楽関係の仲間も関わるイベントに初めて参加することが出来ました。

震災と原発事故発生から今に至るまで、悲しみや怒りの炎が燃え続けている現場。
そんな感情以上に12年の憤りのようなものをより感じた時間。

突然友人のとんちピクルスにステージに上げられたので、しょうがねえ、悲しい唄をひとつうたいましたよ。

あくる日の朝、祐香さんにピックアップしていただき飯舘村へ。

お互いの近況を確認しながら、たまにパラつく雨の福島の中通りから山間の道を浜通り方面、50分ほどで祐香さんにとっては初めての飯舘村へ到着。

特別目標も決めず村内をめぐり、気になる風景があれば写真を撮る。
それだけのことだけど、誰とどんな会話をしているかで、風景は違って見えます。


祐香さんは目の前の風景の何を見ているのか?
そんな興味は自分に新たな視線を与えてくれるのですが、実際彼女が何を見ているのかは想像するばかりで、言葉で訪ねるようなことはしないでおきました。


そもそも新型コロナウイルスが5類に移行される2ヶ月前で、マスクをした顔の表情がわからないのです。
スケッチは後日、このフィールドワークのイメージから想像し、顔を描いています。


彼女との出会いは2009年だったでしょうか、
栃木の那須のSHOZO COFFEE が運営するアパレルショップ、04STORE のスタッフとして働かれている時でした。

SHOZO の美意識に惹かれていた自分は,04STOREで1枚のTシャツを買いました。その時対応してくれたスタッフのお姉さんが実に丁寧で、アパレルショップが苦手な自分が、そこにいることに居心地の良さを感じてる。買おうと思って手渡したTシャツを、またまた実に丁寧に畳んで、丁寧にラッピングし紐をかけて、クルッと回して、とんでもなく大切な何かを差し出すようにボクに手渡してくれた。経済的な効率とは縁遠い丁寧な所作。その一部始終が店の窓から溢れる西日の中でキラキラ輝いて見えて、自分はここで何を買ったんだろうかって、ぼーっと考えちゃってね。
そのスタッフのお姉さんが祐香さんで、ボクは彼女に恋したようのこと書いているけど、いやいや、なんだろ…

それはきっと、自分は自分の仕事にそこまで丁寧に向き合えているのか?という自問なんだろうね。
(ボクは男女問わず働いて綺麗に見える人全てが年上の先輩に思う習性があるしね)

SHOZOのオーナー、菊池省三さんと接した時もそうだけど、今自分が描いている絵は、はたしてこの人が働いている現場に飾れる価値のあるものなのか?みたいなことを自問し、自分の描く絵を見つめ直し更新させなくちゃと思った。それを実現させるためになのか「このTシャツは今後この店だけで買おう」と心に誓ったりもしたのです。

そのTシャツは湘南の葉山で作られ、代官山でも買えるのだけど、家から200km離れたこの店で彼女から買うことに意味があるんだろうってね。


そして2年後に東日本大震災が起きて、原発事故が起きて、SHOZOのある栃木も、自分が生まれた群馬も、それぞれ被害を被り、まず自分が東京から向かったのがSHOZO。
そこを足がかりに福島へ、さらに北へとボランティアやフィールドワークのエリアを広げていったのですが、原発事故に対してはアプローチの糸口がどうしても見つからなくてね。ネットを除けば持論の石礫を投げ合うような風景ばかりで、そこにリアリズムを感じられず。自分はそうした先回りした主張に振り回されることなく、自分1人のサイズで受け止め語れることを手にしたいなと。福島ではまず誰か1人との確かな関係性を得ることを優先させました。

ところで、ある日SHOZOから祐香さんの姿が見えなくなって、どうしたんだろうかと。


2016年、ボクはSHOZOから「那須の花を描いて展覧会を開催してくれ」とのオファーをもらい、
立春から初夏にかけて何度かSHOZOに滞在していました。

そこで今は故郷の福島に戻っているという祐香さんと再会。

そのそもあなたは福島県出身の人だったのですね。
そんな今更な会話から、今彼女は震災以降深刻な状況に置かれた福島の力になりたいと願い、福島に戻る決断をしたんだと教えてくれました。

「あの日のTシャツ」に感動した話をすると「いやいや、あれはただ緊張していただけですよ」と謙遜する彼女でしたが、ボクはあの日Tシャツを丁寧に畳んで渡してくれた人ごしに福島を見たらいいのだろうと直感。福島での再会を約束しました。

その年の夏に祐香さんからメッセージが届きます。

今度福島市に出来る食堂ヒトトのオープニングスタッフを務めることになったとのこと。

吉祥寺でマクロビオテック・ヴィーガンの店として有名だったヒトトが閉店するということで、店主であり日本の古来種の野菜の種から育てた野菜を大切に考える奥津さんに対し、「福島を自分たちが望む姿に育てて行きたい」と望む福島市のグループがオファーをし、福島に誘致。
その店長候補として白羽の矢が向けられたのが彼女だということです。

原発事故以降、食や健康に不安を感じる人が少なからずあったであろう「あの日から5年の福島」で、ボクは祐香さんの周りで起きていることは、とても真っ当な発想だろうと思いました。いや、もしかしたら日本で最も新鮮な何かが福島で起きようとしている?

実際、祐香さんから紹介される福島のコミュニティの人たちの顔つきがいいんだよね〜。
そして、震災と原発事故から5年間、考えて、考えて、考え続けてきた人たちの発想は、やはり東京より未来にあるように思えたのです。


その年、2016年の11月末、ボクは雑誌「暮しの手帖」で『5年後の被災地を巡る取材旅』に出ます。

2011年3月11日から親交を深めた宮城県気仙沼唐桑を目指す途中、福島市で立ち上がったばかりの食堂ヒトトに寄りました。その頃からボクは福島に足繁く通うになり、徐々に増えていった仲間と「最近どう?」なんて会話を交わし、1人ひとりの実感としての福島を知るようになります。


2016年、そういえば3月に初めて会津に行ったの年でもあります。

そして2017年、ついにこの飯舘電力のプロジェクトも進めてくれている、福島県立博物館の学芸員チームとの知り合い、奥会津エリアの子どもたちとのアートプロジェクトも始まります。

そんなこんなの展開があっても未だ原発事故を肌感覚で掴むには至らず、これに関してはともかく自分のペースでじっくり確かに受け止め、自分の言葉で語れるようにしてゆかねばと。
いや、こうした事が言語化出来たことだけでも、ここまでの人との繋がりは有り難たいし、自分らしく確かな行いである実感は手にできたはずです。


2016年からもう8年が経った今、祐香さんもボクもそれぞれ色々あったね〜。

彼女はヒトト立ち上げからしばらくして、ヒトトに関連した都内での仕事に就くも、また福島に戻り自身の焼き菓子ブランド「コケス」を立ち上げます。それは彼女と出会ったき生産者さんの素材を作った「The食い物」と言えちゃうくらい美味しく豊かな食べ物だとボクは思います。そして、福島市を代表する果樹園”あんざい果樹園”を手伝ったり、彼女なりの福島への貢献を実践している。


飯舘村でのフィールドワークの帰り道は土砂降りの雨。

だよね、ちょっと来たくらいで分かった顔すんじゃないぞ!そんな雨だろう。

福島市に着き、飯舘電力本社へ。

前回のフィールドワークでお世話になった千葉さんに祐香さんを紹介する。

そして、なぜ自然エネルギーの電力会社を立ち上げたか、から今ある課題までを一気に話してくれた。

その多くが祐香さんの知らないことだった。

しかし飯舘電力も、福島市で実り始めている街のコミュニティと接続しておらず、千葉さんと祐香さんの間にあるもの、そして無いものを考えることが、自分の仕事になりそうだと思いました。


ひとつ浮かんだのは、
大手でも飯舘電力でも、もしその現場に「1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれるような人」がいたら、自分が使う電気はどんな色に見えるだろうか?
そんなこと。

その日「おつかれさま〜」と蕎麦屋で蕎麦を食べていると、祐香さんが婚約したことを話してくれた。

やったね!1枚のTシャツを大切に畳んで差し出してくれた人。

そしてボクの福島での物語は、ここからさらに深みを増し、
サスティナビリティのイメージはさらに淡いピンクに染まる。

2023
0313
PEACE!!